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北陸関連の図録・資料文献・報告書 第8回 小浜市制70周年特別展示「小浜商人と北前船船主 古河屋嘉太夫」(小浜市役所 文化交流課 編集・発行)
- 2024/4/25
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北陸関連の図録・資料文献・報告書 第8回 小浜市制70周年特別展示「小浜商人と北前船船主 古河屋嘉太夫」(小浜市役所 文化交流課 編集・発行)
小浜市制70周年特別展示「小浜商人と北前船船主 古河屋嘉太夫」(編集・発行:小浜市役所 文化交流課、2021年11月発行)
小浜市制70周年特別展示「小浜商人と北前船船主 古河屋嘉太夫」
主催:小浜市役所 文化交流課
会期:令和3年(2021年)11月26日(金)~12月5日(日)
会場:若狭図書学習センター 多目的ホール(福井県小浜市南川町6-11)
本書は、福井県小浜市文化交流課が、2021年11月26日から12月5日まで、若狭図書学習センター多目的ホール(福井県小浜市南川町)で開催した小浜市制70周年特別展示「小浜商人と北前船船主古河屋嘉太夫」の展示図録。1951年(昭和26年)3月30日、遠敷郡小浜町、内外海村、松永村、遠敷村、国富村、今富村、口名田村及び中名田村が合併して、小浜市が発足。その後、1955年(昭和30年)2月21日に、遠敷郡宮川村及び大飯郡加斗村が小浜市に編入し現在の小浜市の区域が成立。2021(令和3年)は小浜市制70周年。
江戸時代、日本海沿岸各地とつながる「海の道」と都とつながる「陸の道」が交差する若狭小浜は、北前船による日本海交易の発展により京都・上方への物資中継地として繁栄を極め、特に廻船問屋・北前船船主の古河屋嘉太夫家などの小浜商人は、日本各地を舞台に活躍。本書展示図録・対象特別展示では、古河屋の歴代当主の肖像画や藩主との交流・経営手腕がうかがえる文書を紹介しながら、歴代の北前船船主古河屋嘉太夫の活躍だけでなく厳しい商人の世界を紹介。更に、海に開かれた若狭小浜の繁栄ぶりや豊かな文化も紹介されている。
江戸時代の地誌『拾椎雑話』’1757年成立)では、「小浜繫栄、就中延宝より元禄之頃、宝永・正徳はさらなり」<延宝(1673~1681)元禄(1688~1704)宝永(1704~1711)正徳(1711~1716)>と記し、17世紀後半から18世紀初頭にかけて最も繁栄した事を伝え、小浜は、日本海各地の港々と京都を結ぶ最短距離に位置して、京都をはじめ上方に向かうたくさんの物資や人を中継する役割を担う日本海側屈指の港町として発展。その後、河村瑞賢が開いた北国から日本海沿岸・瀬戸内海を通り巨大市場の大坂に直接向かう西廻り航路が安定確立した後は、小浜が上方へ物資を中継する役割は低下し小浜に入港する船は減少していったが、江戸時代を通して京都への物流の中継都市としての役割は変わらなかったとのこと。
1634(寛永11年)に3代将軍徳川家光(1604年~1651年)が腹心で老中の酒井忠勝(1587年~1662年)に若狭一国と敦賀の11万3500石を与えて小浜に入国させ、海に開かれた城下町・小浜の歴史が始まるが、プロローグは「海に開かれた小浜城下町」として、まず、最初に、幕末から明治初年の小浜城下の様子が描かれた六曲一双の図屏風「小浜城下鳥瞰図」(小浜市所蔵、酒井家文庫)が取り上げられている。これが非常に見ごたえあり、当時の小浜城下の繁栄ぶりや、現在の市域との比較をしながら見るのは非常に楽しい。右隻には、西津侍町、三層の天守閣を擁する小浜城、大手橋の番所、川崎の砲台場と停泊する北前船などが描かれ、左隻には、竹原の侍屋敷、藩校順造館、さらに小浜五十二町(小浜の町割りは1684年に改められ52町となり、1874年まで続く)が描かれている。
本書は、プロローグの他に4章に分かれてはいるものの、内容的には、本書タイトルに相応しく、「第1章 北前船船主 古河屋嘉太夫」が中心で、展示資料も全49点のうち、33点が「第1章 北前船船主 古河屋嘉太夫」関連で、更にそのうち、展示資料29点は、個人所蔵の「古河屋嘉太夫家文書」の資料。蝦夷から日本海・瀬戸内海沿岸を通って大阪に至る西廻り航路を行き来し、途中の港々において特産品を売買する買積船の北前船が誕生するが、物資の中継都市としての役割が薄れていく中で、小浜を代表し江戸時代に広く諸国に知られた廻船業者となる北前船船主、古河屋嘉太夫(ふるかわや・かだゆう)が登場する。
元々、代々、漁業と魚商売を営んでいた初代・教俊(1678年~1764年)が、能登で鰤積の商売をしていたが、遭難して着の身着のままの姿で小浜に帰ってきて、その後、自らの経歴を生かして小浜の廻船業者の古河屋久右衛門の下で働き、やがて船頭を任されるようになり、遂に、1727年(享保12年)、独立し古河屋嘉太夫と名乗って、西津長町を拠点に廻船商売を始めたのが古河屋嘉太夫のスタート。2代目古河屋嘉太夫教重、3代目古河屋嘉太夫教富が発展の基礎を築き、4代目当主・古河屋嘉太夫教泰(1755年~1816年)の時に古河屋最盛期を迎え、5代目当主・古河屋嘉太夫教宜(1768年~1822年)の時に古河屋の資産が最も蓄積された。最後は、古河屋は、1880年(明治13年)、8代目当主教成の時に、明治12年(1879年)に隠居していた先代の教典が死去したのを機に持ち船を売却して家業である廻船商売を廃業となる。
本図録の表紙は、本展示でも出展された「古河屋船絵馬」(小浜市蔵)で、これは古河屋の船頭たちが嘉永3年(1850年)に奉納した船絵馬で、古河家が所有する嘉傳丸・嘉徳丸・嘉明丸など9艘の弁財船が一枚の絵馬に描かれている。航海の安全を願って古河屋の持ち船に祀られていたと伝わる船仏(古河屋船仏)(小浜市蔵)だけでなく、古河屋の本宅・護松園(1815年9月に古河屋が新たに拠点として建立)の東隣にある金毘羅神社(西津長町)の境内に船玉として船玉神社に奉納されている弁財船の模型や、同じ西津長町の金毘羅神社に祀られている金毘羅大権現の木像も、海上安全を願うものとして、金毘羅神社蔵の資料も紹介されている。
古河屋代々の歴史を記した家譜(古河屋家譜)や、2代目・3代目・4代目・5代目・6代目・7代目・9代目の歴代当主の肖像画も、個人所蔵の「古河屋嘉太夫家文書」の資料から紹介されている。古河屋嘉太夫歴代当主と小浜藩との関係についても詳細に紹介があるが、驚いたのは、幕末・明治維新時の戦費を調達するために持ち船全てを売却して用立てた2万両を小浜藩に献上したと伝わり、その後、明治2年(1869)に3艘の船を買い入れて廻船商売を再開した事。尚、廻船商売は1880年(明治13年)に廃業しているが、9代目当主・古河成一は、明治16年(1883)に8代目教成が若くして亡くなったため、わずか6歳で古河家の家督を相続している。家業撤退後に父を早く亡くした古河成一は、旧小浜藩士の関係者が設立した第25国立銀行に勤め、その後、西津郵便局長となったとのことだ。
更に非常に興味深いのは、個人所蔵の「古河屋嘉太夫家文書」からの古河家のいろいろな記録や帳簿、遺言状から、いろいろな商売に関係する契約書や約束手形などの資料で、当時の商人の商売の仕方や考え方などを知ることができる。また、四代目古河屋嘉太夫教泰が隠居後に西石の寺社仏閣などを訪れた道中記も残っている。古河屋嘉太夫の商売経営の仕方として、分家した4家との間で、4軒で決算・利益分配する決算合算と利益分配のルールを取り入れ同一資本経営で運営されていたことにも驚くが、本家・分家とも相談の上、納得する器量のある人を当主にすることが求められ、もし本家に器量ある人がいなければ、分家の人を当主として迎えるなど、家業優先での人材重視の方針を採っていたこともさすが。
ちなみに分家は出店・新町・今町で、宝暦13年(1763)に分家した出店は、代々古河屋久太郎と名乗って西津西長町で酒造を家業としたが、天保末年(1845)以後は醤油醸造を行い、安永4年(1775)に分家した新町は、代々古河屋久右衛門を名乗り、小浜新町で酒造や問屋業を営み、明和5年(1768)に分家した今町は、もとは2代目当主教重の弟六之助を三島孫右衛門(今町)の養子とし、三島孫右衛門が三代目当主教富の娘と結婚して分家(今町)となったが、代々茶屋孫右衛門を名乗り小浜今町で油問屋と米問屋を営んだと紹介されている。廻船商売の進出先拡大だけでなく、景気や天候に左右される不安定な廻船商売だけでなく、経営の安定化を目指して多角経営化を目指し分家が本家の家業を支える体制が取られていた。
古河屋嘉太夫についての紹介が主ではあるが。本書の他では、第2章で「古河屋に続け ー小浜の商人 志水源兵衛ー」として、木綿屋と名乗って北前船に従事し、江戸時代後期には小浜を代表する商人になる志水源兵衛については、「志水源兵衛家文書」(小浜市蔵)の資料から少し触れられている。第3章では「小浜の豊かな自然をあらわす雲濱八景」として、中国の瀟湘八景をなぞられて小浜の8つの景観を選び、小浜の自然の美しさを詠んだ雲濱八景は、商人をはじめ小浜の町人が作り出した文化として取り上げられている、第4章では「北前船がもたらす食文化」として、北前船が運ぶ昆布やニシンなどの食材が、江戸時代の小浜の食文化に取り入れられたことにも多少触れられている。
尚、本展示図録では、本筋とは直接関係がないので、一切、触れられてはいないが、水上勉氏の『古河力作の生涯』では、冒頭部の2章には、古河屋嘉太夫や古河家について述べていて、「小浜、敦賀、三国史料」に古河屋に触れた一文が抜き書きされている。”古河氏は江戸時代中期以後西津において廻船問屋を営み代々嘉太夫を通称とし、小浜地方において第一の斯界の地位を占めた。先祖は石野孫六といい、西津下竹原村で漁業に従事したが、三代教俊(法号宗哲)は廻船問屋古河久右衛門に奉公し、享保中頃に独立し、主家古河屋の別家となって、西津長町で廻船業をはじめ、古河屋嘉太夫と改称した。四代教重のとき、廻船の傍ら酒造をはじめ、六代教泰のとき、寛政ころには家業次第に隆盛となって廻船七艘を有した。古河家の現当主古河嘉雄氏は嘉永三年八月朔日の日附ある廻船絵馬を所蔵するが、栄宝丸、嘉明丸等九艘の廻船が描かれており、これは三、四百石より八、九百石に至る。明治元年、一時全廻船を大坂に売却したが、翌年三艘を買入れ、家業を続け、同十三年に廃業したという。八代教成のときである”。古河力作(の父慎一は三島孫右衛門の長子として生まれ古河家と関係があったが、古河慎一の母は古河本家の八代教成の姉にあたると紹介。
古河屋嘉太夫(ふるかわや・かだゆう)歴代当主
●初代当主・古河屋嘉太夫教俊(のりとし)(1678年~1764年)
教俊は、能登で鰤積の商売をしていたが、遭難して着の身着のままの姿で小浜に帰ってきた。その後、北国廻船の水主になるが、その技量を買われ、古河屋久右衛門の船頭に抜擢された。50歳の時に独立して古河屋嘉太夫と名乗り西津長町で廻船商売を始めた。主に丹波茶を新潟・秋田で売りさばき、古河屋の基礎を固めた。延享2年(1745)の隠居時の店おろし高が、銀30貫目余、持ち船は二艘。
●2代目当主・古河屋嘉太夫教重(のりしげ)(1706年~1791年)
初代教俊の長男として生まれ、延享2年(1745)に40歳で家督を相続して古河屋嘉太夫と名乗る。教重の代は、大坂・松前に進出し、家業の廻船商売を伸展させたが、景気や天候に左右される不安定な廻船商売だけでなく、経営の安定化を目指して多角経営化を進める。そのため子どもや弟を分家して本家の家業を支える体制を作り、酒造業や問屋業にも進出した。明和7年(1770)に小浜藩の御用金に応じて藩との関係を築く機会を作り、藩の調達金や御蔵米の廻送を担い、三人扶持を与えられた。教重の遺書によると明和7年(1770)の店おろし高が銀260貫目。当代の持ち船は6艘。
●3代目当主・古河屋嘉太夫教富(のりとみ)(1733年~1792年)
田辺(舞鶴市)の商人紙屋仁右衛門の養子であったが、宝暦元年(1751)に2代目教重の養子となり傳太夫と称す。教重の長女まんを娶り、本家を相続するが、正式に藩から承認を受けて古河屋嘉太夫と名乗ったのは、天明4年(1784)53歳の時。
●4代目当主・古河屋嘉太夫教泰(のりやす)(1755年~1816年)
3代教富の二男として生まれ、寛政4年(1792)に家督を相続して古河屋嘉太夫と名乗る。教泰の代には、本家と分家が多角的に手掛ける廻船商売や酒造業などの家業の決算を統一して行い、その利益を「店おろし配当割合書」に従って各家に分配するなど、本家と分家が共同で商売を行う体制を確立した。また、藩への長年の献金や調達金に応じると共に小浜の米手形役所の頭取を教泰以後代々務めるなど藩財政とより密接に結びついた。当代は、藩から古河の苗字や帯刀御免を認められ、50人扶持を与えられた。隠居した享和2年(1802)の店おろし高は3万1277両、持ち船は8艘。
●5代目当主・古河屋嘉太夫教宜(のりよし)(1768年~1822年)
出店初代久太夫の長男として生まれたが、本家の4代目教泰に子がいなかったので養子となり本家に入った。享和2年(1802)に本家の家督を相続して古河屋嘉太夫と名乗る。文化9年(1811)に店おろし高が4万4259両に及び古河屋の歴史の中で資産が最も蓄積された。教宜の代は、文化12年(1815)に新しい拠点となる本宅(護松園)を建築するなど家業は好調であったが、藩から求められる御用金の負担が重くなってきた時期でもある。また、舞鶴の田辺藩の御用も務め、知行百石、家中並みの待遇を受けた。隠居した文化14年(1817)の店おろし高は3万872両、持ち船は9艘。
●6代目当主・古河屋嘉太夫教寛(のりひろ)(1782年~1853年)
文化元年(1804)に出店初代久太夫の家督を相続していたが、本家に適齢の人がいなかったため、文化14年(18179に本家の家督を相続して古河屋嘉太夫と名乗る。教寛の代は、廻船商売で十分な利益をあげられない中、先代と同様、藩財政逼迫による多額の献金に応じざるを得なかった。この御用の功績が認められ10代小浜藩主の酒井忠順を護松園に迎えて190両かけて接待したと伝わる。国学者の伴信友や幕末の三筆と称された貫名海屋(ぬきな・かいおく)などの文化人と交流を持ったという。隠居した天保5年(1834)の最終店おろし高は3万1849両、持ち船は9艘
●7代目当主・古河屋嘉太夫教典(のりふみ)(1809年~1879年)
4代目の教泰の2男に生まれ、6代目教寛の養子となり、天保5年(1834)に家督を相続して古河屋嘉太夫と名乗る。教典の代は、天保の飢饉や幕末維新の動乱など社会不安の最中であったが、家業を持続させた。特に天保の飢饉の時は、藩の依頼を受けて小浜の北前船船主の志水源兵衛と一緒に窮民御救米として長州から米殻を小浜に輸送したという。また、幕末・明治維新時の戦費を調達するため持ち船すべてを売却して用立てた二万両を藩に献上したと伝わる。
目次
ごあいさつ(小浜市)
もくじ
凡例
総説
プロローグ「海に開かれた小浜城下町」
第1章 北前船船主 古河屋嘉太夫
第2章 古河屋に続け ー 小浜の商人 志水源兵衛ー
第3章 小浜の豊かな自然をあらわす雲濱八景
第4章 北前船がもたらす食文化
年表
展示図録一覧
謝辞・団体・個人・参考文献
<年譜 古河屋事項>
【初代・嘉太夫教俊】
・1678(延宝6年):教俊(初代古河屋嘉太夫)生まれる
・1715(正徳5年):持ち船で能登へ鰤積に行き、12月8日安部屋浦で破船に遭い帰国
・1719(享保4年):小浜の北前船主古河屋久右衛門の船頭となり北国商売に従事する
・1727(享保12年):教俊、のれん分け(宿這り)をして古河屋嘉太夫と改め、西津長町を拠点に廻船商売を始める。
・1728(享保13年):7,80石の船を造り、丹波茶を新潟から秋田方面へ販売する
【2代目・嘉太夫教重】
・1745(延享2年):教俊隠居し、教重に家督を譲る。
・1746(延享3年):教重も先代と同じく丹波茶を新潟・秋田方面へ販売し、大坂・蝦夷にも進出する。
・1751(宝暦元年):別業として酒造業を始める。丹後田辺の紙屋仁右衛門の養子宗七(教富)を教重の養子とする。
・1763(宝暦13年):教重の末子孫助を文家して古河屋久太夫と名乗らせる(出店)。
・1764(明和元年):この頃教重の弟六之助を三島孫右衛門(今町)の養子とする。教俊歿す
・1768(明和5年):教富の娘と三島孫右衛門が結婚して分家させる(今町)。
・1770(明和7年):金百両を献金し、永代三人扶持を賜る。
・1775(安永4年):教重は自ら久右右衛門と名乗り、分家して古河屋久右衛門家(新町)を再興する。
・1778(安永7年):小浜藩9代藩主・酒井忠貫、古河屋の船で遊ぶ。
【3代目・嘉太夫教富】
・1784(天明4年):教重、小浜藩へ隠居を届け出て治左衛門と称し、教富に家督を譲る。大飢饉のため諸国とも米の津留を行ったが、当家は、藩主の書簡を持って新潟・酒田から米を小浜に廻送する。
・1791(寛政3年):教重、歿す。
【4代目・嘉太夫教泰】
・1792(寛政4年):教富歿し、教泰に家督を譲る。
・1793(寛政5年):小浜藩に金8千両の献金を約束して、千両を上納する。7人扶持を加増され、都合永代10人扶持を賜り、宅地の税金を免ぜられ、古河の苗字の使用が許される。
・1794(寛政6年):本家、出店久太夫及び新町久右衛門、今町茶屋の4家が1世帯として毎年正月20日に本家へ勘定を立てて店おろし(合同決算)を行うこととする。出店久太夫教久の長男久兵衛(教宜)親子3人を本家へ引き取り、教泰の養子とする。
・1795(寛政7年):飢饉のため諸国は米の持出を禁じたが、藩主の書簡を持って新潟・酒田から米を小浜へ廻送した。帯刀足駄御免、30人扶持を加増され、永代40人扶持を賜り、宅地の賦及び諸役永代免許となる。
・1797(寛政9年):寄合組格となり、家中に対する年賦調達を引き受ける。
・1799(寛政11年):小浜藩は米手形役所を新設して米手形を発行する事になる。教泰はその頭取に任ぜられた。
・1800(寛政12年):小浜藩主財政逼迫につき金2千両献上する。
・1801(寛政13年):永代50人扶持に加増されると共に、居宅・船役等も永代免許となる。小浜藩9代藩主・酒井忠貫より当家処遇に関する御墨付を賜る。
【5代目・嘉太夫教宜】
・1802(享和2年):教泰隠居(隠居名孫六)し教宜に家督を譲る。丹後田辺城主牧野佐渡守から先代同様15人扶持の御沙汰を受けた。幕府から藩主へ京都貴船神社修復醵出の命があったので当家から金316両3歩を献金する。古河屋久右衛門が当家の出店として大問屋を仰せつかる。米手形役所関係の扶持5人扶持に加増される。
・1807(文化4年):讃岐(香川県)金毘羅大権現へ石灯篭1基を寄進する。洪水の救済金のため小浜藩に金千両を献上する。小浜藩10代藩主・酒井忠進、当家手船で御船遊びの後、教泰を来訪する。
・1808(文化5年):酒井家から、5人扶持を加増され、都合永代55人扶持となる。
・1812(文化9年):教宜の弟(教寛)は、教宜の養子として伝太夫と名を改める。
・1815(文化12年):護松園(本宅)建築。
・1816(文化13年):教泰歿す。
【6代目・嘉太夫教寛】
・1817(文化14年):教宜隠居し、教寛に家督を譲る。
・1822(文政5年):藩主財政逼迫につき御蔵米千俵献上する。教宜歿す。
・1828(文政11年):藩主財政逼迫のため当春3600両献上する。酒井忠進の遺愛の硯を賜る。
・1830(天保元年):小浜藩10代藩主・酒井忠順が護松園に来遊する。
【7代目・嘉太夫教典】
・1834(天保5年):教寛隠居し、教典に家督を譲る。
・1836(天保7年):小浜藩11代藩主・酒井忠義が護松園に来遊する。
・1837(天保8年):飢饉のため窮民御救米として木綿屋源兵衛(志水源兵衛)と共に長州から米・麦・大豆を小浜へ廻送した。
・1839(天保10年):藩主財政逼迫のため金千両献上して諸士待遇となる。
・1842(天保13年):分家新建(古河屋宗七家)を創立し酒造業を譲与した。
・1853(嘉永6年):教寛歿す。
・1864(元治元年):護松園(本宅)の土蔵を建てかえる。
・1868(明治元年):北陸道鎮撫の軍資金2万両を献金する。そのために持ち船全部を大坂で売却する。
・1869(明治2年):藩の改革により米手形役所頭取御免となる。旧来の百人扶持が家禄24石と定められた。今までの調達金(御用金)が棒引きとなる。本家及び出店久太夫の両家が士族に列せられた。大坂で船三艘を買い入れて商売を再開する。
【8代目・教成】
・1874(明治7年):教典隠居し、教成に家督を譲る。
・1879(明治12年):教典歿す。
・1880(明治13年):持ち船3艘を京都奥村六平に譲渡し廃業する。
【9代目・成一】
・1883(明治16年):教成歿す。成一に家督を譲る。伴信友の著書等を宮内省へ献納する。
・1886(明治19年):護松園(本宅)の商用及び居住区域を取り毀す。