- Home
- 南越地域の歴史事件・史跡・遺跡, 「南越」地域文化
- 南越地域の史跡・遺跡「小丸城址」(福井県越前市五分市町)
南越地域の史跡・遺跡「小丸城址」(福井県越前市五分市町)
- 2025/5/25
- 南越地域の歴史事件・史跡・遺跡, 「南越」地域文化
- 佐々成政, 小丸城, 鞍谷川, 味真野, 野々宮廃寺, 葉の里味真野苑内の万葉館
南越地域の史跡・遺跡「小丸城址」(福井県越前市五分市町)
(写真下:「小丸城址」石碑(福井県越前市五分市町)<*2025年1月13日午後訪問撮影>
(写真下:「小丸城址」(福井県越前市五分市町)<*2025年1月13日午後訪問撮影>
*「史跡 小丸城址」碑の裏面には、「昭和31年3月12日指定 福井県」と刻まれている。
福井県指定 史跡 小丸城址(こまるじょうし)
天正3年(1575)織田信長軍が越前の一揆を平定した後、佐々成政が築いた平城である。この城は味真野(あじまの)の扇状台地末端に、野々宮廃寺跡の一部をとり込んでつくられたもので、本丸、二の丸、三の丸と隅櫓(すみやぐら)の遺稿がよく残されている。本丸の規模は、東西45メートル、南北50メートル、高さは水面から7メートルあり、四方に10~30メートル幅の堀がめぐらされていた。なお、北西の乾櫓(いぬいやぐら)から出土した、一揆成敗のありさまを刻んだ文字瓦は有名である。この瓦は現在、越前の里郷土資料館に展示してある。 越前市教育委員会、財団法人 観光資源保護財団
小丸城は、織田信長の家臣で府中三人衆の一人であった佐々成政が、鞍谷川てできた味真野の扇状地の丘陵に、野々宮廃寺跡の一部を取り込んで築城された平城で、1575年(天正3年)築城開始し、1581年(天正9年)佐々成政の越中入国により廃城となった。現・福井県越前市五分市町に残る小丸城址は、約50メートル四方に、一部に石垣を残す本丸跡と、その周囲に二の丸跡、土塁・隅櫓、堀が取り巻き、関連する遺構は、東西約300メートル、南北約450メートルの広い範囲に及んでいる。小丸城址は、昭和31年(1956年)3月12日、福井県福井県指定文化財として史跡に指定。
この小丸城址は、昭和7年(1932)、工事のため小丸城址の乾櫓を掘削したところ、多数の燻し瓦が出土され、城の軒先に葺いた三巴紋軒丸瓦5個、軒平瓦1個、丸瓦7個、平瓦7個の計17個が市指定文化財となっており、その中には、文字が刻まれた丸瓦2個が含まれていて、箆(へら)書きで刻まれたその文字によって、文献史料には記されなかった一揆の存在と前田利家による弾圧の様子が明らかになったことが有名。この文字瓦には、5月24日に一揆が起こり、前田利家が一揆衆を千人ばかり生け捕ったうえで、磔や釜煎で処刑したという、前田利家による苛烈を極める一揆弾圧の様子が記されている。この小丸城跡から出土した文字瓦は、近くの万葉の里味真野苑内の万葉館(福井県越前市余川町)で展示されている。
現・福井県越前市五分市町に佐々成政が小丸城の築城を開始するきっかけは、天正3年(1575年)織田信長は越前への第3次侵攻を刊行し、織田信長の有力家臣で比良城主(現・愛知県名古屋市)の佐々成政は、織田信長の越前国の越前一向一揆攻めに従い、一向一揆を掃討し平定後、前田利家、不破光治らとともに越前国内の府中周辺2郡を所領として与えられ、柴田勝家の目付役を命じられたことより、天正3年(1575年)佐々成政は、小丸城(現・福井県越前市五分市町)の築城に取りかかる。佐々成政は、小丸城に本拠を構え、府中城(現・福井県越前市)の前田利家や、龍門寺城(現・福井県越前市)の不破光治とともに、「府中三人衆」という共同支配を担う。この佐々成政の越前入国と小丸城に居城を構えたことで、尾張の比良城は廃城となっている。
天正3年(1575年)9月頃より、府中三人衆として小丸城(現・福井県越前市)に本拠を構え、府中近辺二郡の共同統治にあたる一方、織田信長が推し進める領土拡張戦にも身を投じ、佐々成政のほか、前田利家、不破光治、金森長近、原政茂ら、越前国内に所領を与えられた武将たちは、「越前衆」という名で編成され、柴田勝家の軍事指揮下に入り、加賀国へ出陣し加賀一向一揆や上杉謙信軍と戦ったり、荒木村重攻めのために摂津国・播磨国にも出兵している。
小丸城の築城主の佐々成政(1536年?~1588年)は、天文5年(1536)、尾張国の比良城主・佐々成宗(盛政)の第5子、3男として、尾張比良に生れる(生年については、天文8年(1539年)説、永正13年(1516年)説もある)。佐々成政は、幼名与左衛門。後、1561年頃までに内蔵助成政と名乗るようになるが、天文21年(1552年)織田信秀が病死し織田信長が家督を継ぐと、織田信秀に仕えていた成政の兄・政次(成吉・隼人正)、孫助(成経)は、信長に仕え、成政は信長の小姓となる。織田信長の小姓、近侍となって仕えていた成政は、兄たちが相次いで討ち死にしたため、永禄3年(1560年)、家督を継いで比良城主となり、馬廻衆となる。永禄12年(1569年)頃までに、織田信長直属の親衛隊「黒母衣衆」の筆頭に任じられる。天正3年(1575年)の越前入国前までは、織田信長による近江国の浅井長政攻め、三好三人衆攻め、浅井長政・朝倉義景連合軍攻め、伊勢国の長島一向一揆攻めなどに従い、天正3年(1575年)には、織田信長による武田勝頼攻めに従い、長篠の戦いで、鉄砲奉行として活躍。
天正3年(1575年)の越前入国し、府中三人衆・越前衆として小丸城に本拠を構え織田信長の全国統一に向けた戦いで、各地に転戦するが、天正8年(1580年)には、織田信長より越中の神保長住の戦いの指揮、命令を行うことを命ぜられ、越中に入国。天正9年(1581年)、佐々成政は主君・織田信長より、越前国内2郡の支配から離れ、越中新川、礪波の両郡を与えられ越中国の支配権を委ねられるとともに、越後国の上杉景勝攻めの軍事指揮官として越中国主となり、越前の小丸城は廃城となる。佐々成政は、守山城(現・富山県高岡市)を足場にして、越中各地に転戦し、越中西部を制圧。その後は上杉の勢力範囲にある越中東部にも侵攻し、天正10年(1582年)には佐々成政が富山城を居城とするようになる。
天正10年(1582年)本能寺の変後も、佐々成政は、織田方の武将として上杉軍や一向一揆軍と対峙するが、秀吉と対立を深める柴田勝家に味方し、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは越中に残り柴田方に付く。賤ヶ岳の戦後、佐々成政は加賀国金沢城に赴き、秀吉と面会し、越中国主の地位を引き続き認められ、越中一国をほぼ平定する。ただ、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と対抗し天正13年(1585年)秀吉に降伏。新川郡を除く所領を没収され、妻子とともに身柄は大坂へ移される。天正15年(1587年)九州島津攻めに従軍し、その後、秀吉より肥後国主に任じられ、居城を隈本城に定められる。これに伴い、越中国新川郡及び天正13年(1585年)追加の所領として与えられた摂津国能勢郡の支配から離れる。しかしすぐ肥後国衆一揆が勃発。失政の咎を受け、秀吉より上洛の呼び出しを受け、翌天正16年(1588年)秀吉から切腹を申し付けられ、摂津国尼崎で自害している。
(写真下:小丸城本丸虎口(埋め門と石垣)(福井県福前市五分市町)<*2025年1月13日午後訪問撮影>
(写真下:小丸城址の石垣(福井県福前市五分市町)<*2025年1月13日午後訪問撮影>
(写真下:小丸城址の丘の上には忠魂碑が建つ(福井県福前市五分市町)<*2025年1月13日午後訪問撮影>
(写真下:小丸城址の東側から(福井県福前市五分市町)<*2025年1月13日午後訪問撮影>