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北陸の作家ゆかりの地「島田清次郎生誕地碑」(石川県白山市美川南町)
北陸の作家ゆかりの地 「島田清次郎生誕地碑」(石川県白山市美川南町)
(写真下:「島田清次郎生誕地碑」(石川県白山市美川南町)、2025年3月27日午前訪問撮影)

島田清次郎 生家跡
島田清次郎は明治32年(1899)2月26日 美川町 字 南町ヌ149番地1のこの地で生まれたが、船乗りだった父親を2歳で亡くすという不幸に見舞われた。大正8年(1919)6月、20歳にして新潮社から刊行された長編小説「地上(ちじょう)」がベストセラーとなり、講演会や洋行に赴くなど、一躍文壇の寵児となった。国際ペンクラブ、日本人初の会員であるところの天才児清次郎の心根には、貧乏をこの世の中から無くそうという意思が強く働いていたが、私生活上の奇行が重なり文壇から次第に締め出され、昭和5年(1930)4月29日、31歳という若さで、失意のうちに帰らぬ人となった。
地上は第一編から第四編まで発行され、当時の総売上50万部を記録した。主な作品は、地上の他に、「若芽」「大望」「早春」「帝王者」「死を越ゆる」「我世に勝てり」「我世に敗れたり」「勝利を前にして」等がある。地上は、昭和32年(1957)に青春恋愛物語として映画化され芸術祭参加作品となり、清次郎の生涯は、同37年(1962)に作家杉森久英氏が「天才と狂人の間」という作品で小説化され、同氏は石川県で初めて直木賞作家となった。彗星のごとき清次郎の生涯は、今でも多くの人々の共感を呼んでいる。
島田清次郎(しまだ・せいじろう)(1899年~1930年)は、1899年(明治32年)2月26日、石川県石川郡美川町(現・白山市)に、回漕業を営む父常吉(1871年~1901年)、母みつの長男(一人っ子)として生まれる。母みつの実家(西野家)は、石川県笠間村字小川(現・石川県白山市小川町)の庄屋格の豪農の出。清次郎が2歳になる前の1901年1月に、父・常吉を海難事故で亡くし(享年29歳)、母親みつは、幼い清次郎を連れて実家へ帰ったが、1904年(明治37年)、5歳の清次郎を連れて、母方の祖父・西野八郎が金沢の西廓で営む貸座敷「吉米楼」の2階の一室に移り住む。幼いころから清次郎は秀才の誉れ高く、金沢の野町尋常小学校を首席で卒業し、石川県立金沢第二中学校に進学。祖父が米相場で失敗し、母子の生活も窮迫したこともあり、清次郎が13歳の1912年(明治45年)、金沢の中学を1年で中退し、篤志家の援助で、東京・白金の明治学院普通部2年に転入。
母親みつも、この篤志家の世話で上京し、その紹介で浅草の鼻緒職人のもとへ再婚。しかし、清次郎は、篤志家の実業家と衝突し1年半後に一人で金沢に戻り、既に祖父の店は没落していたので、叔父の世話で元の県立金沢第二中学に復学するも、経済的負担に耐えられなくなり一刻も早く清次郎を自立させようとする叔父の勧めで1年で中学を退学し、県立金沢商業学校に転校。商業学校での勉強には身が入らず、停学や落第、退学となる。16歳の1915年(大正4年)以降、職を転々としながら原稿を書く生活を続け、一旦は文学をやるからには東京に出なければと考え、上京後、浅草の母の再婚先に頼ることになるが、書き上げた作品がどこにも相手にされず、焦燥し絶望した清次郎は自殺を図り、この事件の為に母は夫と別れ、清次郎と共に、大正5年(1916年)春、母子2人で金沢に戻ることになる。この清次郎17歳の1916年(大正5年)から18歳の1917年(大正6年)にかけては特に母子の生活は特に極貧で、金沢の町外れの貧民窟の鶏小屋を改造した借家で、母は針仕事で生活を支えた。
こうした悲惨な生活の中、清次郎は、1918年(大正7年)19歳で『地上』を執筆。石川県七尾町の鹿島郡訳書書紀補や、京都での中外日報社員を経て、1919年(大正8年)上京し、同年、処女長篇『地上』を新潮社から出版。20歳で小説家デビューし、空前の大ベストセラーとなり、一躍文学青年たちのカリスマとなり、時代の寵児となる。が、その傲慢不遜な言動が文壇で疎まれるようになり、一方では、1923年(大正12年)4月、海軍少将の令嬢を婦女誘拐・監禁凌辱・強盗のかどで告訴された「島清事件」スキャンダルを起こし一般的な人気も急落。放浪の果てに1924年(大正13年)7月末、25歳で精神分裂病で東京・巣鴨の私立精神病院に入院し、1930年(昭和5年)入院のまま、肺結核により死亡(享年31歳)。
島田清次郎の生涯については、1962年の第47回直木賞受賞作となった『天才と狂人の間 ー島田清次郎の生涯』(杉森久英 著、河出書房、1962年)や、『島田清次郎 ー誰にも愛されなかった男』(風野春樹 著、本の評論社、2013年)などに詳しいが、島田清次郎が1930年に亡くなってから半世紀以上を経て、長年、島田清次郎の研究に情熱を傾けてきた郷土史家の北野銀一 氏らの尽力により、出身地の地元である石川県白山市美川町で顕彰の機運が高まり、1987年8月には、石川県白山市平加町の町営の美川墓地公苑の一角に顕彰碑が建立され、その翌年の1988年1月には、美川ライオンズクラブにより、美川大橋のたもとの、石川ルーツ交流館の隣の一角(美川大橋公園)に、「島田清次郎生誕地碑」(石川県白山市美川南町)が建立された。
島田清次郎は、1899年(明治32年)2月26日、石川県石川郡美川町(現・白山市)ヌ149番地ノ1に、回漕業を営む父常吉(1871年~1901年)、母みつの長男(一人っ子)として生まれているが、1から7まで文筆されていたヌ149番に該当する宅地も、昭和9年(1934年)7月11日の手取川大洪水により流出していて、家や宅地さえ消滅してしまっている。郷土史家の北野銀一 氏は、1983年1月からの「広報みかわ」で連載コーナー「美川が生んだ”人間・島田清次郎」初回で、「美川の南町通りを中心とした手取川右岸の現状は、洪水後の改修工事や都市計画その他の道路整備工事等によって昔日の面影を留めないほど変貌しているが、古い資料によって島田家の宅地ヌ149番の位置を推測すると、そのほとんどが県道美川大橋ー水島線やないしは河川堤の下に生まれていることになる。」と記している。
郷土史家の北野銀一 氏は、「広報みかわ」1983年2月号での連載コーナー「美川が生んだ”人間・島田清次郎」2回目では、回漕業を営む父・常吉が、手取川河口近くで海難事故で、明治34年(1901年)1月に亡くなってからの事を記載(『天才と狂人の間 ー島田清次郎の生涯』(杉森久英 著、河出書房、1962年)では、島田清次郎が生まれた翌年の明治33年(1900年)に死亡と記載)、美川町に住む島田家には、2歳になる幼い長男・清次郎と、母・みつ、そして亡夫・常吉の継母である天保6年(1835年)生まれで66歳の姑・里せが残され、島田家の持船の北前船を処分して、美川港にいかりを下ろす北前船やテント等の船頭衆や、あるいは旅商人を対象に、家屋に少し手を加えて女手だけでもやれる宿屋を、始めるが、宿屋経営はうまく行かず。明治37年(1904年)1月、姑・里せが亡くなり、母・みつは、長男・清次郎を連れて、美川を離れ、実家に帰ることになる。母みつの実家・西野家は、石川県笠間村字小川(現・石川県白山市小川町)の庄屋格の豪農。ただ、石川県笠間村字小川での生活も短く、1904年(明治37年)、母みつは、5歳の清次郎を連れて、母みつの父・西野八郎が金沢の西廓で営む貸座敷「吉米楼」の2階の一室に移り住むことになる。
(写真下:「島田清次郎生誕地碑」(石川県白山市美川南町)、2025年3月27日午前訪問撮影)












