北陸の歴史人物関連 「滝廉太郎居住地跡と修学の地碑」(富山県富山市丸の内)
北陸の歴史人物関連 「滝廉太郎居住地跡と修学の地」(1879年~1903年)(富山県富山市丸の内)
<写真下:「滝 廉太郎修学の地」(富山県富山市丸の内1丁目)(*2025年11月15日午前訪問撮影)


<写真下:「滝 廉太郎修学の地」説明板(富山県富山氏丸の内1丁目)(*2025年11月15日午前訪問撮影)

滝 廉太郎修学の地
近代日本の生んだ代表的作曲家、滝廉太郎(明治12年(1879年)8月24日生)は、明治19年(1886年)8月から1年8ヶ月余りの間、父滝弘が富山県書記官(現在の副知事職に相当)として来任したことから、少年時代の一時期を富山の地で過ごした。富山在住の間、廉太郎は旧富山城内「赤蔵跡」(現在地周辺・旧堺捨旅館)にあった富山県尋常師範学校付属小学校の1学年に転入学し、同3年の半ばまで在学した。滝廉太郎の一連の作曲の中でも「お正月」や「雪やこんこん」などは、後年富山の生活をしのんで作曲したものといわれている。わずか23歳10ヶ月の若さで没したが、この間に後世にのこる数々の名曲を作った。修学碑は、滝廉太郎の生誕百年を記念し、富山県九州人会「おきよ会」が、廉太郎ゆかりの地に建立したものである。 昭和54年(1979年)9月 富山市教育委員会
「荒城の月」や合唱曲「花」の作曲者として広く世に知られ作曲家・滝廉太郎(たき・れんたろう)(1879年~1903年)は、初めて本格的作曲家として近代西洋技法を用い、日本歌曲の基礎を築いた、近代日本の生んだ代表的作曲家。滝廉太郎は、明治12年(1879年)8月24日、東京市芝区南佐久町2丁目18番地(現・東京都港区西新橋)で、日出藩(豊後国速見郡、現・大分県速見郡日出町)の旧藩士の滝吉弘の長男(三男五女の長男で、2人の姉)として生れる。滝廉太郎の生れた滝家は、初代・滝俊吉以来、11代260余年にわたり日出藩に忠誠を励み、家老の重職に就くというほどの名門家の家柄。旧・日出藩藩士の父・吉弘(滝家11代)は廃藩置県後の1872年(明治5年)に上京し、秋田県七等出仕を振り出しに、大蔵省、内務省に勤務。滝家の家族も上京し、一家は、東京市芝区南佐久町2丁目18番地(現・東京都港区西新橋)の豊後国佐伯藩主毛利高謙の江戸屋敷の侍長屋に住む。滝廉太郎が東京市芝区南佐久町2丁目18番地(現・東京都港区西新橋)に生れた明治12年(1879年)8月の頃は、父・弘は内務省の一等属官で伊藤博文の下で手腕を振るっていたが、1882年(明治15年)11月、神奈川県書記官となり、一家は横浜の伊勢山にあった官舎に転居。1886年(明治19年)5月、神奈川県師範学校附属小学校に入学するが、父・弘が1886年(明治19年)8月28日付けで、書記官書記官に転任となり、一家で横浜を離れ、富山に移り住む。
滝廉太郎は、1886年(明治19年)9月、旧富山城内「赤蔵跡」にあった富山県尋常師範学校附属小学校の第1年級に転入。翌年、第二学年に進級。雪国・富山で2度の冬を少年期に過ごすが、1888年(明治21年)春、第二学年を修了した後、4月20日付けで父・広が非職になり、滝一家は、東京に移り、麹町上二番町二番地に落ち着き、滝廉太郎は、1888年(明治21年)5月に、麹町小学校尋常科第三年級に転入学する。滝廉太郎(明治12年(1879年)8月24日生)が、明治19年(1886年)8月から1年8ヶ月余りの間、父滝弘が富山県書記官(現在の副知事職に相当)として来任したことから、少年時代の一時期を富山の地で過ごしたているが、1979年(昭和54年)6月、富山県九州人会「おきよ会」が、滝廉太郎の生誕100年を記念し、富山県尋常師範学校附属小学校跡地の富山市丸の内1丁目の堺捨旅館(当時)前に、瀧廉太郎の少年像を建立し、瀧廉太郎修学の地碑となっている。富山での瀧廉太郎顕彰活動が進む中で、1993年(平成5年)9月には、没後90年に丸の内の修学の地に「滝廉太郎記念館」がオープンするが、その後、松川茶屋内に移設されている。2016年(平成28年)6月には有志でつくる「滝廉太郎研究会」が発足し、瀧廉太郎研究会が、没後120年を記念し、2023年6月、瀧廉太郎居住地跡とされる土地の一角に立っているアームストロング青葉幼稚園の協力を得て、敷地東側の「すずかけ通り」に面した場所に「瀧廉太郎 居住地跡」案内板を設置している。
1888年(明治21年)4月20日付けで父・広が非職になり、滝一家は、富山を離れ東京に移り、麹町上二番町二番地に落ち着き、滝廉太郎は、1888年(明治21年)5月に、麹町小学校尋常科第三年級に転入学。1889年(明治22年)3月14日付で、父・弘は大分県大分郡郡長に任命され、家族は大分に移り大分市荷揚町の官舎に住むことになったが、滝廉太郎は、年老いた祖母や病気の長姉・利恵とともに東京に残り、1890年(明治23年)麹町尋常小学校を卒業。1890年(明治23年)3月に祖母みちが東京で亡くなり、同年5月に長姉・利恵(リエ)も亡くなるが、両親は同年4月に瀧廉太郎を大分に呼び寄せ、1890年(明治23年)5月、大分県尋常師範附属小学校高等科第一年級に転入学。1891年(明治24年)11月17日付で、父・弘が大分県直入郡郡長となり、12月末、一家とともに竹田(大分県)に移り、翌1892年(明治25年)1月8日、大分県直入郡高等小学校第二学年転入。父の転勤に伴い、度々の転校を重ねてきた廉太郎だが、1894年(明治27年)4月、大分県直入郡高等小学校に於いて高等小学校全科卒業まで、残りの高等小学校時代を、大分県竹田で過ごし、この大分県竹田での高等小学校時代に、音楽の道を志す。1894年(明治27年)年5月、上京し、麹町区平河町3丁目17番地の従兄の滝大吉の家に落ち着き、同年9月、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に進学。
東京での住居は、麹町区富士見町3丁目29番地、本郷区西方町9番地に移り、1898年(明治31年)7月9日、本科を専修部を首席で卒業。同年9月には研究科へ進学。明治32(1899)年9月、研究科2年に進み、同時に音楽学校嘱託となり授業補助を命ぜられる。この年に「四季の滝」「友の墓」「我が神州」を作曲。住居は、西方町から麹町区四番町四番地に移り、その後、滝廉太郎の東京の最後の地となる麹町上二番町22番地に移転(滝廉太郎居住地跡の碑は、東京都指定旧跡として、東京都千代田区一番町18-1にある)。ここで「四季」「荒城の月」「幼稚園唱歌」などを作曲。明治33年(1900年)6月12日付で、ピアノ及び作曲研究のため、文部省から満3カ年のドイツ留学を命ぜられるが、出発延期願を出し翌年の明治34(1901)年4月6日に横浜港を出航し、5月18日にベルリン着。6月7日、ライプチヒ着。10月1日、ライプチヒ音楽学校に合格するが、11月25日オペラを見に行き、それがもとで風邪を引き、病状がこじれてなかなか快方に向かわず、12月2日ライプチヒ大学附属病院に入院するが結核に感染していることが判明し療養。小康状態の時に帰国し療養した方が良いとの判断から、翌年7月10日、帰国命令となり、1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ちロンドンを経由して同年10月17日に横浜に到着。帰国直後は東京の従兄である大吉の自宅で療養するが、滝大吉が11月23日、脳溢血で倒れると、11月24日には大分に出発し、大分市稲荷町339番地(現・大分市府内町)の父母の許で療養するが、明治36(1903)年6月29日、大分県大分市の自宅にて病死。満23歳没(享年25)。
<写真下:「滝 廉太郎 居住地跡」説明板(富山県富山市丸の内1丁目)(*2025年11月15日午前訪問撮影)

滝 廉太郎 居住地跡
近代日本を代表する音楽家・滝廉太郎(1879年8月24日生)は、1886年(明治19)8月、7歳の時に父の吉広が富山県書記官(現在の副知事職)として来任したことから、家族とともにこの一帯にあった総曲輪の官舎(現・富山市丸の内2丁目)に移り住んだ。この官舎には知事を始め、幹部の人々が住んでいた。ここから北へ300mほどの場所に現在の松川の元となった旧・神通川が流れており、その手前には富山県尋常師範学校附属小学校(現在の富山大学附属小学校)があった。滝廉太郎は1学年に転入学し、3学年の半ばまで在学したことが修学地の案内板に記されている。住まいと学校が富山城址の中にあり、毎日石垣やお掘を眺めながら通学する、という城下町ならではの生活を送っていた。滝廉太郎は雪国の富山で新年を二度迎え、1888年(明治21年)5月、富山を離れて東京に戻った。富山を去って12年後に作曲された「お正月」や「雪やこんこん」「鳩ぽっぽ」「花」「納涼」「雪」「荒城の月」などは、富山時代を懐かしんで作曲したものと言われている。「荒城の月」を作曲した後、1901年(明治34年)に文部省から命じられ、ドイツのライプチヒ王立音楽院に留学したが、病にかかり数ヶ月で帰国。父母の元で療養したが、家族の手厚い看護もむなしく、1903年(明治36年)6月29日、23歳10ヶ月の若さで亡くなった。 2023年(令和5年)6月29日 滝 廉太郎 研究会
●滝廉太郎が少年時代に富山城址で暮らし遊んでいたことを偲び、1992年(平成4年)に「滝廉太郎記念音楽祭」がスタート。翌年、「滝廉太郎記念館」が開設。2016年(平成28年)6月には「滝廉太郎研究会」も発足し、「水と歴史と文化のまち」富山を目指す市民の誇りとなっています。
滝 廉太郎 研究会(月刊グッドラックよやま内)
<写真下:「滝 廉太郎 居住地跡」(富山県富山市丸の内1丁目)(*2025年11月15日午前訪問撮影)

<写真下:「滝 廉太郎 居住地跡」(富山県富山市丸の内1丁目)(*2025年11月15日午前訪問撮影)













