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北陸の文化史跡・遺跡 「十二義士墓所」(石川県金沢市長坂町)
- 2023/5/25
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北陸の文化史跡・遺跡
「十二義士墓所」(石川県金沢市長坂町)
(写真上:「十二義士墓所」(石川県金沢市長坂町)、2023年5月2日午後訪問撮影)
1869年(明治2年)8月7日、金沢藩(1869年6月の版籍奉還で加賀藩から改称)の金沢城二の丸御殿の殿中で、旧幕時代の家老と同じく、前田家家中の最高職にあたる金沢藩執政・本多政均(ほんだ・まさちか)が、三等上士(旧平士山辺沖右衛門の嫡男、山辺沖太郎(暗殺実行時26歳)と一等中士(旧与力)井口義平(暗殺実行時21歳)の2名の刺客に襲われ刺殺される(享年32歳)。その後、二人の暗殺実行犯は、1871年2月4日(旧暦)切腹刑に処せらるが、本多家家老の本多弥一率いる12人の本多家家臣が主の無念を果たすため、自宅禁錮や閉門、無罪となっていた暗殺計画への関与者たちに対し、1871年(明治4年)11月23日・24日に、金沢市内の2か所と近江長浜とで、ほぼ同時に仇討を決行。
「第2の忠臣蔵」「明治忠臣蔵」とも言われ、1873年(明治6年)2月7日に明治政府が布告した仇討禁止令前の最後の仇討となった加賀本多家十二義士による仇討は、金沢2か所と近江長浜の計3か所で、ほぼ同時期に、それぞれ3名を斬殺。1871年(明治4年)11月23日、石川県金沢市高松町において、本多弥一・富田総・鏑木勝喜知・吉見亥三郎の4人により、県庁退出途上の岡野悌五郎を殺害。同日、矢野策平・西村熊・舟喜鉄外・浅井弘五郎・廣田嘉三郎・湯口藤九郎の6人により、金沢市与力町の自宅禁錮中の菅野輔吉の自宅に押し入り斬殺。また同年11月24日、芝木喜内と藤江金三郎の2人により、江州長濱(現・滋賀県長浜市)で、多賀堅三郎を斬殺というもの。
仇討決行後約1年後の1872年(明治5年)11月、石川県刑獄寮の裁判で判決が下され、それぞれ3名を殺害した12名は切腹となり、この12名が12義士、12烈士と呼ばれ、12義士の墓が、金沢の船底山大乗寺の本多宗家の墓域の隣に葬られた。大乗寺の本多宗家の墓域の隣に葬られている12義士の墓(右から本多弥一・西村熊・矢野策平・鏑木勝喜知・富田聡・舟木鉄外・浅井弘五郎・吉見亥三郎・芝木喜内・廣田嘉三郎・湯口藤九郎・藤江松三郎以上12名)
なお、この加賀本多義士による仇討計画は、12名ではなく15名の義士の同志によって行われたが、残り3名のうち、清水金三郎は、菅野輔吉宅の門前で見張り役であったために切腹ではなく禁錮10年の刑に、また1871年11月18日、石黒圭三郎を殺害しに東京に行くも未遂に終わり同年12月16日に逮捕されていた島田伴十郎と上田一二三の2名は殺人未遂のため禁錮3年の刑に処せられた。更に元本多家中小将組のひとり、竹下卯三郎が12烈士に殉ずべく本多政均の墓前で切腹をしている。大乗寺門前の12烈士の墓列のはじに、こぶりながら清水金三郎、島田伴十郎、上田一二三の3人の墓と並び、竹下卯三郎の墓がある。
⇒加賀本多義士による仇討を扱った歴史小説「明治忠臣蔵」書籍紹介
■加賀本多家15義士
・本多弥一(本多家家老・禄5百石)⇒岡野悌五郎を殺害
・矢野策平(近習兼剣術師範)⇒菅野輔吉を殺害
・西村熊(近習加用役)⇒菅野輔吉を殺害
・鏑木勝喜知(中小将組・家老席執筆役)⇒岡野悌五郎を殺害
・富田総(給人組・近習加用役、父は本多家家老富田長左衛門)⇒岡野悌五郎を殺害
・舟喜鉄外(中小将組・扈従役)⇒菅野輔吉を殺害
・浅井弘五郎(中小将組・近習役)⇒菅野輔吉を殺害
・吉見亥三郎(徒組・少将列)⇒岡野悌五郎を殺害
・芝木喜内(徒組・近習手水役)⇒多賀堅三郎を殺害
・広田嘉三郎(徒組・手水役)⇒菅野輔吉を殺害
・湯口藤九郎(足軽)⇒菅野輔吉を殺害
・藤江松三郎(足軽)⇒多賀堅三郎を殺害
➡以上12名が自裁(切腹刑)
・清水金三郎(徒組・近習手水役)⇒菅野輔吉宅門前での見張り役
➡禁固10年
・島田伴十郎(足軽)⇒石黒圭三郎殺人未遂
・上田一二三(足軽)⇒石黒圭三郎殺人未遂
➡以上2名が禁錮3年
(写真下:加賀藩老本多家墓所(石川県金沢市長坂町)、2023年5月2日午後訪問撮影)
(写真上:県道22号線の長坂台小学校東交差点を野田山墓地の方に上るすぐ手前の右側、大乗寺はこの先の左側で、車でも坂を登っていける。2023年5月2日訪問撮影)