北陸の文化史跡・遺跡
「石丸城跡(石丸城公園)」(福井県福井市石盛3丁目)

(写真下:「石丸城跡(石丸城公園)」(福井県福井市石盛3丁目)、2026年6月1日午後訪問撮影)

石丸城について
『石丸城の発見』

斯波高経を討つための根拠地となった石丸城(いしまるじょう)は、現地に今もその痕跡をとどめ、石盛(いしもり)集落のほぼ中心部の北陸街道に面した場所に、「館ノ中(たちのなか)」・「館ノ前(たちのまえ)」の小字が残っていて、その位置はおよそ推定されていました。平成8年度(1996年度)から始まった福井市の区画整理事業に伴って、平成14,15年(2002年・2003年)に発掘調査が実施され、地下に当時の城跡が残っていることが分かり、歴史上、大変貴重な発見となりました。
『当時の石丸城の様子』
城が築かれた場所は、当時、西側に北陸街道が南北に通り、北側に芳ノ川、南東側には春近用水が流れていました。交通の要所であるだけでなく、外敵からの防御にも適した場所であったといえます。発掘調査により、城の堀は、新旧の2時期のものが確認されました。新堀期(15世紀後半~16世紀後半)の堀で囲んだ城の内部は、東西55m、南北65mを測ります。城の南端に出入り口の虎口にあたる馬出が付属し、堀と馬出を含めた規模は南北94m、東西64m(総面積6,016㎡)になります。堀の内側には土塁が張り巡らされていたと考えられます。城内は区画溝で方形に区画され、その中に建物や井戸が配置されています。旧堀期についても、堀及び当該期の建物や井戸の配置は新堀期と重複し、堀割もほぼ同様と考えられますが、その範囲は分かっていません。石丸城の築城は、14世紀中葉から始まった南北朝の争乱で、太平記で有名な南朝方の新田義貞と脇屋義助が、石丸城を拠点に戦ったことに起因していると推測されます。城内を盛土により造成していることからも、かなり大がかりな土木工事であったことが窺い知れます。その後は、15世紀後半以降に始まった長禄合戦や応仁の乱を契機に、堀の規模を拡大し、土塁を巡らすことで、より防御力を高めたと考えられます。戦国期には朝倉氏時代の家臣佐伯勘解由左衛門の居城でしたが、加賀の一向一揆勢力との戦いで破れ、焼亡しています。その後は、明治期の初めまで、田畑として利用されてきました。「明治9年9月地租改正の測量地籍絵図」による「館ノ中」、「館ノ前」それぞれの面積(田、畑、宅地等のみで、農道、村道等と用排水等を除く)は、「館ノ中」が1町2反124坪(約12,310㎡)、「館ノ前」が1町6反103坪(約16,208㎡)です。 【参考文献】『石盛遺跡Ⅱ』福井市教育委員会 2015年


石丸城と新田義貞について
『新田義貞と脇屋義助』

上野国(群馬県)の農村で平穏に暮らしていた新田一族は、鎌倉幕府の命令で河内(大阪府)の千早城攻めに参加しました。しかし、日ごろから一族が大事にされていないことや、莫大な軍費を負担させられていたことから、不満が募っていた義貞は、途中、病気を理由に密かに郷里に帰っていました。そのような時、1333年5月、後醍醐天皇より鎌倉征伐の命令が下り、義貞は鎌倉を攻めました。新田義貞、脇屋義助兄弟が世に知られるようになったのは、この頃からです。近隣の武士達も大挙して陣列に加わり、鎌倉に近づくにつれて、兵力は増大していきました。鎌倉は、三方を険しい山に囲まれ、残された一方は海という、まさに要害の地です。稲村ヶ崎まで進軍してきた義貞、義助の軍は、海に迫り出した断崖絶壁と海の間にあるわずかな砂浜から攻め込もうとしましたが、一度にわずかな兵しか送り込むことができず、たちまち鎌倉幕府の軍勢に押し返されてしまいます。また、海から攻めようにも、既に大きな船が並んで、矢を射かけようと待ち構えていました。そこで、義貞は海に向かって黄金づくりの太刀を押しいただき、「南無八幡大菩薩、どうぞこの潮を引かしめ賜いて、我らを渡らせ賜え」と唱え、海に投げ入れました。すると、たちまち潮が引き広い砂浜が現れ、待ち構えていた敵の船も、沖に押しやられました。この様子を目の当たりにした味方の大軍(6万余騎)の士気は大いに上がり、一気に鎌倉へなだれ込みました。得宗北条高時は一族郎党とともに自刃し、鎌倉幕府は150年の歴史に幕を閉じました。
【参考文献】森田公民館 発行「脇屋義助と石丸城」
『新田義貞と石丸城』
石丸城跡は福井市石盛町に所在する、森田地区の重要な歴史遺産です。この城跡は南北朝時代に建武の新政をすすめる後醍醐天皇と、京都の室町に武家政治を始めた足利尊氏との抗争の舞台となったところで、後醍醐天皇側に着いた新田義貞が、弟の脇屋義助らと共に、幕府側の斯波高経や尊氏の差し向けた軍勢と壮絶な戦いを繰り広げました。1338年3月、府中の斯波高経を追い落として、足羽の黒丸城に追い詰めた義貞は、波羅蜜、安居、河合、春近、江守の5ヵ所に兵を繰りだし、外からは越後の南朝方である大井田 氏が合流して、黒丸城を攻める準備は最高潮に達します。
この時の様子を『太平記』という軍記物には、「(1338年)閏7月2日、足羽の合戦と触れられたりければ、国中の官軍、義貞の陣、河合の庄へ馳せ集まりけり。その勢あたかも雲霞の如し。大将新田左中将義貞朝臣は、赤地の錦の直垂に、脇楯ばかりして、遠侍の座上に坐したまへば、脇屋右衛門佐は、紺地の錦の直垂に小具足ばかりにて、左の一の座に着きたまふ。このほか山名、大館、里見、鳥山、一井、細屋、中条、大井田、桃井以下の一族三十余人は、思い思いの鎧・兜に、いろいろの太刀・刀綺麗を尽くして、東西二行に座を列す。外様の人々には、宇都宮美濃将監を始めとして、根津、風間、敷地(しきじ)、上木、山岸、瓜生、川島、太田、金子、伊自良(いじら)、江戸、紀(き)、清(せい)両党以下、着到の軍勢等3万余人旗竿引きそばめ引きそばめ、膝を屈し手をつかねて、堂上、庭前に満ち満ちたれば、由良・船田に大幕をかかげさせて、大将遙かに目礼して、一勢、一勢座敷を立つ。巍巍たる装い、堂堂たる礼、まことに尊氏卿の天下を奪はんずる人は、必ず義貞朝臣なるべしと思はぬものはなかりけり」と記しています。この後、義貞は各武将を7手に分けて軍勢を送り出し、自らも藤島城の戦況が思わしくないことを気にかけて、少数の兵を連れて現地へ向かい、燈明寺畷においてあえない最期を遂げることになります。弟の義助らが敗残兵を集めて挽回を狙い、翌年(1339年)黒丸城に総攻撃をかけますが、戦況は次第に幕府側に傾き、後醍醐天皇の崩御も追い打ちとなり、南朝方は興国2年(1341年)9月、義助が越前を去り、10月に畑時能(はたときよし)が鷲ヶ岳で討ち死にして幕府側の勝利に終りました。  執筆 南 洋一郎 氏

石丸城は、「太平記」に登場する城で、新田義貞の弟、脇屋義助が、斯波高経を討つための南朝方の拠点としていた城で、新田義貞と弟の脇屋義助が一時、居城して戦った城。越前における南朝方最後の拠点となった。福井県福井市の森田地区の石盛町に、土地の字名として、「館ノ中」・「館ノ前」の小字が残っていて、その位置はおよそ推定されていたが、平成8年度(1996年度)から始まった福井市の区画整理事業に伴って、この地域一帯の発掘調査が実施され、大きな堀の跡が確認され、建物や井戸の痕跡が見つかり、また、南北朝時代に武士がかぶっていた「烏帽子」も発掘された。石丸城公園は、石丸城の跡地に整備された公園で、2019年9月から7ヶ月かけて造成され、2020年6月7日に竣工式が開かれた。尚、堀は、南北朝時代に掘られたものと、後の戦国時代(朝倉氏の支配下)に掘られたものがあり、戦国期には一乗谷の朝倉氏時代の家臣・佐伯勘解由左衛門の居城だったが、加賀の一向一揆勢力との戦いで敗れ焼亡。

上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の嫡男として生まれた新田義貞(1300年頃~1338年)は、元弘3年(1333年)5月の鎌倉攻めに突然登場し、北条高時を権力の頂点とする鎌倉幕府を攻め滅ぼして後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、足利尊氏との対立を深め、その後、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方の室町幕府に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に、石丸城を出陣し越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げるまで、越前で南朝方の勢力拡大に奔走する。劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、30数年の生涯の中で、足利尊氏と覇を競い疾駆した5年の後半の約2年間は、越前各地で奮戦し越前で戦死となった北陸・越前と大変ゆかりの深い武将。

一方の脇屋義助(新田義助)(1305年~1342年)は、上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の次男で新田義貞の弟として生まれ、長じて、上野国新田郡脇屋(現・群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから「脇屋」と称した。元弘3年(1333年)5月、兄・義貞が生品神社で鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵以来、兄・義貞に従い、鎌倉幕府の倒幕に寄与。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い1333年8月、上洛。新田義貞は越後・上野・播磨国司に、脇屋義助は駿河国司に任じられたり、官職にも就くなど、兄・義貞を支え、後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、その後、兄・義貞が足利尊氏との対立を深め、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で、脇屋義助は、兄・新田義貞を助けて恒に行動を共にし各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は脇屋義助とともに、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方の室町幕府に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、新田義貞は、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げる。

脇屋義助も、兄・義貞とともに比叡山を下り、越前に向かい、敦賀の金ヶ崎城に入るが、越前守護・斯波高経の軍勢に激しく攻め立てられ、義貞と脇屋義助が救援を求めるため、杣山城へ出かけている隙に、金ヶ崎城は1337年3月に陥落。新田義貞は越前国杣山城を拠点に挽回の機会をうかがい、脇屋義助は、兄・義貞とともに、越前各地で奮戦し南朝方の勢力拡大に奔走し、越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、兄・義貞の越前藤島での戦死で越前南朝方は、一時崩壊の危機に置かれる。新田義貞が討死した後、脇屋義助は、一旦「河合ノ石丸ノ城」に戻り、退却して府中(現・福井県越前市)に退くが、越前南朝方の総大将の地位を引き継ぎ軍勢をまとめて、1339年7月には北朝方の斯波高経の越前黒丸城を攻め落とし、斯波高経を加賀の富樫城へ敗退させるなどの成果をあげる。

脇屋義助の活躍で北陸方面が南朝方の強力な拠点になると、翌1340年には北朝方の大軍による反攻が行われ、1340年8月、南朝方の拠る黒丸城が北朝方に陥落、その後も、南朝方は府中から退却、1341年6月には杣山城が陥落し、1340年から1341年の北朝方の反攻で越前国内の南朝方は一掃される。この間に、脇屋義助は越前を去り、越前と美濃の国境・温見峠を越え、一時美濃の根尾城(現・岐阜県本巣市)に立て籠っていたが、美濃守護・土岐頼遠の軍勢に攻められて義助は尾張へ移り熱田神宮の大宮司に助けられ、尾張の羽豆崎(現・愛知県南知多町)の神宮領で整えて、海路伊勢に渡り、伊賀を経て、1341年8月、吉野の後村上天皇の行宮に参内。1342年3月、脇屋義助は、四国及び西国の南朝方の総大将を命ぜられ、熊野水軍とともに海を渡り、1342年4月、四国の伊予国府(現・愛媛県今治市)に入るが、突如発病し、伊予入国後わずか20日ばかりで病没。享年38歳。兄・義貞同様、劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、38年の生涯の中で、最後は、伊予国での病没ではありながら、比叡山下山から金ヶ崎入城し、義貞死後も越前の南朝方の総大将として越前各地で奮戦した。

(写真下:「石丸城跡(石丸城公園)」(福井県福井市石盛3丁目)、2026年6月1日午後訪問撮影)

石丸城出陣の図
左の絵図は、埼玉県立歴史と民俗の博物館が所蔵する『太平記絵巻』の巻第七 第8紙を複写したもの。『太平記絵巻』は、鎌倉時代末期から南北朝の動乱の様子を記した軍記物語『太平記』を絵画化した合戦絵巻であり、全12巻で構成され、作者は海北友雪(かいほうゆうせつ)と推定されている。巻第七は、『太平記』巻18~22の内容を収め、鎌倉幕府を倒した後、足利尊氏と対立した新田義貞や後醍醐天皇が亡くなる場面などが描かれている。第8紙は、『太平記』巻20のうち『義貞の馬属強(つけづま)ひの事』を描いたもので、石丸城から足羽での合戦に向かうため義貞が乗ろうとした馬が、嫌がって大暴れして、集まった人々が不安を感じる様子を表している。この場面での新田義貞、脇屋義助の装いについて、『太平記』の文中には「大将新田左中将義貞朝臣は、赤地の錦の直垂に、脇楯ばかりして、遠侍の座上に坐したまへば、脇屋右衛門佐は、紺地の錦の直垂に小具足ばかりにて、左の一の座に着きたまふ」と記されている。

(写真下:「石丸城跡(石丸城公園)」(福井県福井市石盛3丁目)、2026年6月1日午後訪問撮影)

石丸城発掘調査について
『石丸城跡の発掘調査』
平成21年(2009年)に、公園予定地で調査が行われました。遺跡の中心部にあたる、堀で囲まれた内部の様子や、南北朝時代以降に朝倉氏の支配が及んでいたことが分かる遺構が確認され、幻ともされてきた石丸城が、現実に蘇ることとなりました。
『発掘調査の成果』
発掘調査では、南北朝時代と、朝倉氏の領地となった戦国時代との二時期の遺構が検出されました。まず、南北朝時代の屋敷地は、幅3.7m、深さ1.2mの堀が巡っています。堀の一部で、武士が頭に被る烏帽子が出土して、大きな話題となりました。新しい戦国時代の堀は、全体の規模は分かりませんが、幅が8.7mと倍近くの規模でした。堀の内部(屋敷)では、建物の跡や、溝、土壙、井戸、ゴミ捨て穴等が見つかりました。出土した遺物には、日常生活に使用された陶磁器、木製品、金属製品などがあり、酒杯や灯明皿として用いられたカワラケもたくさん見つかっています。
『石丸城の歴史的意義』
石丸城跡の遺構が遺っていたことは、越前で新田義貞や斯波高経が覇権をかけて戦った様子を明らかにしていくための、一級の資料と言えます。越前各地には、長崎城や藤島城など、彼らの戦いの軌跡が数多く遺されていますが、発掘調査で実際に遺構が明らかになったのは、今のところこの石丸城跡だけで、他にはありません。
【参考文献】『石盛遺跡Ⅱ』福井市教育委員会 2015年

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