北陸ゆかりの人物評伝 第1回 「古河力作の生涯」(水上 勉 著)

「古河力作の生涯」(水上 勉 著、平凡社、1973年11月発行) <単行本>


「古河力作の生涯」(水上 勉 著、文春文庫<文藝春秋>、1978年1月発行) <文庫本>
(単行本「古河力作の生涯」は、1973年11月、平凡社より刊行。平凡社の雑誌『太陽』で連載(1972年1月号〜73年6月号)した文章をまとめて刊行)

<著者紹介>水上 勉(みずかみ・つとむ>(1919~2004)
1919(大正8)年、福井県に生れる。さまざまな職業を経て、1961年 第45回の直木賞を「雁の寺」で受賞、精力的な執筆活動をはじめた。著書に「霧と影」「海の牙」「飢餓海峡」「越後っちし親不知」「五番町夕霧楼」「木綿恋い記」等がある。(本書著者紹介・本書掲載時)
<補足> 1919年(大正8年)、福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)に生れ、
少年時代に禅寺の侍者を体験する。立命館大学文学部中退。戦後、宇野浩二に師事する。1959(昭和34)年『霧と影』を発表し本格的な作家活動に入る。1960年『海の牙』で探偵作家クラブ賞、1961年『雁の寺』で直木賞、1971年『宇野浩二伝』で菊池寛賞、1975年『一休』で谷崎賞、1977年『寺泊』で川端賞、1983年『良寛』で毎日芸術賞を受賞する。『金閣炎上』『ブンナよ、木からおりてこい』『土を喰う日々』など著書多数。2004(平成16)年9月永眠。

「大逆事件(幸徳事件)」といわれる天皇暗殺謀議は、1911年(明治44年)1月に、大逆事件の首謀者に仕立てられた幸徳秋水をはじめ12人の死刑執行に至ったが、その12名の死刑囚の一人に、草花栽培の園丁であった古河力作がいた。古河力作 (1884年(明治17年)~1911年(明治44年)1月24日)は、若狭小浜郊外の雲浜村に生れて、神戸での丁稚期間を経て、20歳で東京に出て、東京・滝野川の草花圓で園丁をつとめているうち、社会主義を信奉するようになり、幸徳秋水や管野スガと往来を重ね、大それた陰謀に加わっていたとして処刑されることになったが、花づくりにいそしむ若狭出身の小柄な青年が、なぜ大それた陰謀に加担したのか、その屈折した短い生涯(数え年28歳)を描いた長編。

古河力作は、1884年(明治17年)6月14日、福井県遠敷郡雲浜村竹原第9号字西作園場9番地に生まれ、本書の著者の水上勉は、古河力作の処刑8年後の1919年に生まれた福井県大飯郡本郷村出身で、同じ福井県の若狭の出身。同じ若狭生まれの水上勉は、”ながいあいだ古河力作さんのことを考えてきていて、いつかこの人の死について書かねばと思っていた”が、平凡社の雑誌『太陽』の担当編集者に、かつて平凡社の編集者でもあった古河三樹松氏(古河力作の実弟)を紹介してもらい、たくさんの資料を提供してもらったことが、執筆を大いに進めることができ、平凡社の雑誌『太陽』で連載(1972年1月号〜73年6月号)。その後、連載文章をまとめ1973年11月、平凡社より単行本「古河力作の生涯」が刊行された。

著者が「古河力作の生涯」を書かねばならなかったわけについては、本書あとがきでも、”私と同じ故郷をもつ古河力作の境遇に、私がひとなみならぬ哀惜をもってきたこと、福井県の片隅に生れた身丈尋常でない少年が、草花栽培というのどかな職業に従事していながら、なぜに大逆事件の死刑者の仲間に入ってしまったのか、その不思議ともいえる運命を私なりにさぐりあててみたかった。”と述べ、また、”私は天下国家について大きく発言するのは嫌いである。しかし、天下国家の片隅にあって、天下国家の運命に踏みたたかれてゆく小さな人生についての関心はふかくある。今日もその関心はつよい方だ。” と述べ、力作の人生を掘りおこすことの意味に言及している。そして、力作の生れた村をふりだしに、神戸、東京と、彼の住んだ町々を歩き、事件の事や、力作のひととなりについては、それを知る存命の方々に会い、苦心の著作をなした人々の書物を読むなど、克明な取材を行っている、

古河力作は、1884年(明治17年)6月14日、福井県遠敷郡雲浜村竹原第9号字西作園場9番地(現・福井県小浜市)に、父は慎一、母は八尾(やを)の長男として生れ、地元の雲浜尋常高等小学校(雲城校)での高等科卒業までの学窓8年を含む小浜作園場で17年の歳月を過ごす。その生家は、小浜の代々の廻船問屋の豪商・古河家の分家の素封家。生活に困らない家系に生を得ていながらも、時代の急流に押し流されるように、古河本家の衰運だけでなく、父・慎一がいろんな事業で失敗が続き、騙され資産を売りつくすなど、生家の変貌も語られるが、古河力作がなみ外れた小男で矮小体躯だったために、その精神形成に特異な劣等意識を育んできたことが想像されると、著者は述べている。17歳で小浜を離れ一度も故郷に戻らなかったといわれる古河力作が少年時代に写生した故郷の風景のスケッチなどを含む豆手帖を、異郷に暮らしても大事に所持していたと見られる話は、如何に幼少期の故郷の風景を哀惜したかと、涙を誘う。

1899年(明治32年)3月、雲城校高等科卒業(学窓8年生活終了)し、その翌年の1900年(明治33年)9月30日から1901年(明治34年)10月迄、当時、京都の上京区木屋町丸太町上る三本木町に仮寓していた父慎一とともに、京都に同居することになる。当時、理由は分からぬが、父・慎一が小浜の作園場の家を離れて、しばらく京に住んでいて、実弟の古河三樹松は、1901年1月16日、この時期に京都で生まれている。親同伴での京見物の悦びも、古河力作の豆手帖には絵入りで説明されているとのことだ。そして、父慎一が古河力作の将来を考えて何か仕事をさせねばとの配慮から、神戸在住の実弟・古河融吉を頼る。

古河力作は、1901年(明治34年)10月末から神戸市生田区荒田町の叔父・古河融吉の家にしばらく滞在した後、1901年(明治34年)末頃から1903年(明治36年)秋まで、神戸の中山手の永井西洋草花園芸店の丁稚として働くことになるが、ここでは、水上勉は、古河力作が第二の人生の出発に迎えた都市環境が、文明開化の先端をゆく貿易都市の神戸の異人館が集まる山手一帯での西洋草花販売の仕事であったことに着目している。古河力作が洗礼は受けてはいないが基督教に入信するのは20歳の上京以降と見られているが、水上勉は、この異人館が集まり教会が多い神戸山手での生活に、宗教心の芽生えがあったのではないかと推察している。

ただ、その神戸での生活も、古河力作が勤めていた永井草花店の廃業により、約2年間で終わり、当時、京都にいた父慎一が、縁を辿り、1903年(明治36年)11月、古河力作が東京に移住し、東京北豊島郡滝野川村132番地(現・東京都北区滝野川1丁目54番地)の印東熊児経営の西洋草花圓「康楽圓」に住み込みで園丁として、大逆事件で投獄される1910年(明治43年)5月末まで約6年半働くことになる。主人の印東熊児(1871年~1928年)はドイツ留学して花卉栽培を学び、東京の滝野川で西洋草花店を若くして開業し、印東熊児も妻の音鳴ともに熱心なクリスチャン。のち古河力作が獄中にあって、栽培中の草花にふかい関心を寄せた一方、主人の印東熊児への敬慕も持ち続けたことも驚嘆するが、印東熊児の長男、玄一氏の述懐などからは、印東夫妻は古河力作を暖かく面倒見、一家とは家族のような関係で穏やかな生活だったことが伺われる。

古河力作が、草花栽培にいそしみながらも、どのような経過で、社会主義思想に傾斜していったかについては、明治39年(1906年)頃、社会主義者の機関新聞「光」を購読し又社会主義の雑誌を読み始め、明治40年(1907年)春ごろより社会主義を信仰するになるが、その頃は同志と往来するようなことは無かったと本人が調書で応えている。滝野川の西洋草花店に住み込みでの勤め人ながら、古川力作が地区の社会主義クラブである川田倉吉主催の「愛人社」に出入りするようになるのが明治41年(1908年)以降。この愛人社が、滝野川番場(現・東京都北区滝野川2丁目)にあり、滝野川の印東康楽園と非常に近所であり、「愛人社」代表の川田倉吉はのちに屑物業を営み、愛人社に出入りしている人たちは、有名な演歌師の添田唖蝉坊や、屑屋の大将の高橋勝作などで、古河力作にはどこか馴染みやすい主義者がいたとのことだ。

川田倉吉は明治39年(1906年)頃から社会主義者になったが、1908年(明治41年)8月に、土佐から東京の淀端町柏木に越してくると、すぐ訪問して、幸徳秋水の人間に傾倒しているし、幸徳秋水、管野スガ、新村忠雄、宮下太吉などの大逆事件の明科事件関係者と面識があったことも知られている。1908年(明治41年)10月には幸徳秋水の住居でもある平民社は巣鴨(現JR大塚駅北口近く)に移転するが、川田倉吉を大将とする「愛人社」の同志連が幸徳秋水に近づくのは、この巣鴨時代の平民社によく出入りするようになってからだが、古河力作も川田倉吉とともに平民社を訪れ、その後、古河力作は幸徳秋水や管野スガ、新村忠雄と往来を重ねていく。康楽園の古河力作を幸徳秋水も1度訪ねてきたことがあるらしく、新村忠雄も2度ばかり訪ねている。滝野川の印東康楽園、滝野川馬場の愛人社、巣鴨時代の平民社と、偶然にも非常に距離が近い場所に位置することも古河力作にとって運命的といえる。

平民社は1909年(明治42年)3月に千駄ヶ谷(現・渋谷区代々木2丁目7番地)に移転し、同年5月25日付で、幸徳秋水と管野スガが政府の妨害に遭いながらも苦労して発行した新しい新聞「自由思想」創刊号に、若狭出身の一園丁の古河力作が印刷名義人として突如登場として社会主義運動の花道に躍り出るが、草花栽培にいそしみながら、西洋草花店での住み込みの勤め人であり、それまで目立った活動・行動もなく、他の理論家や過激な活動家たちとは余りに違いすぎる古河力作の「自由思想」印刷名義人としての突如の登場には非常に不思議な違和感を感じる。この不思議な違和感は、古河力作が、なぜ、どのようにして大逆事件に巻き込まれたか?なぜ、どういうことで検挙され、その後、死刑に処されなければなかったかという問題についても、ずっと付きまとってくる。大逆事件そのものの構図が非常に驚くべきものであり、またそこに登場してくる事件関係人物間の関係性や、一部の天皇暗殺謀議計画にしてもあまりに稚拙でどこまで本気だったか分からないようなレベルだったことにも驚くが、大逆事件そのものの経緯は、本書は非常に詳しい。

大逆事件そのものは、明治政府が本来は関係のない三つの「事件」を結びつけて「大逆事件」という一大陰謀事件を作り上げて、その首謀者に幸徳秋水を仕立て上げ、いいがかりのような理由で多くの関係者が処罰されたものだが、大逆事件の発端となった明科事件は、1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉 が明科製材所で爆発物取締罰則違反容疑で逮捕されたことにより明るみに出た、宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作4名による明治天皇暗殺計画政府により捏造された事件と言われるが、その内容はあまりに稚拙で、しかも、その中でも古河力作の事件の関与性は非常に薄く犯意も著しく疑問だ。根は優しかったが、人前では豪胆に振る舞い大言壮語する癖が古河力作の悲劇を招いたとも言える。

古河力作は、管野スガから爆裂弾で天皇暗殺への参加を持ちかけられた際に、日ごろから大言壮語していた手前、嫌だとは言えず、いつでも脱けられると思って消極的に同意した、と後に獄中でその真情を吐露しているが、明科事件関係者と言われるメンバーが集まって協議を重ね、綿密な暗殺計画を作成した形跡はなく、古河力作自身は、爆弾は作ってもいないし、また爆弾を作った明科事件の主導者の宮下太吉とは一度も顔をあわせたこともなく、やり取りもしたこともないぐらいの関係。1909年(明治42年)10月上旬に、古河力作は千駄ヶ谷平民社で管野スガ、新村忠雄より、暗殺計画加入の勧誘を受け。1910年(明治43年)1月23日、新村忠雄、古河力作が、千駄ヶ谷平民社で暗殺計画の実行方向について相談したとされるが、全く大逆実行のための予備陰謀とも言えず、また暗殺謀議は古河力作を除外した3名で謀られていて、1910年(明治43年)5月17日、千駄ヶ谷の管野スガの下宿の増田家で、爆爆裂弾を投げる順番をきめるくじ引きなどという戯れのようなことをした程度。

世に名高い大逆事件の実態や、首謀者とされた幸徳秋水の関わりも本書に詳しいが、大逆事件の明科事件メンバーとして宮下太吉、管野スガ、新村忠雄と並んで4名の一人として名を挙げられる若狭出身の園丁・古河力作の関与も全く同列ではなく、自覚なく巻き込まれている経緯と状況が本書で良く分る。その古河力作の生涯や、その人となりについても深く掘り下げた力作。また、古河力作が生れた若狭の風土や時代についても、水上勉ならではの記述が多く、古河屋の衰運や小浜・西津の街、明治23年(1890)に若狭で起った西津漁民騒動、義民の松木荘左衛門、忠烈綱女の話など、若狭を識る上で興味深い話に筆が及んでいる。

古河力作の略歴(1884年~1911年1月24日)
▼1884年(明治17年)6月14日、福井県遠敷郡雲浜村竹原第9号字西作園場9番地に生れる。
▼1891年(明治24年)4月、雲浜尋常高等小学校(雲城校)入学
▼1899年(明治32年)3月、雲城校高等科卒業(学窓8年生活終了)
▼1900年(明治33年)9月30日から1901年(明治34年)10月迄、当時、京都の上京区木屋町丸太町上る三本木町に仮寓していた父慎一とともに、京都の同居
▼1901年(明治34年)10月末から神戸市生田区荒田町の叔父・古河融吉の家にしばらく滞在。
▼1901年(明治34年)末頃から1903年(明治36年)秋まで、神戸の中山手の永井西洋草花園芸店の丁稚として働く(約2年間の神戸生活)
▼1903年(明治36年)11月、古河力作が永井草花店の廃業により、東京へ移住。滝野川(現・東京都北区滝野川)の西洋草花圓・印東康楽圓で園丁(事件で投獄される1910年(明治43年)5月末まで約6年半働く)
◎1909年(明治42年)5月25日付創刊の新聞「自由思想」の印刷名義人となる
◎1909年(明治42年)6月頃、古河力作が明科製作所にいる宮下太吉が爆裂弾の発明に成功したという話は平民社で聞く
◎1909年(明治42年)10月上旬、古河力作、平民社で管野スガ、新村忠雄より、暗殺計画加入の勧誘を受ける
◎1910年(明治43年)1月23日、新村忠雄、古河力作が、千駄ヶ谷平民社にて暗殺計画の実行方向について相談する。
◎1910年(明治43年)5月17日、管野スガの千駄ヶ谷の下宿の増田宅で、管野スガ、新村忠雄、古河力作で、爆爆裂弾を投げる順番をきめるくじ引き
▼1910年(明治43年)5月25日、宮下太吉、爆発物取締罰則違反容疑で松本署に連行される。新村忠雄、自宅から屋代署へ連行される。松本署長、宮下太吉・新村忠雄・新村善兵衛・新田融のほか、幸徳秋水・管野スガ・古河力作を爆発物取締罰則違反の現行犯と認定。
▼1910年(明治43年)5月28日、長野県松本署により印東草花店にいた古河力作は長野に拘引
▼1910年(明治43年)5月31日、松室検事総長は即日、古河力作含む7名を起訴に決定
▼1910年(明治43年)6月2日、古河力作は、新村忠雄とともに東京へ護送。
▼1910年(明治43年)11月1日、予審は10月中旬にいたるまで、約5ケ月にわたって行われ全員の取り調べが終了したのが10月末で、11月1日に「予審意見書」が大審院長に提出
▼1910年(明治43年)11月9日、大審院は全員26名を公判に付すべしと決定
▼1910年(明治43年)12月10日、鶴裁判長、特別裁判を開廷。ただちに傍聴禁止を宣告して、非公開の秘密審理に入る。
▼1911年(明治44年)1月18日、鶴裁判長、幸徳秋水以下、古河力作含め24名に刑法第73条を適用して、求刑どおり死刑を判決(うち、12名は特赦)
▼1911年(明治44年)1月24日、市ヶ谷の東京監獄の絞首台で死刑執行。
▼1911年(明治44年)1月25日、森近、古河の死体、東京帝国大学医科大学が約束の解剖を拒絶
▼1911年(明治44年)1月26日、森近、古河の死体、落合火葬場へ
▼1911年(明治44年)1月27日、下落合の火葬場で焼かれる
▼1911年(明治44年)3月24日、古河力作の遺骨、市ヶ谷道林寺の墓地に埋葬。
(その後、道林寺は町田市相原町に移転し、古河力作の遺骨は行方知れず)

大逆事件(幸徳事件)被告26名と判決・処刑
1911年1月18日に、大逆罪により死刑24名、爆発物取締罰則違反での有期懲役刑2名の判決。裁判長は鶴丈一郎で、大審院一審のみの終審
■処刑12名(1月24日に死刑執行11名)
幸徳秋水(1871年~1911年1月24日刑死)
高知県幡多郡中村町(現・四万十市中村京町)出身、社会運動家
森近運平(1881年~1911年1月24日刑死)
岡山県後月郡高屋村(現・井原市高屋町)出身。社会運動家・農業
宮下太吉(1875年~1911年1月24日刑死)
山梨県甲府市若松町出身。機械工。
新村忠雄(1887年~1911年1月24日刑死)
長野県埴科郡屋代町(現・千曲市)出身
古河力作(1884年~1911年1月24日刑死)福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)出身
奥宮健之(1857年~1911年1月24日刑死)
土佐国土佐郡布師田村(現・高知県高知市布師田)出身、社会運動家

大石誠之助(1867年~1911年1月24日刑死)
紀伊国新宮仲之町(現・和歌山県新宮市仲之町)出身。医師

成石平四郎(1882年~1911年1月24日刑死)
和歌山県東牟婁郡請川村(現・田辺市本宮町)出身。雑貨商
松尾卯一太(1879年~1911年1月24日刑死)熊本県出身。新聞記者
新美卯一郎(1879年~1911年1月24日刑死)熊本県出身。新聞記者
内山愚童(1874年~1911年1月24日刑死)
新潟県北魚沼郡小千谷町(現・小千谷市)出身。禅宗僧侶。箱根太平台林泉寺住職
■処刑1名(1月25日に死刑執行1名)
管野スガ(管野須賀子)(1881年~1911年1月25日刑死)
大阪府大阪市北区絹笠町出身、新聞記者
■死刑判決を受けるも特赦無期刑となり服役中に獄死5名
高木顕明(1864年~1914年6月24日 獄中で自殺)
尾張国西春日井郡下小田井村(現・清須市)出身。僧侶。新宮・常泉寺住職。秋田監獄で自殺
峯尾節堂(1885年~1919年3月6日 獄中で病死)
和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)出身。禅宗僧侶。千葉監獄で病死
岡本穎一郎(1880年~1917年7月27日 獄中で病死)
山口県出身、大阪電燈会社雇員。諫早監獄で病死
三浦安太郎(1888年~1916年5月18日 獄中で自殺)
大阪出身。ブリキ細工業。諫早監獄で自殺
佐々木道元(1889年~1916年7月15日、獄中で病死)
熊本県出身。千葉監獄で病死
■死刑判決を受けるも仮出獄できた者7名
坂本清馬(1885年~1975年、89歳)高知県出身。活版文撰工。昭和9年(1934)仮出所。戦後、大逆罪廃止によって刑を免除され、昭和22年(1947)2月復権確定。
成石勘三郎(1880年~1931年)
和歌山県出身。薬種雑貨商。昭和4年(1929)仮釈放。刑死した成石平四郎の兄
崎久保誓一(1885年~1955年)三重県出身、新聞記者。昭和23年(1948)6月復権確定
武田九平(1875年~1932年)香川県高松市出身。大阪で彫金業を営む。昭和4年(1929)仮出獄後、1932年11月29日、大阪で交通事故で死亡。
飛松与次郎(1889年~1953年)熊本県出身。教員。秋田監獄から1925年5月10日、仮出獄。昭和23年(1948)復権。
岡林寅松(1876年~1948年9月1日、73歳)高松市出身。神戸湊川病院事務員・社会運動家。幸徳秋水らの非戦論に共鳴し小松丑治らと神戸平民倶楽部の結成に加わる。内山愚童との雑談で爆裂談の製法にふれたことを口実に大逆事件に連座。1947年2月復権。
小松丑治(1876年~1945年10月4日、69歳)高知市出身。
養鶏業・社会運動家。内山愚童に爆弾の製法をおしえたとして大逆事件に連座。1905年、岡林寅松らと神戸平民倶楽部を結成。1931年4月諫早刑務所より仮釈放ののち、京都に歿す。
■有期懲役刑2名
新田 融【有期懲役11年】(1888年~1938年、1916年仮出獄、59歳で死去)
宮城県出身、長野県の明科製材所の機械工で、宮下太吉に頼まれて爆弾用ブリキ缶を作る
新村善兵衛【有期懲役8年】(1881年~1920年、1915年仮出獄、40歳で死去)
長野県出身、弟・新村忠雄に頼まれて借用した薬研(器具)を鉄道便で宮下太吉宛に送っただけ

<関係する主な登場人物>
・古河慎一(古河力作の父、万延元年(1860)~大正5年(1916)三島孫右衛門の長子)
・古河八尾(やを)(古河力作の母、古河進一の従兄妹。元治元年(1864)生まれ)
・古河三樹松(古河力作の弟、1901年1月16日~1995年5月18日、京都生まれ)
・古河つな(古河力作の妹)
・古河融吉(父慎一の実弟、神戸在住の県庁勤めの獣医、後に神戸の中山手で犬猫病院開業)
・印東熊児(1871年~1928年、1903年ドイツ留学から帰国し東京・滝野川で康楽圓を開業)
・印東音鳴(1880年生まれ、印東熊児の妻)
・鉄五郎(印東康楽園に同居の人力車夫。使用人の同居は古河力作と鉄五郎のみ)
・川田倉吉(地区の社会主義クラブを東京・滝野川番場で主催)
・西村伊作(1884~1963)の弟にあたった人?
・茂木一次(1883~1956、印東玄一の姉の教師であった女訓導の夫)
・溝口直正(元新発田藩主の伯爵、巣鴨に住み印東康楽園に始終顔を見せる客、1855~1919)
・溝口直亮(1878~1951、溝口直正の長男)
・師岡千代子(1875~1960、幸徳秋水の元妻)
・堺利彦(1871~1933)
<取材対象者>
・古河三樹松(古河力作の弟、1901年1月16日~1995年5月18日)
・古河滋(古河融吉の子、1903年生まれ。取材当時、芦屋市在住)
・印東熊児の長男・玄一(1900年生まれ、取材当時、八王子在住)
・大逆事件当時の東京監獄看守・菅野丈右衛門
<取材・調査資料の一部>
・古河力作が少年時代に珍重したといわれる豆手帖
・処刑後に発見された古河力作の遺言状や「手記」
・古河力作が死刑を宣告されたのち獄中で書き残した「僕」という感想録
・古河力作が獄中で誌した「余と本陰謀との関係」
・古河力作からの家族あてのハガキ
・古河力作から康楽園主印東熊児あての「定価表について」という文書
・妙徳寺過去帳(父慎一が明治のはじめ頃、三島姓から改姓した記録)
・大逆事件被告弁護を担当した今村力三郎弁護士(1866年~1954年)のメモ
・古河力作の雲城校高等科の卒業写真(生徒21名、うち女子2名)
・立縞の着物に絣の羽織を着、チェックのハンチングをかぶった古河力作の個人写真
(雲城校高等科を卒業後約1年経って17歳で京都へ向かう時の記念撮影?)
・古河力作が長野裁判所で検事に申し立てた供述文
・古河力作の予審調書
・大逆事件証人調書(古河慎一、印東熊児)
・大逆事件調書(川田倉吉)
・大逆事件研究家・神崎清氏の著書「実録幸徳秋水」「革命伝説」他
・『西洋草花』(著者:印東熊児、発行:服部書店、明治41年(1908)9月21日発行)
・大逆事件研究家森長英三郎氏並びに新宮在住郷土史家仲原清氏の調査(印東家について)
・大逆事件研究家森長英三郎氏の調査(愛人社関係について)
・立野信之(1903~1971)の「赤と黒」(1969年1月発行、新潮社)
・古河力作から新村忠雄宛の1910年5月投函の手紙
・山川菊栄氏の『女二代の記』(平凡社刊)*山川菊栄の従姉の夫が古河融吉
・桑原武夫氏の『思い出すこと忘れえぬ人』(文藝春秋刊)*母の姉が古河本家に嫁ぐ
・宮下太吉がいた長野県東筑摩郡中川手村字明科(現・明科町)の人々

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    第11回 BOOK DAY とやま(2024年5月25日・5月26日)@富山駅南北自由通路(富山県富山市)
  2. 2024/3/13

    令和6年春季特別展「 越前百万石ものがたり~ 福井藩祖 結城秀康~ 」(2024年3月20日~2024年5月6日)@福井市郷土歴史博物館(福井県福井市)
  3. 2024/3/9

    北陸新幹線福井・敦賀開業記念特別展Ⅰ「戦国大名朝倉氏 武威の煌めき<源氏物語と戦国武将>」@福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(福井県福井市)
  4. 2024/3/8

    春季特別展「 前田家の姫君~ 寿々姫のお輿入れ~ 」(2024年3月8日~2024年6月11日)@加賀本多博物館(石川県金沢市)
  5. 2024/2/10

    富山市郷土博物館企画展「 館蔵品にみる十村たち ~藩主前田家を支えた江戸時代の豪農~ 」(2024年2月10日~2024年4月21日)@富山市郷土博物館(富山県富山市)
  6. 2024/2/7

    若州一滴文庫収蔵品展「 水上勉の集めた美術の粋」展 作家の選美眼と選ばれた絵画(2024年2月7日~2024年6月3日)@若州一滴文庫(福井県おおい町)
  7. 2024/2/6

    美浜町歴史文化館第15回企画展「 美浜に残る北前船の波跡」(2024年2月6日~2024年5月12日)@美浜町歴史文化館(福井県美浜町)
  8. 2024/1/26

    令和5年度越前市武生公会堂記念館 紫式部・源氏物語関連企画展(2)「 越前市へ通じる道 人・モノが行き交う道 」(2024年1月26日~2024年3月24日)@越前市武生公会堂記念館(福井県越前市)
  9. 2023/12/25

    高志の国 文学館 企画展「没後50年 コスモポリタン 翁久允 OKINA kyuin 脱日本人! 展」(2023年12月16日~2024年3月4日)@高志の国 文学館(富山県富山市)
  10. 2023/12/16

    福井県立若狭歴史博物館テーマ展「 ちょっとむかしのくらし展 国鉄小浜線のころ」(2023年12月16日~2024年3月10日)@福井県立若狭歴史博物館(福井県小浜市)
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