北陸の神社「天満神社(石盛天満神社)」(福井県福井市石盛2丁目)
(写真下:天満神社(福井県福井市石盛2丁目)<*2026年6月1日午後訪問撮影>

天満神社 由緒
石盛天満神社は菅原道真公(845~903)を祭神としている。菅原道真公は、平安時代前期の政治家であり学者であった。宇多天皇の信任を受け大納言となり、醍醐天皇の時には右大臣となったが、左大臣藤原時平のざん訴にあい、九州太宰府に左遷され、2年後悲運の最期をとげられた。しかし、道真公の没後、事実無根のざん訴であったことがわかり、その後「真摯な政治家」として、また「最高に徳の高い聖者」として、更には「神の化身」とまで言われ、今日では「学問の神様」「天神様」として尊敬されている。
さて、石盛の石丸城は、有名な新田義貞(1338没)や、その弟 脇屋義助が一時居城としていたことは歴史(太平記その他)に明らかであるが、その脇屋義助の守本尊は菅原道真公であったと言われ 出陣の際には必ず天満神社に参拝して戦に勝ってきたという。また、脇屋義助は石盛に限らず県内の各地においても、出陣していく所に近い天満神社に参拝し、勝利した際には社殿を造らせたり、刀を奉納したりしてきたことは、福井県神社誌にもでているところである。石盛の天満神社も、そのような関係で建てられたのではないかと言われている。また当神社は、いつということは不詳であるとはいえ、こうして義貞、義助の時代には既に建てられていたのではないかという創立に関する歴史や、金津領村鏡に鎮座していたという事実を証拠づけるものがあるなど、永い歳月の流れと古い歴史をもっていることに違いなく、天満神社こそ由緒ある神社といえよう。
今やこの地に住む石盛の氏子は、敬神の念いよいよ篤く、いつまでも天満神社を心の拠り所としていくことであろう。
石丸城は、「太平記」に登場する城で、新田義貞の弟、脇屋義助が、斯波高経を討つための南朝方の拠点としていた城で、新田義貞と弟の脇屋義助が一時、居城して戦った城。越前における南朝方最後の拠点となった。福井県福井市の森田地区の石盛町に、土地の字名として、「館ノ中」・「館ノ前」の小字が残っていて、その位置はおよそ推定されていたが、平成8年度(1996年度)から始まった福井市の区画整理事業に伴って、この地域一帯の発掘調査が実施され、大きな堀の跡が確認され、建物や井戸の痕跡が見つかり、また、南北朝時代に武士がかぶっていた「烏帽子」も発掘された。石丸城公園は、石丸城の跡地に整備された公園で、2019年9月から7ヶ月かけて造成され、2020年6月7日に竣工式が開かれた。尚、堀は、南北朝時代に掘られたものと、後の戦国時代(朝倉氏の支配下)に掘られたものがあり、戦国期には一乗谷の朝倉氏時代の家臣・佐伯勘解由左衛門の居城だったが、加賀の一向一揆勢力との戦いで敗れ焼亡。
この「石丸城跡(石丸城公園)」(福井県福井市石盛3丁目)の場所から、西に100mほどの、ほぼ隣接している場所に鎮座するのが、天満神社(石盛天満神社)(福井県福井市石盛2丁目)。菅原道真公(845~903)を祭神としている天満神社は、創立の年月不詳ながら、新田義貞や脇屋義助が一時、居城としていた石丸城の所在地に鎮座。新田義貞の弟・脇屋義助のの守本尊は菅原道真公であり、出陣の際には必ず天満神社に参拝して戦に勝ってきたとも言われ、この石盛天満神社も、脇屋義助の時代には既に建てられていたのではないかと考えられている。また、脇屋義助は石盛に限らず県内の各地においても、出陣していく所に近い天満神社に参拝し、勝利した際には社殿を造らせたり、刀を奉納したりしてきたと伝わる。
上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の嫡男として生まれた新田義貞(1300年頃~1338年)は、元弘3年(1333年)5月の鎌倉攻めに突然登場し、北条高時を権力の頂点とする鎌倉幕府を攻め滅ぼして後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、足利尊氏との対立を深め、その後、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に、石丸城を出陣し越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げるまで、越前で南朝方の勢力拡大に奔走する。劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、30数年の生涯の中で、足利尊氏と覇を競い疾駆した5年の後半の約2年間は、越前各地で奮戦し越前で戦死となった北陸・越前と大変ゆかりの深い武将。
一方の脇屋義助(新田義助)(1305年~1342年)は、上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の次男で新田義貞の弟として生まれ、長じて、上野国新田郡脇屋(現・群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから「脇屋」と称した。元弘3年(1333年)5月、兄・義貞が生品神社で鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵以来、兄・義貞に従い、鎌倉幕府の倒幕に寄与。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い1333年8月、上洛。新田義貞は越後・上野・播磨国司に、脇屋義助は駿河国司に任じられたり、官職にも就くなど、兄・義貞を支え、後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、その後、兄・義貞が足利尊氏との対立を深め、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で、脇屋義助は、兄・新田義貞を助けて恒に行動を共にし各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は脇屋義助とともに、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方の室町幕府に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、新田義貞は、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げる。
脇屋義助も、兄・義貞とともに比叡山を下り、越前に向かい、敦賀の金ヶ崎城に入るが、越前守護・斯波高経の軍勢に激しく攻め立てられ、義貞と脇屋義助が救援を求めるため、杣山城へ出かけている隙に、金ヶ崎城は1337年3月に陥落。新田義貞は越前国杣山城を拠点に挽回の機会をうかがい、脇屋義助は、兄・義貞とともに、越前各地で奮戦し南朝方の勢力拡大に奔走し、越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、兄・義貞の越前藤島での戦死で越前南朝方は、一時崩壊の危機に置かれる。新田義貞が討死した後、脇屋義助は、一旦「河合ノ石丸ノ城」に戻り、退却して府中(現・福井県越前市)に退くが、越前南朝方の総大将の地位を引き継ぎ軍勢をまとめて、1339年7月には北朝方の斯波高経の越前黒丸城を攻め落とし、斯波高経を加賀の富樫城へ敗退させるなどの成果をあげる。
脇屋義助の活躍で北陸方面が南朝方の強力な拠点になると、翌1340年には北朝方の大軍による反攻が行われ、1340年8月、南朝方の拠る黒丸城が北朝方に陥落、その後も、南朝方は府中から退却、1341年6月には杣山城が陥落し、1340年から1341年の北朝方の反攻で越前国内の南朝方は一掃される。この間に、脇屋義助は越前を去り、越前と美濃の国境・温見峠を越え、一時美濃の根尾城(現・岐阜県本巣市)に立て籠っていたが、美濃守護・土岐頼遠の軍勢に攻められて義助は尾張へ移り熱田神宮の大宮司に助けられ、尾張の羽豆崎(現・愛知県南知多町)の神宮領で整えて、海路伊勢に渡り、伊賀を経て、1341年8月、吉野の後村上天皇の行宮に参内。1342年3月、脇屋義助は、四国及び西国の南朝方の総大将を命ぜられ、熊野水軍とともに海を渡り、1342年4月、四国の伊予国府(現・愛媛県今治市)に入るが、突如発病し、伊予入国後わずか20日ばかりで病没。享年38歳。兄・義貞同様、劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、38年の生涯の中で、最後は、伊予国での病没ではありながら、比叡山下山から金ヶ崎入城し、義貞死後も越前の南朝方の総大将として越前各地で奮戦した。
(写真下:天満神社(福井県福井市石盛2丁目)<*2026年6月1日午後訪問撮影>

神社沿革
1、明治以前の社殿の規模などについては不詳である。
1、明治初期の社殿は、前口6尺・奥行8尺・境内153坪、氏子は38戸であった。
1.大正8年(1919)村社に指定され、それを機に改築。前口2間半、奥行2間、翌9年2月に完成された。
1、御神体は菅原道真公。初めは木像であったが、後に石像となった。しかし、昭和23年(1948)の福井大地震により社殿は倒壊、御神体も損傷したので、青銅造りとし現在に至る。
1、社殿は昭和25年(1950)に改築されたが、当時は戦後間もないことであり、しかも福井大地震という災害の後のことでまさに混乱と貧困の時代であった。したがって、十分な再建とはならなかったものの、古材も使用して再び改築された。規模は、間口2間半・奥行2間の社殿であった。
1、震災後50年、古材も使用して建てられた社殿は、かなり傷みも多くなってきたので改築を考えていたやさき、福井市の都市計画により、神社境内の位置が南に移動することとなった。そのため、これを機会に平成16年(2004)社殿を改築することとなった。竣工は10月吉日。
1、現神社敷地面積は767平方米、借地面積713平方米、計1480平方米となった。社殿は、神殿・幣殿・拝殿・向拝とし、建築面積82.5平方米。主要な柱はすべて欅の9柱、屋根は千鳥破風という豪華なものとなった。
1、神紋は梅鉢。祭礼は1月の元旦祭、3月の春の例祭、7月の半夏生祭、10月の秋の大祭となっている。
2004年10月吉日











