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首都圏の中の北陸ゆかりの地「泉鏡花旧居跡・終焉の地」(東京都千代田区六番町5)
首都圏の中の北陸ゆかりの地
「泉鏡花旧居跡・終焉の地」(東京都千代田区六番町5)
(写真上:泉鏡花旧居跡(東京都千代田区六番町5)<*2023年7月4日訪問撮影>
明治6年(1873年)11月4日、石川県金沢町下新町23番地(現・石川県金沢市尾張町2丁目)に生れ、後にに日本近代浪漫主義を代表する作家となった泉鏡花は、1939年(昭和14年)9月7日午前2時45分、肺腫瘍のため、東京府東京市麹町区下六番町の自宅で逝去。享年65歳。この最後の自宅跡で終焉の地には、今はただ、案内板が、同地に建つ高級マンション敷地の道路わきの一角に小さく建てられているのみで、”1910年 明治43年 泉鏡花旧居跡 泉鏡花(1873~1939)が明治43年から死去まで、「婦系図」のモデルでもあった愛妻すずとここで暮らした。「夜叉ヶ池」や「天守物語」などはここで生まれた。”と紹介あるのみ。
明治43年(1910年)5月、崖下で日当たりの悪い麹町区土手三番町三十番地から、下六番町十一番地の二階家に引っ越しをする。引っ越し先は、南に3百メートルほど行ったところで、大きな銀杏の木が近くにあった。番町小学校近隣の住宅地で、昭和14年(1939年)9月7日に亡くなるまでの、泉鏡花の終の棲み家となった。建坪は27坪で、長唄の師匠が住んでいた家だという。この麹町区下六番町の泉鏡花の自宅の道路を挟んで向かいは、有島武郎(1878~1923)、有島生馬(1882~1974)、里見弴(1888~1983)の三兄弟の父、官僚・実業家の有島武(1842~1916)が明治29年(1896年)に購入し自邸としていて、この3兄弟がここで育っている、
(写真上:麹町区下六番町11の泉鏡花の最後の自宅外観、泉鏡花関連書籍より引用)
麹町通りと大妻通りを繋ぐ通りは、通称”番町文人通り”で、島崎藤村、泉鏡花、有島武郎、与謝野晶子・鉄幹、藤田嗣治など、明治から昭和にかけて、多くの作家、文学者が、番町麹町界隈に住んでいて、旧居跡には、現在、目印の案内プレートが設置されている。
(写真上3枚:番町文人通り(東京都千代田区六番町と二番町の境)。真ん中の写真の手前右側が、有島邸跡)<*2023年7月4日訪問撮影>
なお、泉鏡花は、1890年(明治23年)10月、満17歳となる前で作家となるべく上京するも、何の成算もなく無謀な上京で各所を転々とする放浪の生活を1年過ごし、友人の勧告に従って帰郷を決意した泉鏡花だが、最後の思い出にと、1891年(明治24年)10月、東京府東京市牛込区横寺町47番地の尾崎紅葉宅を訪ねると、直ちに入門を許され、翌日から玄関番として尾崎紅葉宅に住みこむ牛込横寺町時代がスタート。その後は、1895年(明治28年)2月、牛込横寺町の尾崎紅葉宅を出て、小石川区戸崎町61番地の博文館若主人の大橋乙羽宅に移る小石川戸崎町時代を経て、1896年(明治29年)5月、同じ小石川区の小石川大塚町57番地の借家の長屋に移り初めて独立し一家を構えた。
1899年(明治32年)秋、牛込区南榎町22番地に転居。1903年(明治36年)1月、神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すゞ)と同居するため、神楽坂下の牛込区神楽町2丁目22番地の新築2階建ての家にに転居。牛込神楽坂時代は、1905年(明治38年)7月迄で、その後は病気静養のため逗子田越村に借家。そして、1905年(明治42年)2月、逗子から東京に戻り、笹川臨風の世話を受けて麹町区土手3番町30番地に一旦住むが、1910年(明治43年)5月、終生の住まいとなる麹町下六番町に転居している。