京都における北陸ゆかりの地「若州小浜藩京都藩邸跡」(京都府京都市中京区西ノ京池ノ内町)

京都における北陸ゆかりの地
「若州小浜藩京都藩邸跡」(京都府京都市中京区西ノ京池ノ内町)

(写真上:若州小浜藩京都藩邸跡(京都府京都市中京区<*2024年1月31日午前訪問撮影>

若州小浜藩邸  通称 若州屋敷 <案内板より>
ここ池ノ内町一帯は、江戸時代京都所司代を3代21年の長きにわたって務めた譜代名門の若州小浜藩酒井家12萬2千石の京都藩邸跡である。その敷地は東西220米神泉苑町通から智恵光院通まで、南北260米御池通から三条通まで、その他家臣の屋敷が西側につづき、これらを含めると約2萬坪の拡大な藩邸であった(二条城約8萬坪)。
又、この屋敷はのちに徳川15代将軍となった慶喜公が文久3年(1863)12月から居住し、慶應3年(1867)9月21日、二条城に移るまでの3年10ヶ月、京都における幕府の活動拠点となり、この間ここで四賢侯会議を始め、京都守護職、老中、所司代ら幕閣要人等と協議を重ね、大政奉還の腹案を持って二条城に入り、慶應3年(1867)10月14日の布告となった。この屋敷が幕末我国にとって重要な役割を演じ、その決断が下された場所である。
当時の面影を残すものは無く、唯一前に建っている灯籠があり、側面に萬延二辛酉年二月(1861)正面に白須甲斐守源政偆とある。  福井県小浜市

若狭小浜藩主は譜代大名の酒井家で、その京都藩邸は,江戸時代を通じて二条城南西のこの地にあった。元和9(1623)年、三代将軍徳川家光(1604年~1951年、在職1623年~1651年)は、腹心の酒井忠勝(1587年~1662年)に命じて、二条城の南西端に酒井家の京屋敷を造らせ、1634年(寛永11年)酒井忠勝が若狭国小浜藩に転封となり、若狭国小浜藩初代藩主となる。酒井忠勝は、徳川将軍からの信頼も厚く、徳川家光・家綱の時代に江戸幕府の重鎮として活躍。1624年(寛永元年)には本丸年寄(老中)に、1638年(寛永15年)には大老に任じられている。以降、約250年間、明治維新で新政府に収公されるまで、この地の酒井家の京屋敷は、若州小浜藩京都邸としての使命を果たしていく。

敷地は時の流れにより、外郭に少々の出入りがあったとはいえ、京都市中京区西ノ京池ノ内町一帯で、東西220メートル 神泉苑町通から知恵光院通まで、南北260メートル御池通から三条通までで、その西側に家臣の屋敷がつづき、約2万坪に及ぶ広大な屋敷であった。若狭国小浜藩酒井家は、名門の譜代大名で、大老の初代藩主・酒井忠勝(1587年~1662年)に続き、8代将軍徳川吉宗(1684年~1751年、在職1716年~1745年)の享保の改革を支えた5代藩主・酒井忠音(1691年~1735年)と、11代将軍徳川家斉(1773年~1841年、在職1787年~1837年)時代の10代藩主・酒井忠進(1770年~1828年)は、老中に任じられている。

また、京都所司代についても若狭国小浜藩酒井家からは3人を輩出している。若狭国小浜藩7代藩主・酒井忠用(1723年~1775年)が、1752年~1756年の4年間、10代藩主・酒井忠進(1770年~1828年)は老中在職(1815年~1828年)前の1808年~1815年の7年間、12代藩主・酒井忠義(1813年~1873年;1862年に忠禄に改め1868年12月に14代藩主を再相続)が、1843年~1850年と、1858年~1862年の2回、京都所司代に任じられている。

特に、酒井忠義の2回目の京都所司代は、安政5年(1858年)6月19日の日米修好通商条約調印があり朝幕関係が悪化した安政5年(1858年)6月26日に京都所司代を復職し9月2日に入京しているが、1858年6月23日、大老井伊直弼の下、再び老中に復帰し同年9月16日に上洛した間部詮勝(越前鯖江藩7代藩主、1804年~1884年)を補佐し,穏便論を採りながらも大老井伊直弼による安政の大獄に協力。桜田門外の変で井伊が倒れたのち,公武合体を図って将軍徳川家茂と皇妹和宮の結婚を実現に導くが,尊攘派志士たちから恨まれ、京の治安を維持し得なかったこともあって、文久2(1862)年6月辞職。同年閠8月、娘婿の忠氏に家督を譲り隠居,次いで同年11月20日に蟄居謹慎の処分を受けた。

幕末の小浜藩の京都藩邸は、その12代若狭小浜藩12代藩主で京都所司代の酒井忠義の本拠で,この若州小浜藩邸の石標は、若狭小浜藩邸の跡を示すもので、2002年(平成14年)、福井県小浜市によって建立。同年7月10日、小浜市主催の序幕式が催された。(石標の北面の”若州小浜藩邸跡”の文字は、酒井家の現当主・酒井忠和氏が揮毫し、石標の南面には、”贈2002年 中島辰男 福井県立若狭歴史民俗資料館長”と刻まれ、近くの住家庭園に残っていた藩邸の燈籠も移された。この小浜藩邸は、通称、若州屋敷と言われ、御池邸、後見邸、京都旅館とも称せられていたとのこと。

更に、この小浜藩邸は、1863年(文久3年)12月から1867年(慶応3年)9月21日までの3年10ヶ月の期間、将軍後見職一橋慶喜(1837年~1913年)が最後の将軍として二条城に入るまでの期間をここで過ごし,大政奉還への道筋を構想した場所とされる。慶喜は、若き将軍家茂を後見するため将軍後見職に任じられ、開国と壌夷、幕府と朝廷との接点を求めて文久三(1863)年1月上洛、かねて徳川家と関係の深い東本願寺に入る。しかし、東本願寺では御所が余りに遠すぎて不便であり、小浜藩主酒井忠義が1892年6月に京都所司代を罷免され閏8月に隠居、11月には蟄居を命じられて、空き屋敷になっていた小浜藩の京都屋敷の提供を受ける事となったという。こうして一橋慶喜が改革を進めるためにも、あえて二条城に直ぐには入らず、二条城にも非常に近い小浜藩邸(若州屋敷)に入ったのが、文久3年(1863)12月21日。

翌1864年、禁裏守衛総督となり、慶応2(1866)年12月5日、遂に将軍に就任。そして二条城に人ったのは翌3年(1867年)9月21日。幕末の動乱期を小浜藩邸を本拠として、参与会議など重要案件対策の拠点とした。参与会議は当初、二条城で行われたが後に「後見邸会議」とも呼ばれて、しばしばこの場所が使われている。また、慶喜は将軍としての大半を小浜藩邸で起居し、二条城ではわずか2カ月、大坂城も1カ月に満たない、そして、遂に、慶喜は、小浜藩邸を出て20日後に大政奉還を二条城で表明することになる。

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