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北陸の文化史跡・遺跡 「多賀谷左近三経の墓所」(福井県あわら市柿原)
- 2025/2/25
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- 多賀谷左近三経, 柿原3万2千石
北陸の文化史跡・遺跡
「多賀谷左近三経の墓所」(福井県あわら市柿原)
(写真下:「多賀谷左近三経の墓所」(福井県あわら市柿原)、2024年9月30日午前訪問撮影)
町指定史跡 金津町柿原区字墓堂
多賀谷左近三経の墓所
多賀谷左近三経は茨城県下妻城主多賀谷重経の長子。13才の時石田光成を烏帽子親として元服し左近三経と号した。父重経は左近三経が23才の折、茨城県八千代町に太田城を築き3万石を与えて分家させた。以来三経は結城秀康に属し、翌天正19年豊臣秀吉の朝鮮出兵の際は肥前の名護屋に出陣した。
秀吉の没後、慶長5年(1600)に徳川方と豊臣方の争いが各地で始まると、左近三経は秀康の与力となって先陣をつとめ、関東方面と江戸城の守備を固めて、同年9月関ケ原の戦いは徳川方の大勝利となった。この戦功により秀康が越前68万石の領主になった時、家康は左近三経を秀康の第一の重臣とした。その所領は3万2千石、そして加越国境の鎮めに任じられた。三経は2百余戸の家臣団を引き連れて館を山十楽の島の台地に営んだ。
所領の知行割は54カ村に及び善政を施すこと7年、樋山、橋屋の溜池など今も見るべきものがある。慶長12年4月秀康が病死すると左近三経も同年7月21日に41才で没し火葬の上墓堂に納骨した。戒名は黔宗祥賢居士、菩提所は柿原の専教寺である。
その後、末孫虎千代は五輪の供養塔を建立した。墓堂は平成3年(1991)3月に再建して、墓地を整備した。
平成3年(1991)4月 金津町教育委員会
多賀谷左近三経公墓所
石廟再建と4百回忌法要
多賀谷左近三経公の墓は昭和23年(1948)の福井地震で倒壊した。数年後、地元青年団により墓は修復されたが、元の姿ではなかった。平成3年(1991)、当時の金津町は墓地を整備し墓と五輪塔を再建したが、石廟は損壊が大きく復元に至らず、石材は保管されてきた。平成27年、あわら市は墓所の歴史的価値と重要性に鑑み、石廟再建の調査を開始し、平成29年3月、これを完成させた。当奉賛会はこの記念に、多賀谷家有縁の人々や近在有志の協力を得て墓所の再整備を行い併せて同年6月、4百回忌法要を厳修した。願わくは、永く多賀谷左近三経公の遺徳を顕彰し菩提を弔うものである。・多賀谷左近三経公石廟
一棟(宝篋印塔あり)中の宝篋印塔に多賀谷左近三経公の没年と戒名が記されている
・五輪塔 一基 三経公の四代末孫虎千代(経栄)が寛文2年に追善供養のため造立した
・宝篋印塔 一基 氏名不詳の供養塔であるが、一族の墓として再建した。
平成29年(2017)6月吉日 多賀谷左近三経公奉賛会 会長 酒井 禧祿
越前国入部前の多賀谷家は、常陸国南部、下総国北部(現在の茨城県南部周辺)を地盤とする国衆。多賀谷家資料の「多賀谷記」によれば、多賀谷氏は桓武平氏で、相模国の武士・金子十郎家忠が鎌倉幕府より武蔵野国騎西荘多賀谷郷(現・埼玉県加須市内田ヶ谷)を与えられたことから多賀谷氏を名乗り始めたとされる。南北朝時代(14世紀中頃)に多賀谷郷が結城氏に恩賞として与えられたことから、多賀谷氏は結城氏の家臣となったといわれており、結城氏の家臣としての多賀谷氏は、享徳3年(1454)、時の当主多賀谷氏家が鎌倉公方足利成氏の命で関東管領上杉憲忠を討った功により、常陸国真壁郡下妻(現・茨城県下妻市)周辺の領地と家紋が与えられた。寛正2年(1461)下妻城を完成させ、以後ここを本拠地に勢力を拡大していき、多賀谷重経(三経の父)の代で領地は最大となり、その広さは20万石を超えるとも言われている。
柿原3万2千石の多賀谷左近2代の初代・多賀谷左近三経(たがや・さこんみつつね)は、多賀谷重経の嫡子として生まれるが(童名は虎千代)、生年については、天正6年(1578)や永禄10年(1567)と記録が分かれていて、没年は慶長12年(1607)で、享年30歳か41歳に分かれる。家の存続のために廃嫡され分家し、結城家の養子となった結城秀康に仕える。朝鮮出兵の際には、肥前国名護屋(現・佐賀県唐津市)へ出陣し、そこで石田三成を介添えとして元服。三成の一字をもらい、三経と名乗る。同時に左近将監に任官。
関ケ原の戦い後、結城秀康は越前国68万石を与えられ移封し、多賀谷三経も越前国に移り、慶長6年(1601)結城秀康より丸岡領・三国領を中心に(大野領や西方領の一部あり)46ヶ村・3万石を与えられ、加賀前田家の備えとして柿原郷(現・福井県あわら市柿原地区)に館を構えた。更に慶長9年(1604)2千石の加増を受け、柿原3万2千石が成立。慶長12年(1607)、結城秀康没後まもなくして多賀谷三経も亡くなり、柿原に葬られ、当時10歳の息子の泰経(やすつね)が後を継ぐが、多賀谷泰経も元和2年(1616)19歳の若さで亡くなり、その後の多賀谷家の相続は福井藩で認められず、2代15年で多賀谷家の柿原治世が終了。
多賀谷左近の墓所は、旧福井県金津町教育委員会により、昭和48年(1973)3月に町史跡として指定され、その後のあわら市でも、そのまま市指定史跡へ移行。多賀谷左近の墓は、柿原区所有の共有地にあって、これまで同区で管理されてきており、墓所内には、宝篋印塔2基と五輪塔1基、無縫塔(卵塔)2基が残されている。宝篋印塔1基には、多賀谷左近三経の法名・没年・命日の銘文が刻まれていて、多賀谷左近三経の墓塔として慶長12年(1607)頃に建立されたものとみられる。五輪塔は、寛文2年(1662)子孫の多賀谷経栄により、柿原の多賀谷家墓所に三経の供養と家再興の記念として建てられたとみられる。平成2年(1990)より旧金津町が墓地整備工事を開始。その際、石廟の石部材や三経公の骨壺と思われるものが確認される。平成25年(2013)あわら市に「多賀谷左近三経公奉賛会」が設立され、翌年から、あわら市で多賀谷左近三経墓石廟の復元事業が始まり、平成29年(2017)多賀谷左近三経墓石廟復元工事及び史跡整備工事が完成。同年、三経の4百回忌と多賀谷左近三経墓石廟の落慶法要が行われた。
(写真下:復元された石廟。中に三経の宝篋印塔(福井県あわら市柿原)、2024年9月30日午前訪問撮影)
(写真下:五輪塔と無縫塔(卵塔)2基(福井県あわら市柿原)、2024年9月30日午前訪問撮影)
(写真下:宝篋印塔(氏名不詳の供養塔)(福井県あわら市柿原)、2024年9月30日午前訪問撮影)
平成3年(1991)の墓所整備の際に五輪塔の基壇の中や墓所内より石材が見つかった。石廟の部材と考えられていたが、当時は復元がかなわず石材は保管されてきた。平成28年度(2016年度)に石廟の復元が行われたとき、それらの石材の多くが使われたが、使用できないものもあったので、後日のためにここに収納した。
平成29年(2017)3月
(写真下:地蔵堂(福井県あわら市柿原)、2024年9月30日午前訪問撮影)
(写真下:多賀谷左近三経公4百回忌記念墓所整備事業寄進者碑(福井県あわら市柿原)2024年9月30日午前訪問撮影)
(写真下:「多賀谷左近三経の墓所」周辺(福井県あわら市柿原)2024年9月30日午前訪問撮影)