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北陸の作家ゆかりの地「中野家墓地(太閤ざんまい)と中野重治」(福井県坂井市丸岡町一本田中)
- 2026/7/23
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北陸の作家ゆかりの地
「中野家墓地(太閤ざんまい)と中野重治」(福井県坂井市丸岡町一本田中)
(写真下:「中野家墓地(太閤ざんまい)」(福井県坂井市丸岡町一本田中)(2025年12月6日午前訪問撮影)

(写真下:「中野家墓地(太閤ざんまい)」(福井県坂井市丸岡町一本田中)(2025年12月6日午前訪問撮影)*南側の中野重治生家跡の方から

(写真下:「中野家墓地(太閤ざんまい)」(福井県坂井市丸岡町一本田中)(2025年12月6日午前訪問撮影)

福井県出身で日本近代文学を代表する作家である中野重治(1902年~1979年)は、明治35年(1902年)福井県坂井郡高椋村一本田(現・福井県坂井市丸岡町一本田)に生まれた文学者で、東京帝国大学へ進学後、昭和初期にプロレタリア文学の新時代を担うも、治安維持法違反で検挙され転向するが、その後も言論統制の厳しい社会情勢の中でも書き続けることを決意し、「村の家」などの転向5部作を執筆。戦後は社会批評を展開するとともに、故郷の暮らしをふる里の言葉を用いて描いた自伝的小説「梨の花」などの名作を執筆。小説「甲乙丙丁」で1969年度野間文学賞を、さらに、小説、詩、評論など多年にわたる文学上の業績で1978年1月、1977年度朝日賞を受賞するが、1979年(昭和54年)8月24日、胆嚢癌により東京女子医大病院で死去(享年77歳)。
中野重治(1902年~1979年)は、明治35年(1902年)福井県坂井郡高椋村一本田(現・福井県坂井市丸岡町一本田)の自作農で小地主の中野家に、父・藤作(1866年~1941年)と母・とら(1873年~1950年)の次男として生まれ、父親が大蔵省煙草専売局や朝鮮総督府に勤務し留守にしていたため、少年期は祖父母(1924年5月死亡の祖父・治兵衛、1914年6月死亡の祖母・みわ)に育てられた。1908年4月、第三高椋尋常小学校に入学し、その後、改称した高椋西尋常小学校を卒業した中野重治は、1914年(大正3年)4月、福井城内にあった福井県立福井中学校に入学。福井市松本の興宗寺で下宿生活を送り、1919年3月に福井中学校を卒業。1919年9月に、金沢の第四高等学校文科乙類に進学し、ふる里・福井を離れることになる。
中野重治は、金沢の第四高等学校を1924年3月に卒業し、同年4月に、東京帝国大学文学部ドイツ文学科に進学。入学の翌年、社会変革を志す若い知識人を集めた東京帝大新人会に入会する一方で、同人雑誌『裸像』や『驢馬』を創刊し、この両誌に後の『中野重治詩集』(1931年)53篇中の45篇を発表。1927年3月、東京帝国大学文学部ドイツ文学科卒業後は、文芸雑誌『戦旗』の創刊・編集に携わるなど、プロレタリア文学運動の新時代の中心になった。1932年4月、中野重治は治安維持法違反で検挙され、5月に東京の豊多摩刑務所に収監され、約2年後の1934年5月に、共産主義運動を捨てることを約束し懲役2年執行猶予5年の判決を受けて出獄釈放される。言論統制の厳しい社会情勢の中でも書き続けることを決意し、権力の厳重な監視下で、ふる里の父親とのやりとりを描いた「村の家」などの転向五部作や『斎藤茂吉ノオト』、森鷗外論などを執筆。終戦後は新日本文学会の創立メンバーとして活躍、「文学者の国民としての立場」など社会批評を次々と発表。その後も、政治と文学の問題を生涯にわたり追究し続け、1969年に小説『甲乙丙丁』で野間文芸賞を、また小説、詩、評論など多年にわたる文学上の業績で1977年度朝日賞など数々の賞を受賞。中野重治は「なつかしさ限りない」ふる里を離れて文学者としての多くの仕事を成し遂げ、1979年8月24日、胆嚢癌により東京女子医大病院で死去。
中野重治の死後、1980年(昭和55年)に、福井県坂井郡丸岡町(現・坂井市)の一本田の中野重治の生家跡地が、丸岡町に遺族より寄贈され、その生家の屋敷跡の前庭(南側の門跡から屋敷跡に入った東側で、生家跡の南側)には、1980年(昭和55年)に、戎居研造の設計による井桁にくまれた中野重治碑が建てられ、文芸評論家・フランス文学者の寺田透(1915年~1995年)の筆による「中野重治ここに生まれ、ここにそだつ」とだけ刻まれた。中野重治碑の前に建つ「梨の花の故地」の石標もすべて中野家に使われていた石とのこと。中野重治の生家は、1948年6月28日には福井県坂井郡丸岡町付近を震源とする福井地震で倒壊。福井震災のあと、平屋で二部屋という小さな仮住まいの家が建てられたが、これが、1950年7月、中野重治の母とらが病死後は、貧困と病を抱えながらの一人暮らしの妹・中野鈴子にとって終の住み家となった。中野鈴子亡き後は、ほとんど廃屋となっておかれ、中野重治亡き後、屋敷跡が丸岡町に贈られた後、丸岡町の手で解体されている。尚、1982年には、中野重治の蔵書1万3千冊余が丸岡町に寄贈され、翌1983年5月に、中野重治文庫記念丸岡町民図書館として開館している。また、1988年には、中野重治が生前執筆活動をしていた書斎を、東京・世田谷より、中野重治生家跡の西南側に移築している。
中野家の墓地は、福井県坂井郡高椋村一本田(現・福井県坂井市丸岡町一本田)の共同墓地とは別に、中野重治の生家の屋敷の北、200mほど離れたところの周りが田んぼの中にあり、中野重治の生家跡からは、あぜ道を歩いて行く場所にある。この中野重治が生まれた中野家の墓地は、「太閤ざんまい」と呼ばれているが、太閤秀吉が越前を検地した時、中野家の先祖が接待にあたり、その功によりもらったものという言い伝えがある。東京・世田谷で暮らしていた中野重治は、1979年8月24日、胆嚢癌により東京女子医科大学病院で死去。1979年9月8日、東京の青山葬儀所で告別式が営まれ、1980年8月5日には、福井県坂井市丸岡町一本田の中野家墓所「太閤ざんまい」の「中野累代墓」に葬られた。妻・原泉、長女・卯女をはじめ家族や近親者が中野家墓所「太閤ざんまい」での納骨に参列している。
(写真下:「中野家墓地(太閤ざんまい)」(福井県坂井市丸岡町一本田中)(2025年12月6日午前訪問撮影)*南側の中野重治生家跡の方から













