北陸の歴史人物関連 「滝廉太郎記念館(松川茶屋内)」(富山県富山市本丸)
北陸の歴史人物関連「滝廉太郎記念館(松川茶屋内)」(富山県富山市本丸)
<写真下:「滝 廉太郎記念館(松川茶屋内)」(富山県富山市本丸)(*2025年11月15日午前訪問撮影)


滝 廉太郎(たき れんたろう)
明治12年(1879年)8月24日生~明治36年(1903年)6月29日没。東京市芝区(東京都港区)出身。日本の近代音楽史上、最初の作曲家。明治以降の近代音楽を語る上で、欠かすことのできない天才。楽聖。東京生まれの廉太郎は、明治新政府の官僚であった父・弘の転勤で、横浜、富山、大分など住まいを転々とする生活を送っています。(父・弘は富山県書記官、知事代理。富山城本丸跡の県庁に勤めました。)廉太郎は明治27年9月、「高等師範学校附属音楽学校」(後の、東京音楽学校)に史上最年少の満15歳で入学しました。明治31年、東京音楽学校専修部を首席で卒業後、同校研究科へ進学して教師兼任の研究生となりました。この時期に、組歌「四季」やピアノ曲「メヌエット」、『中学唱歌』の「荒城の月」や「箱根八里」、「豊太閤」、『幼稚園唱歌』の「雪やこんこん」、「お正月」、「鳩ぽっぽ」等、代表曲を作曲しました。明治34年、日本で最初のピアノ留学生としてドイツ・ライプチヒ王立音楽院へ入学しましたが、病に倒れて明治35年に帰国。帰国後、大分市府内町の父母の元で療養しますが、明治36年6月29日、肺結核で亡くなりました。23歳と10ヶ月の若さでした。富山で過ごした1年8ヶ月は、彼の人生において底知れない深さを持った短くも重要な感性を育んだ期間であり、彼の作曲活動に多大な影響を与えたと言われています。
<富山での暮らし>
廉太郎は、富山では明治19年(1886)8月~明治21年(1888)5月まで、現在の学制に当てはめると小学校1年生の途中から3年生の途中にあたる年を過ごしています。その際に、旧・富山藩校「廣徳館」、「赤蔵」跡の富山県尋常師範学校附属小学校(現・富山大学人間発達科学部〔旧・教育学部〕附属小学校)で学んでいます。明治に入り市街地化が進む一方、藩政時代の名残を留めていた富山城址。生まれて初めて入る「城」は、廉太郎の心に深く刻まれたことでしょう。当時、富山城外濠は砂持奉仕(すなもちほうし。有志が神通川から石や砂を運んで堀を埋立て、新たな土地を作り出すこと)によって順次埋め立てられ、寺院や学校などの新しい建物が次々に建てられました。尋常師範学校附属小学校では、文部省指導の下いち早くオルガンが導入され、雅楽奏者で洋楽を学んだ野中武雄教授の指導により、音楽の授業も熱心に行われていました。明治19年(1886)11月には富山県で最初となる音楽会が講堂で開催され、附属小の児童も参加しています。住まいは、富山県上新川郡富山千石町197番地(現在の千石町4丁目6番付近)の官舎。父、弘は旧富山城本丸御殿を利用した県庁へ勤めていました。廉太郎は学校が終われば、神通川で遊んだり、砂持奉仕の賑やかな様子を眺めたり、冬には雪ダルマを作るなどをして遊んだことでしょう。現在、富山県尋常師範学校附属小学校跡(富山市丸の内1丁目地内、富山市立図書館斜め向かい)には、滝廉太郎の少年時代像が荒城の月の歌碑とともに建てられています。また、家族とともに後に移り住んだといわれる総曲輪の官舎跡とされる場所(富山市丸の内2丁目地内、アームストロング青葉幼稚園 東側歩道)には、住居跡地の看板が建てられています。
<富山での思い出が影響したといわれる曲>
「納涼」「雪」(組歌「四季」)「雪やこんこん」「荒城の月」「豊太閤」
「荒城の月」や合唱曲「花」の作曲者として広く世に知られ作曲家・滝廉太郎(たき・れんたろう)(1879年~1903年)は、初めて本格的作曲家として近代西洋技法を用い、日本歌曲の基礎を築いた、近代日本の生んだ代表的作曲家。滝廉太郎は、明治12年(1879年)8月24日、東京市芝区南佐久町2丁目18番地(現・東京都港区西新橋)で、日出藩(豊後国速見郡、現・大分県速見郡日出町)の旧藩士の滝吉弘の長男(三男五女の長男で、2人の姉)として生れる。滝廉太郎の生れた滝家は、初代・滝俊吉以来、11代260余年にわたり日出藩に忠誠を励み、家老の重職に就くというほどの名門家の家柄。旧・日出藩藩士の父・吉弘(滝家11代)は廃藩置県後の1872年(明治5年)に上京し、秋田県七等出仕を振り出しに、大蔵省、内務省に勤務。滝家の家族も上京し、一家は、東京市芝区南佐久町2丁目18番地(現・東京都港区西新橋)の豊後国佐伯藩主毛利高謙の江戸屋敷の侍長屋に住む。滝廉太郎が東京市芝区南佐久町2丁目18番地(現・東京都港区西新橋)に生れた明治12年(1879年)8月の頃は、父・弘は内務省の一等属官で伊藤博文の下で手腕を振るっていたが、1882年(明治15年)11月、神奈川県書記官となり、一家は横浜の伊勢山にあった官舎に転居。1886年(明治19年)5月、神奈川県師範学校附属小学校に入学するが、父・弘が1886年(明治19年)8月28日付けで、書記官書記官に転任となり、一家で横浜を離れ、富山に移り住む。
1888年(明治21年)4月20日付けで父・広が非職になり、滝一家は、富山を離れ東京に移り、麹町上二番町二番地に落ち着き、滝廉太郎は、1888年(明治21年)5月に、麹町小学校尋常科第三年級に転入学。1889年(明治22年)3月14日付で、父・弘は大分県大分郡郡長に任命され、家族は大分に移り大分市荷揚町の官舎に住むことになったが、滝廉太郎は、年老いた祖母や病気の長姉・利恵とともに東京に残り、1890年(明治23年)麹町尋常小学校を卒業。1890年(明治23年)3月に祖母みちが東京で亡くなり、同年5月に長姉・利恵(リエ)も亡くなるが、両親は同年4月に瀧廉太郎を大分に呼び寄せ、1890年(明治23年)5月、大分県尋常師範附属小学校高等科第一年級に転入学。1891年(明治24年)11月17日付で、父・弘が大分県直入郡郡長となり、12月末、一家とともに竹田(大分県)に移り、翌1892年(明治25年)1月8日、大分県直入郡高等小学校第二学年転入。父の転勤に伴い、度々の転校を重ねてきた廉太郎だが、1894年(明治27年)4月、大分県直入郡高等小学校に於いて高等小学校全科卒業まで、残りの高等小学校時代を、大分県竹田で過ごし、この大分県竹田での高等小学校時代に、音楽の道を志す。1894年(明治27年)年5月、上京し、麹町区平河町3丁目17番地の従兄の滝大吉の家に落ち着き、同年9月、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に進学。
東京での住居は、麹町区富士見町3丁目29番地、本郷区西方町9番地に移り、1898年(明治31年)7月9日、本科を専修部を首席で卒業。同年9月には研究科へ進学。明治32(1899)年9月、研究科2年に進み、同時に音楽学校嘱託となり授業補助を命ぜられる。この年に「四季の滝」「友の墓」「我が神州」を作曲。住居は、西方町から麹町区四番町四番地に移り、その後、滝廉太郎の東京の最後の地となる麹町上二番町22番地に移転(滝廉太郎居住地跡の碑は、東京都指定旧跡として、東京都千代田区一番町18-1にある)。ここで「四季」「荒城の月」「幼稚園唱歌」などを作曲。明治33年(1900年)6月12日付で、ピアノ及び作曲研究のため、文部省から満3カ年のドイツ留学を命ぜられるが、出発延期願を出し翌年の明治34(1901)年4月6日に横浜港を出航し、5月18日にベルリン着。6月7日、ライプチヒ着。10月1日、ライプチヒ音楽学校に合格するが、11月25日オペラを見に行き、それがもとで風邪を引き、病状がこじれてなかなか快方に向かわず、12月2日ライプチヒ大学附属病院に入院するが結核に感染していることが判明し療養。小康状態の時に帰国し療養した方が良いとの判断から、翌年7月10日、帰国命令となり、1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ちロンドンを経由して同年10月17日に横浜に到着。帰国直後は東京の従兄である大吉の自宅で療養するが、滝大吉が11月23日、脳溢血で倒れると、11月24日には大分に出発し、大分市稲荷町339番地(現・大分市府内町)の父母の許で療養するが、明治36(1903)年6月29日、大分県大分市の自宅にて病死。満23歳没(享年25)。
少年期の滝廉太郎は、富山では、1886年(明治19年)9月、旧富山城内「赤蔵跡」にあった富山県尋常師範学校附属小学校の第1年級に転入。翌年、第二学年に進級。雪国・富山で2度の冬を少年期に過ごすが、1888年(明治21年)春、第二学年を修了した後、4月20日付けで父・広が非職になり、滝一家は、東京に移り、麹町上二番町二番地に落ち着き、滝廉太郎は、1888年(明治21年)5月に、麹町小学校尋常科第三年級に転入学する。滝廉太郎(明治12年(1879年)8月24日生)が、明治19年(1886年)8月から1年8ヶ月余りの間、父滝弘が富山県書記官(現在の副知事職に相当)として来任したことから、少年時代の一時期を富山の地で過ごしており、この滝廉太郎と富山との縁から、1979年(昭和54年)6月、富山県九州人会「おきよ会」が、滝廉太郎の生誕100年を記念し、富山県尋常師範学校附属小学校跡地の富山市丸の内1丁目の堺捨旅館(当時)前に、瀧廉太郎の少年像を建立し、瀧廉太郎修学の地碑となっている。富山での瀧廉太郎顕彰活動が進む中で、滝廉太郎と富山の関わりを多くの人に知ってもらおうと、中村孝一氏 が中心となり、1993年(平成5年)9月に、没後90年に、富山市丸の内の修学の地に「滝廉太郎記念館」を開設。その後、1997年に、中村孝一 氏自身が経営する松川遊覧船乗り場の松川茶屋内に「滝廉太郎記念館」を移設。2016年(平成28年)6月には、中村孝一 氏が理事長を務め有志でつくる「滝廉太郎研究会」が発足。瀧廉太郎研究会が、没後120年を記念し、2023年6月には、瀧廉太郎居住地跡とされる土地の一角に立っているアームストロング青葉幼稚園の協力を得て、敷地東側の「すずかけ通り」に面した場所に「瀧廉太郎 居住地跡」案内板を設置している。(「滝廉太郎居住地跡と修学の碑」(富山市丸の内))
この滝廉太郎記念館は、中村孝一 氏が私費を投じて運営をしているとのことだが、有志と制作した滝廉太郎の銅像のほか、中村孝一 氏が収集した滝廉太郎本人のや家族の写真、関連書籍などを展示している。滝廉太郎年譜はもちろん、富山での少年時代。富山の自然と組曲「四季」、富山城の生い立ちと城址の変遷。「荒城の月」と富山城、音楽学校時代、父・滝吉弘と富山、富山県出身の福井直秋をはじめ滝廉太郎と関わりの深い人物。豊後国、日出藩(大分県速見郡日出町出身の官僚であった父・滝弘(たき・よしひろ)は、天保13年(1842)2月15日生~明治37年(1904)8月9日没の生涯で、長男・廉太郎の死から約1年後に亡くなる(享年63歳)。母・滝正子(たき・まさ(まさこ))は、嘉永4年(1851)6月28日生~大正5年(1916)4月20日没。8人の子を授かるが、長男・廉太郎をはじめ、うち6人の子に先立たれ、大正5年に亡くなる(享年64歳)。
富山との関係ではないが、日出藩・木下家と滝家の関係の説明も、同記念館に掲載紹介。豊後の国・日出(ひじ)は、現在
<写真下:「滝 廉太郎記念館記念館」内の展示の一部(富山県富山市丸の内1丁目)(*2025年11月15日午前訪問撮影)







<写真下:「滝廉太郎記念館」が併設されている松川茶屋(富山県富山市丸の内1丁目)(*2025年11月15日午前訪問撮影)


滝 廉太郎 年表
・明治12(1879年)8月24日 東京都芝区南佐久間町に生まれる。父・吉弘(38歳)、母・正子(29歳)
・明治15(1882年)11月 父が神奈川県少書記官となり、横浜に転居。
・明治19(1886年)8月 父が富山県書記官に栄転となり富山市に転居。9月 富山県尋常師範学校附属小学校1年に転入。11月 富山県初の音楽会が師範学校講堂で開かれ、附属小児童として参加。
・明治21(1888年)5月 父が富山県書記官を非職となり、東京へ転居。東京市麹町小学校3年に転入。
・明治22(1889年)3月 父が大分県大分郡長に任じられ大分へ転居。(廉太郎は、祖母、病弱の姉らと東京に残る)
・明治23(1890年)5月 廉太郎も大分に転居。大分県師範学校附属小学校高等科1年に転入。
・明治24(1891年)11月 父が大分県直入郡長となり、一家で竹田へ転居。
・明治25(1892年)1月 大分県直入郡高等小学校・高等科へ転入。
・明治27(1894年)5月 上京し、麹町の従兄・滝大吉の家に寄宿。音楽学校受験準備のため「芝唱歌会」に入会。9月 史上最年少の15歳で東京音楽学校(予科)へ入学。
・明治28(1895年)9月 予科を終了し専修部へ進学。
・明治31(1896年)7月 専修部を首席で卒業。9月に研究科へ入学。
・明治32(1899年)7月 研究科2年生に進級。授業補助を命じられ、富山県出身の福井直秋と出会う。
・明治33(1900年)6月 ピアノ・作曲研究を目的として、満3ヶ年のドイツ留学を命じられる。「花」を含む組曲「四季」、「荒城の月」、「箱根八里」、「お正月」など、多数作曲。
・明治34(1901年)3月 音楽学校にてドイツ留学の送別会を開催(福井直秋が送別の辞を朗読)。4月 横浜湊よりドイツ留学へ出発。10月 ライプチヒ王立音楽院入学。
・明治35(1902年)10月 結核のため、ドイツより横浜港に帰国。大分市の父母のもとで療養。「別れの歌」、「水のゆくへ」、「荒磯の波」作曲。
・明治36(1903年)2月 ピアノ曲「憾(うらみ)」を作曲。6月29日 結核により23歳10ヶ月で病死。大分市金池町「万寿寺」に葬られる。(平成23年(2011年)に日出町「龍泉寺」へ移設)









