北陸の歴史人物関連 「山本条太郎翁胸像除幕式・遺徳顕彰碑建立祭(1960年10月11日)」(福井県福井市足羽山・松ケ枝下町)
北陸の歴史人物関連 「山本条太郎翁胸像除幕式・遺徳顕彰碑建立祭(1960年10月11日)」(福井県福井市足羽山・松ケ枝下町)
<写真上:1960年10月12日付の福井新聞記事>
吉田元首相が祝辞 故山本氏の胸像除幕式 足羽山で盛大に
福井市宝永社会教育会(堀江喜熊会長)の手で足羽山に建てられた故山本条太郎氏の胸像除幕式が、誕生日に当たる10月11日午後1時から盛大に行われた。遺族の山本千賀子さんをはじめ吉田茂元首相ら親族、原日本火薬社長ら友人、北福井県知事、坪川福井市長、福井県選出国会議員ら県内外の知名士約150人が参列。おごそかな神楽の吹奏のうちに修ばつ、祝詞奏上が神主さんによって行われた。除幕は山本条太郎氏のお孫さん百合子さん(15)喜久子さん(15)=鎌倉市長谷=両嬢の手で純白の幕が下され、雨田光平氏制作の胸像が高さ2mの石碑の中央に姿を現わした。祝辞に立った吉田元首相は「故郷の一角に顕彰碑とともに建てられた山本条太郎はさぞ満足だと思う。親類の一人としてお礼を申し上げます」とあいさつ、参会者の拍手を浴びた。このあと山本条太郎氏誕生地の松ヶ枝下町で遺徳顕彰碑の建立祭、宝永小学校の祝賀会などが開かれた。(写真は山本百合子さん、喜久子さん姉妹による除幕)
<写真上:1960年10月12日付の福井新聞記事>
愛敬を振りまく 故山本条太郎氏の胸像除幕式 人気の的 元気な吉田元首相
福井市松ヶ枝町出身の故山本条太郎氏の胸像除幕式に参列した吉田元首相は、おなじみの鼻眼鏡を光らせて市民に愛敬を振りまいた。足羽山では83歳とは思えぬ元気さでステッキを片手に石段をのぼり、胸像前の会場に到着。植木、福田、小幡3国会議員とにこやかにあいさつ。小さな折りたたみイスに腰をおろして式典にのぞんだ。松ヶ枝町の生誕地記念碑の前では、道路に並べられたイスに腰をかけ、西日を受けて血色のよい顔が汗ばんでいた。福井署では先導車のパトカーと警察官10人を派遣して交通整理に当たった。押しかけた付近の市民は約3百人。「吉田さんだ。吉田さんがいる」と大声で騒がれてもにこやかな笑顔で声のする方を振り向いていた。除幕式、記念碑建立祭、記念祝賀会と、のべ5時間にわたったが、疲れもみえず、かくしゃくたるところをみせ、政治を抜きにした老元首相の1日だった。<写真:故山本条太郎氏の胸像に玉串を捧げる吉田元首相、故山本条太郎氏誕生地の記念碑>
<写真上:1960年10月11日付の福井新聞掲載>
郷土が生んだ政・財界の巨頭 山本条太郎翁顕彰胸像 完成
11日 胸像除幕式 午後1時 足羽山公園、生誕地建立祭 午後3時 松ヶ枝下町、祝宴の会 午後4時 宝永小学校
御挨拶
本会は予て本年度の文化事業として故山本条太郎翁の顕彰を採り上げ、翁の生誕地松ヶ枝下町に記念碑を、又足羽山公園に胸像を各建設する計画を進めて参りましたところ、県内外旧知諸賢の熱意こもる御支援により、この程工事を完了いたし、今11日翁を誕生日を卜し、嘗て翁の親交のありました元首相吉田茂氏並に日本化学株式会社社長原安三郎氏等、その他内外知名有志各位の御参列を得まして別記次第により盛大に竣工除幕式を挙行する運びになりましたことは偏えに諸賢各位の御後援の賜ものであり茲に深甚なる謝意を表して聊か御挨拶と致します。
昭和35年10月11日 福井市宝永社会教育会長 堀江喜熊、同 副会長 堀江顕二、同 副会長 野内 重、同 副会長 津々見栄蔵、同 文化委員長 吉川恒次郎
山本翁顕彰 <「宝永のあゆみ 宝永社会教育会25周年記念誌」(宝永社会教育会、1975年11月発行>
山本条太郎は、慶応3年(1867)に福井の御駕町(現在の宝永1丁目32番地)に下級武士の子として生れた。維新後上京し、明治14年(1881)14歳で三井物産の店員(小僧)になったのを振り出しに、しだいに昇進して、明治42年(1909)43歳にて同社の常務取締役になった。しかし大正3年(1914)いわゆるシーメンス事件の責任を負い三井物産を退社した。その後いくつかの会社の社長もしくは重役を歴任し、大正9年(1920)53歳のとき、福井市より衆議院議員に出馬して当選、それ以来4期政友会所属の代議士として活躍した。昭和2年(1927)7月から4月(1929)8月まで2年間南満州鉄道社長の職に在任、満鉄中興の祖といわれるほどの手腕を発揮した。満鉄退社後昭和5年(1930)「経済国策の提唱」という著書を刊行、産業立国による国家経済の再建を訴えた。昭和10年(1935)68歳にて貴族院議員に勅選され、翌11年(1936)3月25日 69歳にて亡くなった。彼は(福井市)宝永区が生んだ最大の政治家である。宝永社会教育会は昭和35年度(1960)の文化事業として、郷土の偉人山本条太郎の業績を顕彰することを計画し、同年4月会長堀江喜熊を発起人代表として顕彰費の拠金募集を始めた。事業の内容は、足羽山に胸像を建て、生誕地に記念碑を建てることである。募金は予定どおりの成績をあげ、工事も順調に進んで、昭和35年(1960)10月11日、山本条太郎の誕生日を卜し、竣工除幕および祝賀会を挙行した。足羽山公園茶臼山の胸像除幕式は午後1時から、宝永1丁目32番地の生誕地における記念碑の除幕式は午後3時から、宝永校における祝賀会は午後4時からという手順であった。
1950年設立の福井市宝永地区の民間人による自由な社会教育団体の宝永社会教育会が、昭和35年度(1960)の文化事業として、郷土の偉人山本条太郎の業績を検証することを計画し、同年4月、会長堀江喜熊氏を発起人代表として顕彰費の拠金募集を始め、足羽山に胸像を建て、生誕地に記念碑を建てることとし、昭和35年(1960)10月11日、山本条太郎の誕生日を卜し、竣工除幕および祝賀会を挙行。足羽山公園茶臼山の胸像除幕式は午後1時から、宝永1丁目32番地の生誕地における記念碑の除幕式は午後3時から、宝永校における祝賀会は午後4時からという手順で、行われた。元首相吉田茂氏、日本財界の大御所・原安三郎氏、福井県知事・北栄造氏、福井市長・坪川信三氏などが足羽山茶臼の旧跡の除幕式典に参列。
『宝永のあゆみ 宝永社会教育会25周年記念誌』(宝永社会教育会、1975年11月発行)には、宝永社会教育会の当時会長だった堀江喜熊氏による山本翁顕彰についての思い出の文章が掲載され、顕彰活動の経緯も記されているが、なかでも、宝永校講堂での祝賀会の話は非常に興味深い。以下、その一部を転載紹介させていただくと、
”吉田元首相は終始上機嫌であったが、82歳の高齢なので右祝賀の席では「俺は疲れたので、祝賀の挨拶は、原君、君に頼むぞ」と、発言しないことになっていた由である。祝宴に先だち、私は会長として又主宰者として大略次のような挨拶をした。先ず当初の小計画が大計画へと進み、そうして見事な胸像が此処足羽山茶臼の旧跡に建立されたことを述べ、更に「この山にはかつて翁の発案になる福井市上水道の貯水池が眼下に碧水を満々とたたえており、脚下を見渡せばこれまた翁の推進せられた越美北線が鉄路を蜿蜒として奥越へと横たえています。かくて翁の郷土に残された遺業はこの胸像と共に永遠に生きているのであるます。」云々と結んだ。私の挨拶に誘われたわけでもあるまいが、今まで黙々と耳を傾けておられた吉田元首相は、どうしたことか隣席の原安三郎氏の前に置かれているマイクに手をのばし、それを自分の席の前に置きかえ、微笑を含んで咄々とテーブルスピーチを始めた。
「私が東京にいる時はあいつ(故山本翁)は支那、あいつが東京に帰ると、私は外国(英国大使)へといった調子で、元気な頃は、ゆっくり会談する機会に恵まれなかった。それでも時折は会えて、お互に胸の底を打ち割って天下国家を語り合ったものだ。実は吉田家の第一後継者にあげられたのは、あいつだった。もしあいつが継いでいたら商機商略に恵まれたあいつのことだから、吉田家は、米国のモルガンとか、カーネギーに匹敵する大財閥になったと思うのだが、わたしのような第二候補(吉田氏は土佐藩士竹内綱の息)が入婿したばかりに吉田家は大財閥になるどころか、貧乏してしまった。あいつは尊敬するに足る大人物だった」と結び実に味のあるユーモラスな話を繰り展げ笑声、堂ならぬ宝永校の講堂に充つるといった歴史的な名調子であった。”
<写真下:福井県福井市の足羽山公園にある山本条太郎胸像(2024年5月29日午後訪問撮影>
<写真下:福井県福井市宝永1丁目の山本条太郎生誕地碑(2024年5月29日午後訪問撮影)>
祭文
今日の佳日を卜し此処に故山本条太郎翁顕彰除幕の式典を執り行うに当り謹んで神前に祭文を奉唱申し上げます。故山本条太郎翁は慶応3年10月11日福井城下松ヶ枝の地に誕生し、明治15年 齢16にして三井物産横浜支店に入社、爾来東京本店、上海支店に勤務、この間12年刻苦精励良く大器の素地を磨き、大正3年同社を辞するに至るまで支那総監督、同会社常務取締役等の枢要の部門に歴任し、特に日中貿易の発展に尽す等その功績は真に偉大であった。その後産業報国の念に燃え、折から「経済国策の提唱」なる一書を公刊して極度に窮迫せる我国経済界の救国打開策を指示して、立国の大論策を樹て、その創立に係る会社は著名なるもののみを数うるも十数社に及ぶに至る。晩年志を政界に投じ大正9年以来4回に亘り福井市より衆議院議員に当選し、この間国政の枢機に携り縦横に巨腕を振う。越えて昭和2年南満州鉄道株式会社総裁に就任の上、満蒙の開発に偉業を樹て、在任2ヶ年、辞して帰国するや、財界政界の元老として国家の重責に任じ、昭和10年12月多年の功績により貴族院議員に勅選される栄誉を担ったが、翌11年3月25日巨星地におち静かに永眠せられた。惟うに翁は三井物産株式会社の小役より身を興し、刻苦精励遂に三井の重鎮となり、進んで満鉄の総帥となり、更に政界の巨頭となって、我国の政財界にその雄才を唄われた声望抜群の俊傑である。この翁の不撓不屈の精魂、豪放果断の気宇は、吾等の等しく敬仰して止まないところである。吾日本国民は去るんぬる昭和20年8月、敗戦の結果、有史未曽有の混乱に陥り、為に道義の頽廃その極に達し、或は亡国の悲運を見るに至る無きかを、われ人皆共に危惧した所であるが、幸に強靭なる民族意識の下、興国の熱意に燃え、今日の復興を見るに至ったことは、誠に歓喜に堪えざるものあるが、然し未だ昔日の如き健全にして逞しき民族精神を再興したりと為すを得ず、特に後世吾が民族の中堅たる可き、現下青少年の多くが如何にその気宇狭小にして、嬌激に流れ、而して燃えるが如き愛国の至情に乏しきが、先人識者の等しく憂うる所である。之に加えて吾が県民性は稍々もすると、人の功を称え之を顕揚するの雅量に乏しく、却って之に鞭打つをもって密かに心好しと為す狭量口舌の徒輩亦少しとしない。為に爾来郷土福井より国家の大任を担う如き巨材の輩出せざりしを自他共に遺憾としたところである。吾宝永社会教育会は之の観点に立ち、茲に郷土福井が産んだ稀なる傑人故山本翁の顕彰を発意し、此処足羽山茶臼の旧跡に翁の胸像を建立し、今後幾星霧の永きに亘り、歩をこの足羽山に運ぶ後世幾多の青少年をして、翁の斯の如く逞しき風貌と、又斯の如く宏大なる気宇に直接私淑するところあらしめ、因って以て翁に続く国家有為の人材が幾多輩出せんことを期待したものである。
然るところ本会は固より微々たる民間の一社会教育団体たるに過ぎず、為に微力この挙の完遂を危ふむところありしも、幸にこの挙起るや、翁の遺族並に生前翁と親交深かりし現下吾国政、財界の巨頭各位更には県内外知名達識の士の清純なる協賛を得、茲にかくも盛大に傑人の霊を顕彰する工を完了するに至ったものである。幸に此の挙が後世幾星霜、県下春秋に富む、幾多有為の青少年の強き心の燈とならば幸である。
神よ庶幾くは、此の挙を嘉賞し、恭しく照覧を垂れ賜り、永しに加護あらんことを祈願し奉る。以て祭文と致します。 故山本条太郎翁顕彰建設発起人代表 福井市宝永社会教育会長 堀江喜熊