北陸ゆかりの人物評伝 第2回 「山本条太郎」(原 安三郎 著)


「山本条太郎
」(原 安三郎 著、時事通信社<一業一人伝>、1965年8月発行) 

<著者略歴>原 安三郎(はら・やすさぶろう>(本書著者略歴・本書掲載時)
明治17年(1884)3月10日生まれ。徳島県出身。明治42年(1909)早大商学部卒業後、山本条太郎のもとで薬丸金山、日本硫黄、金港堂書籍等多数の会社の整理経営に当たり、その後の日本針布、共和レザー等関係会社は数十社に及ぶ。現在日本化薬社長、中外鉱業、大同コンクリート工業、日本産業火薬会、化成品工業協会、日本放送連合会各会長、東京放送、日本電波塔各取締役、経団連、日経連各常務理事。<*1982年逝去。1884年~1982年>

本書は、一小僧から身を起こして、上海を拠点に中国大陸での貿易・事業を開拓し三井物産の重役に上り詰めるも、海軍事件に巻き込まれ連座し下獄と大きな挫折を味わい、再び運命を開拓し、かえって自由にその才幹と力量とを発揮し、事業界に、更に政界に進出し、一時は満鉄総裁となり満州開拓に尽力し満鉄中興の祖と言われ、財界、政界の両方面に事業家、政治家として目覚ましい活躍を続けた山本条太郎(1867年(慶応3年)~1936年(昭和11年)3月25日)についての伝記。福井藩松平家に仕える微禄の武士の長男として慶應3年(1867年)10月11日に福井城下御駕町に生まれ、5歳で福井を離れ家族と共に入京、その後、叔父の吉田健三(福井藩士渡辺謙七の子で吉田茂の養親)の紹介で三井物産に小僧として働き始めるが、幼少期から、享年68歳で亡くなるまでの全生涯の事蹟について、全11章に分けて叙述。

本書著者の原安三郎氏(1884年~1982年)は、日本財界の重鎮として活躍した実業家で、山本条太郎の側近として山本条太郎に深く薫育を受け、適任、本書の序文で、その深い因縁について下記の通り記している。”私は早稲田大学商科を卒業後、当時の学長高田早苗先生の紹介状をたずさえて山本邸をたずねた。これが翁との最初の出会いである。明治43年(1910)3月春季皇霊祭(春分)の日である。山本翁は三井物産常務であった。爾来、私は山本翁の下でいわば門下生となって入塾したような恰好で世話になった。山本翁は三井を辞して後、三井で得た豊富な経験をもとに、独立自往の形であらゆる方面の事業を次々に企てられた。私もその指図で翁の手がけた幾つかの仕事に就いて、はじめは使い走りから、そして年と共に次第により高い仕事を振り当てられるようになった。だが、何といっても私にとって忘れ難いのは、書生に毛が生えた程度に過ぎぬ時代、山本邸での日夜の翁との接触である”(以下略)

山本条太郎が1936年(昭和11年)3月25日逝去後、故人の印象も生々しいうちにと、本書著者の原安三郎氏により、直ちに290余人の故人を知る人々にお願いして追憶録が纏められた。これは、昭和11年(1936年)9月5日発行の「山本条太郎翁追憶録」(編輯兼発行者:原安三郎、非売品、印刷所:三秀舎)。そして、これを基礎にして、伝記山本条太郎が編まれ、別に論策集2巻が公刊。まず、論策集が昭和14年(1939年)8月25日に、「山本条太郎 論策一・二」2巻が発行(発行者:原安三郎、発行所:山本条太郎翁伝記編纂会、印刷所:三秀舎、非売品)。続いて「山本条太郎 伝記」が昭和17年(1942年)3月25日に約1千頁にも及ぶ大冊で刊行(山本条太郎翁伝記編纂会 編、非売品)

その後、1960年、山本条太郎の銅像及び生誕記念碑が、生地福井市に建立された時に、既に戦前に発表された伝記、追憶録の中から抜粋して、中学、高校程度の若い人たちのための小伝を原安三郎氏が刊行。この2番目の伝記は、頁数にして百頁余りで、簡明に故人の閲歴を述べ、巻の半ばは故人を親しく知る50人の人々が身近に接して得た山本条太郎の言行録といえるもの。そして、本書が3回目の伝記発行で、今回は出版社・時事通信社から、裸一貫から事業を築き上げた人びとを取り上げる「一業一人伝」シリーズの一冊として、1965年8月に発売されたもの。既に発表された大部の伝記の中より、閲歴上の細かい数字等は省略して、山本条太郎の若い時代に重点を置き、時代に合わせて編集したもので、巻頭に8枚の写真とともに頁数は約250頁で巻末に19頁の年譜が付されている。尚、最初の「山本条太郎 伝記」は、1982年8月に、原書房より、「山本条太郎 論策2巻とともに、明治百年史叢書シリーズとして復刻刊行(電機は、958頁。年譜14頁)。更に、山本条太郎伝記は、図書出版社より1990年7月に、経済人叢書シリーズとして448頁に圧縮して発売されている。

本書は全11章のうち、第2章から6章までが、前半生の三井物産時代。68年の生涯の中で、1881年秋、14歳で小僧として三井物産横浜支店で働き始め、1914年4月に常務取締役を辞任し退社する約32年半の三井物産在勤時代(1881年秋~1914年4月)。注目すべき最初の点は、まず創始期の三井物産に入社するのは14歳で横浜支店に小僧としての入社だったこと。そこから、スケールが大きく豪快な野性味のある突出した企業人に駆け上がるストーリーも非常に痛快。才気あふれすぎるせいか、左遷人事も受け、横浜支店から東京本店に転じた後、1886年12月からは、物産会社所属の東シナ海を行き来する千トンの貨物船・頼朝丸の乗組員への懲罰人事も受けている。上海をはじめ福建省方面の諸港に日本から三池の石炭を搬送していた三井物産所有の船籍は日本の汽船ながら、乗組員は水夫に若干の中国人がいるだけで、ほとんどが英国人で日本人は山本条太郎ただ一人であったが、山本条太郎をその半生涯の活躍場となる中国大陸と結び付けたのが、この頼朝丸乗船生活。

そして、小僧として三井物産に入社してから約6年半後の1888年(明治21年)3月、三井物産上海支店勤務。ここから、東京本社理事重役となり上海を去るまでの約20年間が、途中、営口(現・遼寧省中南部の港湾都市)に勤務したり、大阪支店に転じたり(1897年10月~)など断続はあったものの、国際都市上海を拠点に中国大陸に雄飛した時期で、1901年(明治34年)には上海支店長に就任。上海時代の山本条太郎の大きな事蹟が、中国における日本人経営の紡績事業の基礎を固めた事や北海道産木材の対支輸出に先鞭をつけ、日支間の貿易以外にも上海支店における他国と中国との貿易も伸長させるなど、いろいろと紹介されている。更に、1905年(明治38年)12月には、上海に在って対支貿易総監督(清国総監督)に就任し、三井物産の在支支店出張所の統括にあたる。そして、1908年1月に東京本社理事となり、三井物産時代の最後となる6年間の重役時代(1908年1月~1914年4月、1909年10月に常務取締役に昇進)を迎える。

順風満帆だった三井物産重役を不本意な形で突然辞めることになる転機が、1914年(大正3年)、シーメンス事件。このシーメンス事件に連座し下獄と、一般的に簡潔に紹介されることが多いが、シーメンス事件と呼ばれる事件が何を指すのか、また、山本条太郎が巻き込まれた金剛鑑事件の詳細と山本条太郎の事件への関与について詳しく述べられていて、シーメンス事件についての認識や山本条太郎とシーメンス事件との関連について、非常に認識を改めることができた。シーメンス事件とは、一つはドイツのシーメンス会社が海軍省艦政本部関係者数名に贈賄した事件と、他の一つは巡洋戦艦金剛の建造をめぐって、英国の造船会社のヴィッカース商会の日本総代理店の三井物産の重役らと同社技術顧問元海軍造船総監松尾鶴太郎が、当時の海軍艦政本部長松木和中中将に贈賄したとされる金剛艦事件とを総称した海軍に関わる事件。

山本条太郎が巻き込まれた金剛艦事件は、汚職事件たるシーメンス事件とは全く別物で事件の性質も大きく異なり、また長州閥陸軍の大御所山県有朋元帥が薩摩閥海軍の頭領山本権兵衛大将の失脚を狙った陰謀のすり替え事件。しかも、三井物産の常務取締役の分掌でも、海軍関係は別の常務担当で、山本条太郎は、金剛鑑関連の協議にも一切関与していなかったが、不手際もあり疑惑の目を向けられ、1914年3月、取り調べを受け翌4月、金剛事件予審終結し、同月、山本条太郎は三井物産を辞任。シーメンス事件にまつわる災禍に見舞われ、1914年7月、第一審判決で懲役1年6カ月を宣せられ、翌1915年4月、控訴審判決で量刑は一審判決同様で執行猶予4年となり、翌1915年3月、特赦の恩典に浴している。

山本条太郎の生涯は、この海軍事件(金剛艦事件)を境として大きく前半生、後半生と分けることができ、大正3年(1914年)三井物産を辞して後、大正9年(1920年)に政界入りをするまでの数年間に、三井物産在勤時代に十分身につけた経済眼をもって数多くの事業を経営し、経世的事業家として再出発するが、その疑獄事件に巻き込まれた後の立ち直りの速さと、その自由で縦横無尽な活躍ぶりや旺盛な事業精神にも驚くばかり。生来鋭敏な頭脳と溢れんばかりの活力の持ち主で、しかも三井物産という広い範囲の事業に関連する企業で育ったこともあり、化学工業、鉱山事業、電力事業、繊維工業、南洋の事業、外地の経営など、自由な立場でその力量、才幹を発揮し、1人多業で直接間接に多種多様な数多くの事業を企画経営していき、それは政界入りして後も続いていく。

その後、事業家として多種多様な事業経営に関わりながら、政界へ進出。政界進出は、1920年(大正9年)5月10日の第14回衆議院議員総選挙に福井県第一区の福井市で立憲政友会(総裁・原敬)から立候補して当選。その後、1924年(大正13年)5月の第15回、1928年2月(昭和3年)2月の第16回、1930年(昭和5年)2月の第17回、1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙で連続5期当選(3回目以降は福井県全県区、5回目は無投票)。1935年(昭和10年)12月には貴族院議員に勅選。政界進出後、早くから国策研究に努め、1927年(昭和2年)4月には、政友会総裁の田中義一内閣が成立し政友会幹事長に就任。1930年(昭和5年)5月、民政党の浜口雄幸内閣時代の野党の犬養毅政友会総裁のもとで政友会の政務調査会長に就任。満鉄総裁を辞任した後、「経済国策の提唱」を始め国策樹立のリーダーとして中央政界でも活躍。軍部独裁の動きが進む五・一五事件後は、政友会・民政党の政民連携の実現に奔走するなど、政党政治の擁護に努めている。

山本条太郎の華々しい活躍には、満鉄総裁時代(1927年7月~1929年8月)も挙げられるが、満州での活躍の素地は、三井物産での勤務時代に既に見られる。三井物産での勤務時代は、三井物産上海支店、上海支店長、上海での対支貿易総監督(清国総監督)と、上海を拠点に中国大陸に雄飛した時期の活躍が眼を見張るが、最初の上海支店勤務時代から、1891年(明治24年)には、単身で、営口(現・遼寧省中南部の港湾都市)にて勤務し同地の貿易状況についての実態調査を行い、満州進出の策を練り、本格的に満州の貿易促進に従事している。この時の満州における日本商人は山本条太郎ただ一人で、まさに満州一番乗りを果たし、満州大豆、豆粕の取引を開拓しているのは見事。1905年(明治38年)12月以降の対支貿易総監督(清国総監督)時代には、満州に出張し日本の満州経営に助力。満鉄総裁時代には、満悦の経営合理化の大ナタや、製鉄、製油、肥料の三事業三大国策事業の基礎を固めるなど満鉄の経営に活を入れただけでなく、鉄道問題の解決という大課題に取組み、張作霖と直談判し、1927年10月には、五鉄道敷設協約を締結するなど、まさに「満鉄中興の祖」と言われるに相応しすぎる活躍ぶりを見せる。ただ、内閣の更迭に伴い満鉄総裁も交代というルールで2年で満鉄総裁を辞しているのが惜しい。

なお、政界進出にあたり福井選挙区から出馬しているが、福井との関わりは、福井藩松平家に仕える微禄の武士の長男として慶應3年(1867年)10月11日に福井城下御駕町に生まれ、福井は誕生の地、父祖の地であったが、そこでの生活は、明治5年(1872年)8月までの約5年の期間。明治5年(1872年)8月に山本家は入京し東京の松平家邸内に住居。父は松平家家従となり、終始松平家に仕え、明治35年(1902年)まで勤続している。当初は、日本橋浜町(蠣殻町の地域)にあった松平邸内に居住。この日本橋浜町の松平邸内には、やや遅れて東京へ出てきた福井藩の岡倉勘右衛門(岡倉天心の父)の家族があったことにも触れられている。山本条太郎が学童期には、山本家は明治8年、松平公邸に従って浅草今戸に、明治10年(1877)には小石川水道町安藤坂に移っている。

福井との関わりでは、三井物産退社後に様々な業種で多種多少の事業経営に関わるが、地元の福井県では、電力事業では北陸電化(株)、繊維工業では福井県絹織物(株)などに関わり、特に北陸電化(株)については、九頭竜川に水利権を獲得し、福井県の勝原に発電所を建設し、さらにその発生電力の余力をもって石炭窒素と硫安を製造せんとし、福井県武生に硫安製造の工場を建設したことも紹介されている。

本書の見どころとしては、巻頭に9枚の写真が掲載されていて、山本条太郎の肖像写真が、三井物産重役時代の明治41年11月(42歳、1908年)、政界進出の頃の大正9年(1920年)頃(54歳位)、政友会幹事長、満鉄総裁時代の昭和2年(1927年、61歳)と3枚掲載。更に、他には、”昭和2年(1927年)満鉄社長として赴任の途上。右より山本条太郎、松岡洋右、嗣子武太郎、夫人操子”、”昭和8年(1933年)6月13日、芝三緑亭にて三巨頭会談。政友会の強硬自重両派調停の時。右より望月圭介、山本条太郎、山本悌二郎”の写真も、現代史を彩る貴重な写真だが、”明治43年頃(1910年)、小石川安藤坂の松平邸玄関前にて自動車を操縦する山本条太郎。後ろは松平康荘侯と松平夫人”という、珍しい写真も掲載されていて楽しい。更には”宏虎童氏と共に(左)(16歳)”という、三井物産小僧時代と思える非常に若い写真も貴重。


序文
1.少年時代

まわりの人々/ 共立学校を中退/ 伯父吉田健三/
2.三井物産会社に入る
創始期の三井物産/ 前垂れがけの小僧生活/ 本店へ回される/ 米の買い付けに敏腕/ 北海道旅行/ 人生至るところわが師あり
3.大陸雄飛の第一歩
上海支店勤務/ 「山本のホラ吹き」/ 進んで倒れるの方針/ 満州大豆貿易の親/ 「占領地商況視察報告」/ 南船北馬/ 「買弁」制度の廃止
4.三井大阪支店時代
日本紡績産業の発展/ 大陸市場制覇に奮闘/ 三品暴落事件/ カーネギーと会談/ 閑職を要職に化す
5.上海に山本あり
上海支店長/ 在華紡績の基礎固め/ 木材の対支輸出に先鞭/ 後藤新平の満鉄と山本/ 日支親善に尽す/ 独特の交際上手/ 上海支店は日本の顔/ 日露戦争に陰の功績
6.重役時代と海軍事件
三井の名物常務/ 辛亥革命/ 三百万円援助の放れ業/ 中国興業の設立/ シーメンス事件/ 金剛鑑事件の災禍/ 人間に深みを加える
7.経世的事業家
事業家として再出発/ 火薬、染料、医薬品、針布/ 鉱業界進出/ 電力界の先達/ 外地の経営/ 「安心して相談できる人」
8.政界へ進出
米騒動前後の政情/ 四票差で当選/ 政界での初仕事/ 政友会の大分裂/ 超党派で政策研究/ 人呼んで「大幹事長」
9.満鉄中興の祖
そのころの満鉄/ 経営合理化の大なた/ 「三大国策事業」に礎石/ もう一つの課題/ 張作霖と直談判/ 鉄道敷設協約に成功
10.国策樹立のリーダー
『経済国策の提唱』/ 積極政策を展開/ 犬養と山本
11.政党政治の擁護
五・一五事件に痛憤/ 政民連携の実現/ 最後の努力
山本条太郎年譜

山本条太郎 年譜
慶応3年(1867):(数え年1歳)
10月11日、福井市松ヶ枝下町に生まる。12月、父条悦小算格を仰付らる。10石2人扶持。
明治元年(1868):(数え年2歳)
この年、叔父吉田健三、外国より帰朝。
明治2年(1869):(数え年3歳)
11月、父条悦小算格を秘免、家従附属申付らる。
明治4年(1871):(数え年5歳)
2月、父条悦藩主松平茂昭に従い上京。5月、再び藩主と福井へ還る。
明治5年(1872):(数え年6歳)
2月、松平家より山本家へ東京転任の内命。5月、父条悦改名し武。8月、山本家入京、松平家邸内に住居。父武、松平家家従となる。
明治6年(1873):(数え年7歳)
2月、妹さく生まる。
明治8年(1875):(数え年9歳)
4月、松平家に伴い山本家浅草今戸に移る。8月、母みつ病歿、当分父子別居
明治9年(1876):(数え年10歳)
この年、父武後妻てるを迎え、一家再び集まる。
明治10年(1877):(数え年11歳)
1月、松平家に伴い、小石川水道町安藤坂に転居。
明治11年(1878):(数え年12歳)
10月、礫川小学校上等第2級前期修業
明治12年(1879):(数え年13歳)
10月、礫川小学校高等1級前期修業
明治13年(1880):(数え年14歳)
3月、共立学校入学。9月、弟章雄生まる。
明治14年(1881):(数え年15歳)
この冬、肋膜炎を患う。この秋、三井物産横浜支店に入る。月給1円50銭
明治15年(1882):(数え年16歳)
12月、三井物産東京本店に転勤。この年、叔父吉田健三絵入自由新聞創刊
明治16年(1883):(数え年17歳)
この秋、千葉県小見川に出張、米買付に殊勲。12月、手代見習席に昇進、月給4円50銭。
明治17年(1884):(数え年18歳)
12月、月給5円50銭。
明治18年(1885):(数え年19歳)
2月、3等手代に昇進、月給8円。
明治19年(1886):(数え年20歳)
8月、馬越恭平に随行、北海道視察行に加わる。12月、頼朝丸乗船、月手当20円支給。
明治20年(1887):(数え年21歳)
この年、鉱山局の命により北清及び開平炭鉱視察。
明治21年(1888):(数え年22歳)
3月、三井物産上海支店に勤務(支店長は上田安三郎)
明治22年(1889):(数え年23歳)
6月、手代2等席に昇進。10月、頼朝丸ゴール船長歿。12月、月給30円、叔父吉田健三歿、一時上海より帰国
明治24年(1891):(数え年25歳)
この夏、単身営口に入る。10月、手代1等席に昇進。12月、上海支店在勤中の月給35円。
明治25年(1892):(数え年26歳)
4月、上田上海支店長本店転出(後任小室三吉)。11月、商用に付一時帰朝。12月、上海支店在勤中別に月手当5円。
明治26年(1893):(数え年27歳)
2月、番頭3等に昇進。4月、厦門、汕頭、香港、牛荘に出張。9月、月給50円、手当10円。この年、無錫にて繭買付。
明治27年(1894):(数え年28歳)
6月、臨時上海支店長代理。9月、本店詰。10月、朝鮮京城及び平壌地方商況視察。
明治28年(1895):(数え年29歳)
1月、占領地へ出張。6月、再び上海支店詰。9月、営口詰。12月、月給80円上海紡績会社支配人
明治29年(1896):(数え年30歳)
4月、上海紡績支配人を罷め上海支店復職。4月~5月、益田孝と支那巡視。7月、月給100円。
明治30年(1897):(数え年31歳)
8月、月給150円。10月、参事に昇進、大坂支店に転じ棉花絲首部長。月給169円。
明治31年(1898):(数え年32歳)
6月、原操子と結婚。12月、月給225円。
明治32年(1899):(数え年33歳)
12月、月給300円。この年、三井物産支那修業生制度を設く。
明治33年(1900):(数え年34歳)
3月、横浜出航渡米。5月、三井物産守山事件の処理。11月、帰朝、三井物産本店参事。
明治34年(1901):(数え年35歳)
3月、参事長に昇進。9月、上海支店長、月給350円。
明治35年(1902):(数え年36歳)
5月、漢口に出張員派遣、京漢線に枕木納入。この夏、興泰紗廠買収。12月、香港政庁に上海紡織会社を登記。
明治36年(1903):(数え年37歳)
この秋、北海道に木材視察。12月、月給400円。この年、商務印書館を経営。
明治37年(1904):(数え年38歳)
1月、父武歿。8月、三井の談話会で対支意見開陳。この秋、四川路上海支店新築竣工。11月、理事心得に昇進。
明治38年(1905):(数え年39歳)
5月、バルチック艦隊の動向偵察。12月、清国総監督就任(支店長後任に藤瀬政次郎)
明治39年(1906):(数え年40歳)
4月、勲六等単光旭日章を授かる。6月、理事に昇進。上海勤務如故。11月、満州出張、物産各出張所視察。
明治40年(1907):(数え年41歳)
7月、月給500円。
明治41年(1908):(数え年42歳)
1月、東京本店理事に昇進。4月、北清に出張。7月、堺セルロイド会社取締役。赤坂新坂町に移邸
明治42年(1909):(数え年43歳)
7月、北海道に出張。8月、東亜興業会社取締役。10月、三井物産常務取締役。
明治43年(1910):(数え年44歳)
8月、肺炎を患う。11月まで沼津で療養。このt氏、薬丸金山を経営、日本硫黄の経営に参加
明治44年(1911):(数え年45歳)
1月、長男武太郎生まる。9月、門司の石炭会議に出張。
大正元年(1912):(数え年46歳)
1月、中国革命政府に3百万円借款に応ず。
大正2年(1913):(数え年47歳)
8月、中国興業(後の中日実業)会社相談役。
大正3年(1914):(数え年48歳)
3月、岩原常務を始め金剛事件で取調べを受く。4月、金剛事件予審終結、三井物産辞任。7月、第一審判決。この年、朝鮮陵洞タングステン鉱山経営に着手。
大正4年(1915):(数え年49歳)
4月、控訴審判決、執行猶予。この年、大洋汽船会社設立。
大正5年(1916):(数え年50歳)
3月、特赦の恩典に浴す。6月、日本火薬製造会社設立相談役。10月、野州鉱山会社設立相談役。
大正6年(1917):(数え年51歳)
5月、満州製麻会社設立相談役。6月、大日本炭鉱会社設立相談役。8月、北陸電化会社設立社長。11月、朝鮮紡織会社設立取締役後社長。
大正7年(1918):(数え年52歳)
1月、化学工業協会評議員。10月、内外鉱業会社設立相談役。この年、東露通商公司設立。
大正8年(1919):(数え年53歳)
5月、朝鮮生糸会社設立取締役。10月、日本水力会社設立社長。12月、日支紡織会社設立社長。
大正9年(1920):(数え年54歳)
1月、梁瀬自動車会社設立相談役。5月、福井市より衆院議員に当選。6月、政友会同志と二七会を作る。この年、帝国蚕絲会社設立、蚕絲業救済に尽力。
大正10年(1921):(数え年55歳)
2月、大同電力会社設立取締役。3月、不当廉売審査会委員。11月、北陸電化、大同肥料と改称、社長。
大正11年(1922):(数え年56歳)
3月、食糧配給設備に関する建議案上提可決。7月、鉄道会議(鉄道省)議員。
大正12年(1923):(数え年57歳)
3月、関東紡績会社経営に参画。4月、政友会臨時政務調査会副会長。8月、高橋是清、野田卯太郎と軽井沢別荘に清遊。この年、山東鉱業会社経営に尽力。
大正13年(1924):(数え年58歳)
1月、床次派による分裂起こるも政友会に留る。政友会福井県支部長。5月、衆院議員に当選(第2回)。6月、東洋紡績会社監査役、同興紡績会社監査役。この年、政友会行政整理特別委員長、有志議員と談話会作る。
大正14年(1925):(数え年59歳)
2月、独逸よりシュナイダース博士を招く。3月、政友会総務。5月、第二京浜電力会社設立取締役
昭和元年(1926):(数え年60歳)
2月、関税定率法改正特別委員。7月、江ノ島電気鉄道会社設立相談役。11月、森永製菓会社取締役。12月、昭和電力会社設立顧問。
昭和2年(1927):(数え年61歳)
2月、政友会代表として支那政情視察。4月、政友会幹事長。5月、川崎造船所救済問題に尽力。7月、南満州鉄道会社社長。10月、北京で張作霖と会見、五鉄道協約結ぶ。
昭和3年(1928):(数え年62歳)
1月、満鉄新規事業計画決定。2月、衆院議員に当選(第3回)。4月、石炭液化研究を海軍に委嘱。11月、張学良と奉天で会見。
昭和4年(1929):(数え年63歳)
1月、鉄鋼一貫作業計画を決定。7月、昭和製鋼所(新義州案)設立を登記。8月、満鉄総裁を辞任。この秋、急性腎臓炎、『経済国策の提唱』の著述に着手。
昭和5年(1930):(数え年64歳)
2月、福井県より衆院議員に当選。5月、政友会政務調査会長。8月、『経済国策の提唱』刊行。9月、政友会臨時大会、新経済政策要綱を決定。
昭和6年(1931):(数え年65歳)
2月、日本針布会社設立。4月、政友会政調会で十大政綱発表。8月、山川製薬会社設立相談役。11月、政友会党議で金輸出再禁を決議。
昭和7年(1932):(数え年66歳)
1月、伊豆天城金山(現在の中外鉱業株式会社持越鉱業所)買収。2月、無投票で衆議院議員(第5回)。4月、満鉄総裁再任を辞す。東大病院入院手術。
昭和8年(1933):(数え年67歳)
3月、朝鮮九峰金山、橋洞金山を買収経営。6月、望月圭介と共に政友会強硬自重両派を調停。8月、政友会主脳会議で政策大綱決定。
昭和9年(1934):(数え年68歳)
2月、政友会総務会で政党の政策協定を主唱。5月、政民両党の政策協定交渉に尽力。10月、食道に異常感ず。11月、政民両党連携覚書を発表。
昭和10年(1935):(数え年69歳)
4月、康楽病院でラジウム治療。10月、再び食堂狭窄を患う。12月、貴族院議員に勅選。
昭和11年(1936):(数え年70歳)
1月、病状悪化。3月25日、逝去。

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