北陸ゆかりの作家による作品 第9回 「生への手記」(廣津里香 著、思潮社)

「生への手記」(廣津里香 著、思潮社、1983年9月発行)

廣津里香(ひろつ・りか)略歴(*1938年~1967年)
<*『死がうつくしいなんてだれが言った  思索する女子学生の遺書』著者略歴紹介より>
1938年 東京・渋谷に生まれる。
1956年 金沢大学付属高校卒
1957年 津田塾大中退
1962年 東京大学教育学部社会教育卒
1963年 東京大学新聞研究所卒
1965年 早稲田大学大学院英文学修士課程修了。
1967年12月12日 油絵制作中  シンナー慢性中毒による悪性貧血のため死亡

本書著者の広津里香(本名・広津啓子、1938年2月~1967年12月)は、1938年、東京・渋谷区富ヶ谷町に生まれ、1967年、油絵制作中に再生不良性貧血が悪化し、29歳の若さで、東京都田無市の救急病院で急逝した画家、詩人。1951年、父親が金沢大学工学部教授として金沢赴任に伴い、金沢に転居し、中学・高校時代を金沢で過ごす。1ヶ月間だけ、金沢市立紫錦台中学に転入し、1951年4月、国立金沢大学付属中学2年生に編入試験合格。1953年4月、国立金沢大学付属高校に入学し、1956年3月、金沢大学付属高校を卒業。その後は、1957年に津田塾大中退、1962年に東京大学教育学部社会教育卒。1963年、東京大学新聞研究所卒、1965年に早稲田大学大学院英文学修士課程修了と東京で学業を修め、大学院修了後は、東京の家で詩作、絵画を描くが、創作活動を始めた中学・高校時代を金沢で過ごしたこともあって、石川近代文学館でも石川県ゆかりの文学者として取りあげられている(尚、家族が父親の転勤で金沢を離れるのは、1960年5月6日)。また、広津里香顕彰活動として、広津里香記念 高校生による「創作詩」募集と入賞作品展の活動が、主催・石川近代文学館、共催・石川県立図書館により続けられている。

著者は、数多くの日記をはじめ、詩や絵画を残して亡くなるが、1967年12月の没後、遺族により、翌年の1968年12月に「Note de vivi」私家版、1969年12月に「詩画集 量られた太陽」私家版刊行を皮切りに、詩画集『広津里香詩集 量られた太陽』(ポエットリー出版部、1970年12月)、『広津里香詩集』(思潮社、1972年11月)、詩画集『黒いミサ』(思潮社、1975年1月)が刊行され、その後の1977年1月に、手記『死がうつくしいなんてだれが言った  思索する女子学生の遺書』(昭和52年)が、光文社カッパブックスより刊行され、センセーショナルな話題を呼ぶ。その後も、『画帖 黒いミサ』(思潮社、1977年6月)、『詩集 白壁の花』(思潮社、1979年2月)、『画帖 不在証明』(思潮社、1980年11月)、本書の『生への手記』(思潮社、1983年9月)、『不可能な儀式  生への手記』(思潮社、1984年6月)、『死が美しいなんてだれが言った』(潮出版社、1986年4月)、『広津里香詩集  蝶の町』(沖積舎、1987年6月)、『私は優雅な叛逆者  生への手記』(創樹社、1989年2月)、『蝶への変身  生への手記』(創樹社、1990年10月)など、 十数冊の著書が家人の手によって刊行される。

1977年1月に光文社より刊行された手記『死がうつくしいなんてだれが言った  思索する女子学生の遺書』は、著者が残した日記から抜粋し編集されたもので、高校時代から大学時代、大学院時代、大学院卒業後の時代にまたがているが、カバーする時期が長い分、日記の内容が相当に省略されていて、1日分の日記でも割愛されている記述がたくさんあるのに対し、1983年9月に思潮社より刊行された本書『生への手記』は、特定の時期の日記を取り上げているので、「死が美しいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書」では、相当、割愛されていた日記の内容が復元されている。「死が美しいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書」では、どちらかというと、尖ったような表現の文章がピックアップされ、並べていて、観念的な表現が多いが、本書では、前後の文章の流れが復元されているので、表現の背景が理解しやすい面もあるし、また、割愛されない日記の長い文章を読めば読むほど、難解さが増すような日記の文章も見受けられる。また、本書では、観念的な表現も多いが、その背景となっている学校や家庭、街中などでも具体的な出来事なども記載されていて、そのことを踏まえての感想や思考になっているのは、著者により近づける気がする。具体的には、11章構成の「死が美しいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書」の1章から5章までで取り上げた時代の日記を、3章構成の本書で深く詳細に取り上げられている。

3章構成の本書「生への手記」の第1章にあたる部分は、「Note de Vivi No.1 (高校時代)」と題し、11章構成の「死がうつくしいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書」の第1章「明日なんか欲しくない」の部分。「死がうつくしいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書」の第1章「明日なんか欲しくない」では、金沢大学付属高校の高校2年の時の日記から始まっていて、金沢の高校卒業後は、1年のブランクがあって、1957年に津田塾大入学、同年中退しているが、津田塾大学時代の日記も収められていたが、本書の「Note de Vivi No.1 (高校時代)」では、文体も異なり、また、幼少の頃から中学時代や高校入学の頃までを振り返った文章も、本書の「Note de Vivi No.1 (高校時代)」の前半部に収録されている。幼少の時からの自分を、”いつも私は何かに夢中にならずにはいられなかった。そうしてないと、何かに意味を見出そうとする私は、死よりひどい虚無感に陥らねばならなかったから。でも私は殆ど本の中で、空想の中で生活してきました。現実は次から次へと私を脅えさせてきたんです。私の内向性も原因でしたが。私は家でも本と人形を相手にして遊んでいました。”とか、”私は1人いつも多勢の中でポツンとしていた。皆が幼稚で俗っぽく見えるのだ。私は自分の内部に、書物に深くとらわれていた方がいい。”という文章も出てくるが、幼少の時のいろんなエピソードからも、著者は幼少の頃から非常に感受性が強かった事が分かる。その後も自分の性格を、習慣的な考えに染まらず、ちょっとでも論理にあわないと決して納得しない性格だったと分析している。

巻末には、著者の母による「生いたち ー廣津啓子年譜」があるが、これによると、東京の渋谷区富ヶ谷に生まれ、渋谷区上原町に移転し上原町の小学校から、昭和20年(1945)6月、小学2年の時に、疎開のために住み慣れた東京を離れ、山形県の母の従兄宅をはじめ、戦後、横浜・鶴見の叔父の社宅、福岡県久留米市、と転々とつづく同居生活。男尊女卑のきびしい所での生活もあり、7回も変る小学校と不遇な、他所者としての扱いに鋭敏な性格は内省的となり、溶け合えない性格は口を閉ざし物言わぬ子となったとも語られている。中学・高校を過ごした金沢についても、その陰湿、じめじめさが厭で、小さな町から飛び出したいという気持ちを綴るが、金沢に限らず、”私は日本を嫌う”と、明快に言い切る。「チボー家の人々」の登場人物のジャックへの共感、心酔ぶりも際立っている。”「チボー家の人々」を読んで行って、ジャックが死んだ時、私も死んだような気がした。ああ!ジャック!私もある意味で貴方の生き方をすると分かっているから。生まれつき何も感じず暮らしていく愚鈍な人間が一杯いる。その人たちと違うということ、決して同じ線で考えることはないということが分かるだろうか?・・私は滅茶苦茶に破壊したい。私に不合理と思えるもの。慣習で動いている人たちが全面的に頼っているものを。”という心情にも、日本嫌いの理由が現れている。”外国の大学で建築を学びたい、美術建築を。”と語り、”私は個性的な美しさをもってるものが好き”と語る。本や絵画などからも影響を受けていると思うが、映画の話も多い。映画館で初めて見た映画は中学の時にみたフランス映画「パリの空の下 セーヌは流れる」で、この映画でのシャンソンは忘れられず、この映画も好きだったとのこと。著者がオシャレでフランス好きなところに繋がっているのかもしれないが。

3章構成の本書「生への手記」の第2章にあたる部分は、「Note de Vivi No.2(大学1年、2年時代)」と題し、11章構成の「死がうつくしいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書」の第2章「青春が美しいなんて誰が言った」と第3章「私は愛する、全身で」の部分。金沢の高校卒業後は、1年のブランクがあって、1957年に津田塾大入学、同年中退、1958年に東京芸術大学建築科を希望するが、芸大受験中に気分が悪くない途中退出し、母親が内緒で願書を出していた学芸大学英文科に入学。1960年に東京大学教育学部社会教育科3年に編入しているが、本書の第2章は、時期的には、1959年の学芸大学1年終わりから学芸大学2年、1960年4月の東大教育学部3年に編入後までの時期。死のことを意識する文章が全般に非常に見受けれるが、それだけ、時代や周囲や環境や日本や「慣習・常識」に幻滅しながらも、それだけ「生きる」ことについて深く考え、「生きたい」と願っている気持ちが非常に強いのではと感じる。”私はずっと自分を引きずってきた。でも自己の存在を自分で実証しなければならない。私は、少なくとも、人間の中にジャック・チボーが存在していくことをつねに信じなければならない。たとえ日本にはいなくても世界のどこかに。””何度も死を夢見た。たったひとつの最初からいなかった状態にかえれる手段として。そしてそれが未知のものだから、時には怖れるだろう。しかし、生きている以前の状態にもどるのだ、かえっていくのだ。できれば、その時”存在した”と納得できるような生を生きたい”とも綴っている。

社会人の友人の手紙を受けて、”毎日の機械的な経過に溺れてしまうことはどうしても出来ない。そんな人達のなかでは私も異質のものを感じ彼らを嫌うだろう。勤めている多くの人達が肉体的疲労にもかかわらず、”考えてる”ことは私に人間の存在を信じさせる”と、前向きな文章も見受けることができる。大学時代の日記として、中学・高校と大学の違いについての文章も印象深い。”大学も高校も、同じ気分で過ごして来た。でも一方には過去があり、一方にはそれがない。中学の時にはもう一人前の思考力、感受性をもっているが、過去に関していえばまだ子供なのだ。そして高校の時には振り向くような後など何もないのだ。だから前を向いていた。どちらへ進むかだけが頭を占めていた。大学では直接大人に続く自分がいる。そして後を振り返る、過去があったと自分で気づくのだ。がむしゃらに抜け出そうとしていた場所とその過去があったと”。著者は中学・高校を過ごした金沢を離れ東京で大学生活を送っているが、家族が父親の転勤で金沢を離れるのは1960年5月6日で、それまでは金沢に帰省していて、金沢に帰った時のことも日記に記している。金沢大附高の卒業後の同級生たちの事や、東京での同窓会の話なども登場する。この章では、”ラッシュ時に電車でさわられて、私は私の心のうめきを聞く””電車や映画館では口惜しい思いばかりだ、それに拾い出せば不愉快な男は一杯いる。建築現場を通れば必ずからかってくる男がいる”とも書いているが、女性の扱い、男性と女性の問題などについては、非常に憤りがあるようで、本書の最終章では「A Woman to the Society」と題した英文の文章も書いている。著者は映画「野獣死すべし」が好きといい、その感想も著者らしいコメント。映画は、松田優作主演の「野獣死すべし」(1980年)ではなく、仲代達矢主演の「野獣死すべし」(1959年)。

3章構成の本書「生への手記」の第3章にあたる部分は、「Note de Vivi No.3(大学3年、4年時代)」と題し、11章構成の「死がうつくしいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書」の第4章「反抗するのだ」と第5章「運命がほほえみかけようと」の部分。時期的には、1960年の東京大学教育学部社会教育科3年に編入から1961年の東京大学教育学部社会教育科4年までの時期だが、1961年は、東京大学新聞研究所合格し新聞研究所1年の年でもあり。1960年6月11日の日記には、”私は贅沢病だそうだ。恵まれすぎててすべてに興味を失ってしまう病気だそうだ。”と、思わず、同調してしまいそうな第三者からのコメントが紹介されていたが、その後には、”たしかにスカーフとか帽子とかハンドバックとか特別いいのを貯めこんでいるが、すべての意味で持ちすぎて興味がわかないんじゃない。生きていないから周囲に興味をもてないだけだ。あるいは興味をもてないから生きていないだけだ。私にとっては同じこと。いつも生きると声をかけて興味をもつことを自分に無理強いして来たからいっそう何にも価値を見出せなくなったのだ。放っとくこと。興味をもてないのを自分の責任みたいに無意識に考えてるのがいけないのだ。”と、著者の反駁の文章が続き、日本人の腐れ、湿りに我慢できないと言い切る激しさには付いていけないが、著者の気持ちはある程度共感できる。

安保反対デモや加熱する大学紛争が起る1960年の日記には、樺美智子(1937年~1960年6月15日)の安保闘争での死亡事件のことや、浅沼稲次郞(1898年~1960年10月12日)暗殺事件のことが取りあげられている。この頃の1960年8月21日の日記では、”ああ私をどうかして、こんな状態から出して!。。私は終ってしまった。何もかも中途半端のまま。外国で勉強することはできなかった。好きな勉強ももうできない。・・酒や煙草や男の子そんなものも今はだめ。私はそれ以上の何かが欲しい。生活は欲しい。何も私にはききめはないのだ。私からとり上げた私の生命を返し、そして私に世界を”と、今までの日記での文章以上に、焦燥感にあふれ落ち込んだ気分の記述に出くわす。非常に心配となるが、その後は、ヨーロッパの大学での建築を学ぶという希望は実現できずに、日本嫌いなまま、不本意な日々を送っていた様子で、ヒリヒリとした心情の表出の文章をしばしば見つけるはするも、それでいて、著者は非常にオシャレで、学生生活を楽しむような様子も登場したりしている。本書の第三章では、終盤に、日記の文体とは異なる、「夏の生」「A Woman to the Society」「牢獄」「特殊な生」と題した、まとまった文章が続き、最後に、「An revoir!」と、フランス語の「さようなら」と題を付けた日本語の文章が掲載されているが、この終盤に収められた、いくつかの文章は、なかなか難解に思える。尚、本書「生への手記」の巻末には、「生い立ち -廣津啓子年譜」と題した、著者の母親による16頁にわたる文章が掲載され、年譜と題しながらも、年譜としての資料でもありながら、大部分は、著者の母親による著者の生涯を辿った追憶の文章で、家族ならではのエピソードもいろいろと紹介され、著者の著作とは別に、著者自身の生身の様子を身近に感じることができる。年譜については、著者の経歴のみならず、著者の死後のことについても、1967年12月12日の死から、主に著作の刊行のことを中心に、1983年までの年譜も掲載されている。

目 次

Note de Vivi No.1 (高校時代)
Note de Vivi No.2(大学1年、2年時代)
Note de Vivi No.2(大学3年、4年時代)

おいたち(廣津啓子年譜)

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