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北陸ゆかりの人物評伝 第7回 「『廣津里香』という生き方」(「生きる読書」所収、群 ようこ 著)
- 2026/10/25
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北陸ゆかりの人物評伝 第7回 「「廣津里香」という生き方」(「生きる読書」所収、群 ようこ 著、角川書店)

「「廣津里香」という生き方」(「生きる読書」所収、群 ようこ 著、角川書店、2000年12月発行)
<著者紹介>群 ようこ(Mure Yoko) (本書発行時、本書著者紹介より)
1954年、東京に生まれる。1976年、日本大学芸術学部文芸科を卒業。広告代理店、商品企画会社、広告制作会社などを経て、1978年、本の雑誌社に入社。退社までの6年間、主に経理を担当し、目黒考二、椎名誠、沢野ひとし氏らと共に仕事をする。『午前零時の玄米パン』で作家デビューし、以降、『無印良女』をはじめとする無印シリーズ、『鞄に本だけつめこんで』『挑む女』『贅沢貧乏のマリア』など著書は多い。無類の動物好き。着物や和物への造詣も深い。現在は三味線のお稽古に励む日々である。(本書発行時、本書著者紹介より)
「生きる読書」(群ようこ 著、角川書店、2000年12月刊行)は、2000年より角川書店が、社会、教養、時事、自己啓発などを一つのテーマを短く整理して、わかりやすく読めるタイプの新書シリーズ「角川Oneテーマ21」をスタートし、A.生きる、B.楽しむ、C.知るの3分類に分け発刊。本書「生きる読書」は、B.楽しむ、の分類に分けられ、2000年12月のシリーズ開始の最初の本で、このシリーズのB分類の2冊目(B-2)にあたり、テーマは「読書」。本書「生きる読書」は、エッセイや小説を幅広く手がけ、軽やかな語り口で日常や人の気持ちを描き長く親しまれている作家で、読書を生きる糧として過ごしてきたという著者・群ようこさんによる、「本」との出会いから始まる、いろいろな話を、数頁から長くても10数頁の発表済みの短篇のエッセイ23編を収録。前半の12編は、「本の旅人」(1999年12月号~2000年11月号)連載の短篇。後半の8編は、日本経済新聞夕刊連載(1998年1月9日~2月27日)の文章。他には、酒井順子著『モノ欲しい女』解説(2000年3月刊集英社文庫)、田辺聖子著『夢渦巻』解説(1997年10月刊集英社文庫)、近藤ようこ著『アネモネ駅』解説(1998年7月青林工藝舎刊)と、他の著者の著作3作収録の解説文章が再録されている。「生きる読書」に収録されている文章で、唯一、これらの短い再収録作品とは異なり、本書の中でも異彩を放っているのが、「『廣津里香』という生き方」と言う文章。この文章だけが、本書のための書き下ろし作品で、本書の中では30頁と、他の収録作品とは違う長めの文章で、軽妙でユーモア交えた文体が特徴の他のエッセイとは文体も異なる印象。
取り上げられている広津里香(本名・広津啓子、1938年2月~1967年12月)は、1938年、東京・渋谷区富ヶ谷町に生まれ、1967年、油絵制作中に再生不良性貧血が悪化し、29歳の若さで、東京都田無市の救急病院で急逝した画家、詩人。1951年、父親が金沢大学工学部教授として金沢赴任に伴い、金沢に転居し、中学・高校時代を金沢で過ごす。1ヶ月間だけ、金沢市立紫錦台中学に転入し、1951年4月、国立金沢大学付属中学2年生に編入試験合格。1953年4月、国立金沢大学付属高校に入学し、1956年3月、金沢大学付属高校を卒業。その後は、1957年に津田塾大中退、1962年に東京大学教育学部社会教育卒。1963年、東京大学新聞研究所卒、1965年に早稲田大学大学院英文学修士課程修了と東京で学業を修め、大学院修了後は、東京の家で詩作、絵画を描くが、創作活動を始めた中学・高校時代を金沢で過ごしたこともあって、石川近代文学館でも石川県ゆかりの文学者として取りあげられている(尚、家族が父親の転勤で金沢を離れるのは、1960年5月6日)。また、広津里香顕彰活動として、広津里香記念 高校生による「創作詩」募集と入賞作品展の活動が、主催・石川近代文学館、共催・石川県立図書館により続けられている。
広津里香は、数多くの日記をはじめ、詩や絵画を残して亡くなるが、1967年12月の没後、遺族により、翌年の1968年12月に「Note de vivi」私家版、1969年12月に「詩画集 量られた太陽」私家版刊行を皮切りに、詩画集『広津里香詩集 量られた太陽』(ポエットリー出版部、1970年12月)、『広津里香詩集』(思潮社、1972年11月)、詩画集『黒いミサ』(思潮社、1975年1月)が刊行され、その後の1977年1月に、手記『死がうつくしいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書』(昭和52年)が、光文社カッパブックスより刊行され、センセーショナルな話題を呼ぶ。その後も、『画帖 黒いミサ』(思潮社、1977年6月)、『詩集 白壁の花』(思潮社、1979年2月)、『画帖 不在証明』(思潮社、1980年11月)、『生への手記』(思潮社、1983年9月)、『不可能な儀式 生への手記』(思潮社、1984年6月)、『死が美しいなんてだれが言った』(潮出版社、1986年4月)、『広津里香詩集 蝶の町』(沖積舎、1987年6月)、『私は優雅な叛逆者 生への手記』(創樹社、1989年2月)、『蝶への変身 生への手記』(創樹社、1990年10月)など、 十数冊の著書が家人の手によって刊行される。本書の本文内での文章でも、廣津里香の年譜が以下のように記載されている。
廣津里香(ひろつ・りか)年譜(*1938年~1967年)<*本書の本文内での紹介より>
1938年:本名・廣津啓子。東京都渋谷区富ヶ谷に生まれる。
1945年:空襲が激しくなり、親類がいる山形県に疎開。終戦後、渋谷区上原町に戻る。
1946年:横浜市鶴見区に転居。
1948年:福岡県久留米市に転居。
1949年:東京都世田谷区等々力町に転居。
1950年:学芸大学附属中学入学。
1951年:金沢市に転居。金沢大学附属中学2年生に編入。作文、絵の才能を教師に認められる。
1953年:金沢大学附属高校入学。
1956年:高校卒業。貧血に要注意と卒業時に高校から注意がある。
1957年:津田塾大学入学。同年中退。
1958年:東京芸術大学建築科を希望するが、母親が彼女に内緒で東京大学と学芸大学英文科に願書を出しておく。芸大受験中に気分が悪くなり途中退出。合格した学芸大学に入学。
1960年:東京大学教育学部社会教育科3年に編入。
1961年:東京大学新聞研究所合格。社会教育科4年、新聞研究所1年となる。
1962年:東京大学教育学部卒業。
1963年:新聞研究所卒業。早稲田大学大学院英文学修士課程合格。
1964年:フルブライト試験に合格するが、依頼していた教授の推薦状の不備で留学できず。
1965年:早大修士課程卒業。早大教育学部の助手の話があったが、募集しないことになり勤務できず。海外留学も実現せずに家にこもって日記、小説類を清書する。
1966年:詩作、水彩画を描きはじめるが、油絵に移行する。アパートを借り、部屋を閉めきって、夜、独学で油絵を描きはじめる。
1967年:体調が悪くなり、外出もしたがらなくなる。両親が心配をして。空気のよい東京の郊外に家を建てることにする。本人が土地を選んで、建築に取りかかるが、工事が遅れ、新築の家に入居することなく、12月12日 再生不良性貧血により逝去。
本文の冒頭で、まず、著者の群ようこさんが、「廣津里香」の本との出会いから書き出している。本文書き下ろしの1年ほど前(1999年前後?)、詩歌にはほとんど興味がないという著者が、ある古書店で、詩歌関係のジャンルの棚で、『私は優雅な反逆者』(創樹社)という本の背のタイトルが目にとまる。作者は廣津里香という女性で、全く彼女について知らなかったが、学生時代の日記のようで、帯には「短い生涯を風のように駆け抜けていった女流詩人の遺書的変身ノート」とあり、著者の写真が冒頭にあって、そこにはお洒落で垢抜けた雰囲気が漂う女の人がいた、あまり関係がないかもと思い、本を棚に戻したのだが、どうもその本が気になり、なんどか手に取りながら、また棚に戻すが、最後にはこの本を買ってきてしまう。家に帰ってから、在庫がある本は注文し、絶版本は古書店で探し、詩集、画集も手に入れてしまう。彼女が残した日記から抜粋して編集された『死が美しいなんてだれが言った』(潮文庫)という署名を見たとき、「ああ、その本の著者だったのか」と気づく。ずいぶん前にこの本が出版されたのは知っていたが、著者の名前も記憶になく、十数年前には、書名だけで読みたい本だとは思わず、興味も持たなかったという。それが十数年経ち、古書店で、別の本の背表紙のタイトルが気になり、本に手に取ってしまってから、廣津里香が非常に気になり、”「廣津里香」という生き方”という文章を書き下ろし、新刊の本に掲載するくらいになるのだから、「本」との偶然の出会いから広がる世界は面白い。
群ようこさんは、廣津里香について、いろんな面から評しているが、”まず、年譜を見ると、とても成績のよい女の人ということがわかる。それなりの頭のいい女性のイメージというのは浮かぶけれども、本に掲載されている彼女の写真を何枚か見て驚いた。1938年生まれではあるが、現代の育ちのよい聡明な女子大生そのものといった、戦前ではなく今の顔立ちをしている女の人だったからだ。1960年代の写真なのに、古臭いといった感じは一切ない。とにかくチャーミングな女性なのである。”と。これは誰もが認める事だと思うが、彼女の文章や詩が非常に鋭く尖っていて、残した日記や詩からは、鋭敏な性格や感受性が強い様子が感じられることからのギャップに驚く。しかも、1938年生まれの女性。”高校、大学入学当時の日記を読んでいると、彼女は人に迎合しないタイプのようだ。多くの友だちからみたら、辛辣な言動もあったのではないかと思う。”と言う。「ただ善良なだけでは、生きてることになりはしない」「生きてるのはまったくの群前でなったのだわ。私の意志は拘わっていない。死ぬのは自由だ。私の自由意志で死ねるのだわ」との著者の言葉も引用し、”若いときはどうしてあんなに死ぬことに憧れてしまうのだろう。私(*群ようこ)も原口統三の「20歳のエチュード」や、高野悦子の「20歳の原点」を読んで、死ぬということがとても美しいような錯覚を起こしていたが、若者特有の浄化されるような気分にひたっていたのかもしれないが、彼女(*廣津里香)が29歳という若さで亡くなったのも、望まないでそうなったのか、望んでそうなったのか、実は複雑な気がしてくる。”と、廣津里香の文章に、死のことを常に意識していたり、時代や周囲や環境や常識などに絶望し虚無的な言葉も見受けられることに反応している。
”フランス語のVIVREにつながる「Vivi」という名前をつけながらも、彼女の日記は生と死の間をゆらいでいる。大嫌いな日本という社会の中では死んでいるけれども、彼女個人は彼女のなかで生きている。社会と関わりあわなければならなくなるとき、彼女は死にあこがれ、それによって自分は生きていけると感じる。周囲の人と同化しようとはせず、共通点よりも違いを見いだしてしまう。しかし彼女は自分が孤独ではないことを自覚していた。”と続く、更に、廣津里香が、金沢大学付属高校の高校2年の時から、もう一人の私としてのViviの日記が綴られる事に対し、”(幼い時に)頭のいい彼女はその場その場で衝突を避ける術を身につけ、怒りを自分の中に抑え込むようになった。しかし思春期になると抑えつけていたものが一気に爆発しかける。そのためにViviのノートが作られたのではないだろか。なれ合い社会の中でいいたいことをいうのは勇気がいる。それで注目を浴びることもあるだろうが、それは彼女の美意識が許さなかった。自分が思う通りに言葉を吐いて、その場の雰囲気をぶちこわすような無粋なことはしない。とにかく彼女には、何をするにも美しくなくてはいけないという美意識があった。相手を攻撃するよりも、自分の身をひいてしまう。しかし攻撃するよりも彼女の怒りは中にこもり、ずっとくすぶり続けていたのだ。”と評している。廣津里香に美意識を感じ取っているが、廣津里香の好き嫌いには、この美意識が強く働いていたことは、彼女の文章を読むと、感じることができる。日記の中では「外国の大学で建築を学びたい、美術建築を。」と語り、「私は個性的な美しさをもってるものが好き」とも語っている。
廣津里香は、「日本人の美は醜、日本人の思想は習慣、日本では言葉は、つみ立て細工のように使われている。お手本があって、見本が充満、おなじようにつみ上げると意味のない雰囲気の交換で、彼らは何か理解したと思いこむ。見本にないものは彼らにとって”存在しないもの”」と、日本、日本人に対し手厳しく、日本を嫌い、日本人を嫌っていていつも疎外感を味わい、忌み嫌っている日本から脱出することを夢見ていたが、そんな”彼女が、海外でどのようなものを見聞きし、それが彼女の人生に影響するのか、私は興味がある。ここが私の生きるべき場所と喜ぶか、それともまた新たな絶望があって、外から日本を眺めて日本のよいところを知るか。彼女は日本嫌いもたしかに理解できるけれども、頭のいい若い女性特有のひとりよがりっぽいところもある。外の世界を知って、それが彼女の気持ちに変化があってもなくても、日本にいるだけのときよりもより幅が出てくるだろう。外に出ても何も考えない人も多いが、彼女の場合だったら、どちらにせよ何段階も成長したに違いない。しかし彼女の願いはうち砕かれてしまった。”と、群ようこさんは述べている。廣津里香の日本嫌いの激しい文章はやはり非常に目につくところで、幼少の時から思春期にかけて形成された感情で、気持ちを理解は出来るが、廣津里香のフランスをはじめとするヨーロッパへの憧れは、「チボー家の人々」の登場人物のジャックへの共感とか、フランス映画や絵画、建築、ファッションなどからの影響も大きいのではと思う。
安保反対デモや加熱する大学紛争が起る1960年の日記には、樺美智子(1937年~1960年6月15日)の安保闘争での死亡事件のことや、浅沼稲次郞(1898年~1960年10月12日)暗殺事件のことが取りあげられている。この頃の1960年8月21日の日記では、”ああ私をどうかして、こんな状態から出して!。。私は終ってしまった。何もかも中途半端のまま。外国で勉強することはできなかった。好きな勉強ももうできない。・・酒や煙草や男の子そんなものも今はだめ。私はそれ以上の何かが欲しい。生活は欲しい。何も私にはききめはないのだ。私からとり上げた私の生命を返し、そして私に世界を”と、今までの日記での文章以上に、焦燥感にあふれ落ち込んだ気分の記述に出くわす。非常に心配となるが、その後は、ヨーロッパの大学での建築を学ぶという希望は実現できずに、日本嫌いなまま、不本意な日々を送っていた様子で、ヒリヒリとした心情の表出の文章をしばしば見つけるはするも、そ
「生きる読書」 CONTENTS
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「廣津里香」という生き方
(優雅な反逆者/死ぬのは自由だ/ 十七歳/ 日本ぎらい/ シタイことしてシタイになる/ いちばんの友だちは自分であるVivi/ ただ死なせて!)
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