南越地域の寺社「二ノ宮神社」(福井県南越前町甲楽城)
南越地域の寺社「二ノ宮神社」(福井県南越前町甲楽城)
(写真下:「二ノ宮神社」(福井県南越前町甲楽城)<*2026年7月31日午前訪問撮影>


1336年5月25日の摂津国湊川(現・神戸市)の戦いに勝利した足利尊氏(1305年~1358年)は、敗走する新田義貞(1300年頃~1338年)を追って、5月29日には足利方が京都を占領し、6月14日には足利尊氏が再入京を果たすが、楠木正成(?~1336年)戦死の報を知った後醍醐天皇(1288年~1339年)は、足利尊氏の再入京以前の5月27日には、新田義貞らと共に既に京から比叡山に脱出し、再び京をめぐり足利方と激戦を展開する。足利尊氏側の圧倒的な攻勢の前に勝利の見込みを失った後醍醐天皇は、足利尊氏の和睦の提案を受け入れ、1336年(延元元年)10月10日、比叡山を下山して入京する。後醍醐天皇を支持し比叡山に拠った勢力は、徹底抗戦派と和平派に分裂分解となり、徹底抗戦派で後醍醐天皇の入京に最後まで反対していた後醍醐天皇側の中核軍の大将である新田義貞は、後醍醐天皇の2人の皇子・恒良親王(1325年~没年不明)と尊良親王(?~1337年3月6日)を奉じて越前に下り、敦賀の気比神宮の大宮司気比弥三郎氏治(?~1337年3月6日)に迎えられ、1336年(延元元年)10月13日、越前国金ヶ崎・天筒山(現・福井県敦賀市)に入城する。
恒良親王は1334年に皇太子に指定されていたが、「太平記」には、1336年10月、後醍醐天皇が比叡山を下山する直前、皇子である恒良親王に三種の神器を譲って受禅の儀が行われ譲位した、と語られ、恒良親王が即位して新天皇になったことが書かれるが、歴史上としては、恒良親王が自身を新帝と認識し綸旨の形式の文書を発給していたということが確認できるだけで、正史では、恒良新天皇は認められていない。比叡山で受禅の儀が行われ、恒良親王が即位し新天皇となり、越前金ヶ崎城で、「白鹿(はくろく)」の年号を称し、束の間の北陸朝廷が誕生したとする見解もある。尚、「太平記」では、後醍醐天皇の講和受け入れと新田義貞の越前下向のいきさつについては、新田義貞に図らずに新田義貞と一族を見捨てるような後醍醐天皇の足利方からの和睦受入に、一番驚いたのが新田義貞で、新田一族の堀口貞満(?~1338年)が涙ながらに後醍醐天皇に抗議し新田義貞の思いを代弁したため、後醍醐天皇はこれに感じて皇太子恒良親王に皇位を譲位し、新帝恒良を新田義貞に託して越前に託して越前に下らせ反攻の時を待つことになったと記されている。
新田義貞の金ヶ崎入城直後、越前国守護・足利高経(斯波高経)(1305年~1367年)率いる北朝方は金ヶ崎城を包囲するが、守りの堅い金ヶ崎城を攻めあぐね、兵糧攻めを行い、翌1337年(延元2年)正月、足利尊氏は高師泰(?~1351年)を大将に各国の守護を援軍として派遣し、1337年1月18日、足利軍の大軍は金ヶ崎城を総攻撃するが、三方を海で囲まれた要害の金ヶ崎城をなかなか落とせず。ただ籠城戦も限界があり、1337年2月には、杣山城の瓜生保(?~1337年2月)が脇屋義助の子・脇屋義治(1323年~?)らとともに、援軍を組織し後方から金ヶ崎城の包囲軍の足利方に攻撃をかけるが、救援に失敗し敗退。新田義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と新田義貞の長男・新田義顕(1318年?~1337年3月6日)らを残し、兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出し杣山城に向かったが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできず。1337年3月3日、足利方の大軍が金ヶ崎城に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、1337年3月6日、金ヶ崎城は落城。尊良親王・新田義顕・気比氏治などは自害。
金ケ崎城落城の直前に、気比氏治の子・気比斉晴(?~1337年3月6日)は、金ヶ崎城の浦の浜手から恒良親王を小舟に乗せ、自らは泳ぎ舟綱を身体に結びつけ脱出し蕪木浦まで渡り、親王を浦人に托し、再び泳ぎ戻って金ヶ崎城兵の傍らで殉死。ただ、金ヶ崎城落城の翌日3月7日は、恒良親王は蕪木浦にて、捕らえられ、北朝足利軍の島津駿河守忠治が迎えに行き、金ヶ崎城に戻された。「太平記」では、その後、恒良親王は京都に護送され、花山院に幽閉され、1338年4月に弟の成良親王と共に毒殺されたと伝えられるが、真偽は不明。「太平記」にいう「蕪木(かぶらき)浦」が、旧河野村(現・南越前町)の甲楽城(かぶらき)で、恒良親王を匿まった場所が、福井県南条郡南越前町甲楽城(かぶらき)にある下長谷の洞窟と伝えられている。この甲楽城の洞窟の背後に絶壁がそそり立ち、その真上に、二ノ宮(にのみや)神社(福井県南越前町甲楽城)が鎮座している。
大正3年(1914年)指定村社になったが、その時の福井県宛申請書類などには、御祭神を後醍醐天皇だけとするも、福井県神社誌によれば、都努我阿羅斯等(つぬがあらしと)・建功狭日命・後醍醐天皇・恒良皇太子、新田義貞の五神とし、また南条郡誌では後醍醐天皇外一神とされている。明治5年(1872年)より二ノ宮神社と改称したと言われる。二ノ宮に改称される以前の社名は定かではないと「河野村誌」(1984年3月発行)には記されているが、甲楽城の人達が恒良親王の冥福を祈って、土地の元の角鹿(つぬが)神社に祀り、御祭神の御一方の都努我阿羅斯等は渡来された神様で、敦賀市の角鹿神社の御祭神でもあり、このお宮に後醍醐天皇や恒良親王をお祀りしたことから、二宮柱(ふたみやばしら)になり、「二ノ宮(にのみや)」の社名が冠せられたとも伝わる。二ノ宮神社末社として境内に鎮座されているのは、蛭子(えびす)神社(恵比須神社)で、御祭神は、往古から漁猟の道を教えられ神徳顕著な神として信奉された事代主命。二ノ宮神社の参道石段は、下長谷の洞窟がある海側の断崖側ではなく、甲楽城地区の集落の中に入ったところにある。
(写真下:「二ノ宮神社」の境内神社(福井県南越前町甲楽城)<*2026年7月31日午前訪問撮影>

(写真下:「二ノ宮神社」の高台の境内から真下に見える日本海(福井県南越前町甲楽城)<*2026年7月31日午前訪問撮影>

(写真下:「二ノ宮神社」の高台の境内から真下に見える日本海(福井県南越前町甲楽城)<*2026年7月31日午前訪問撮影>

(写真下:「二ノ宮神社」の高台の境内から真下に見える日本海(福井県南越前町甲楽城)<*2026年7月31日午前訪問撮影>

(写真下:「二ノ宮神社」の高台の境内から真下に見える日本海(福井県南越前町甲楽城)<*2026年7月31日午前訪問撮影>

藤垣神社(ふじがき じんじゃ)
江戸時代の府中領主本多家の初代富正を祀った神社。富正は、戦国時代に荒れ果てた府中の町並みを整備し、産業を保護奨励し現在の市街地の基礎を築いた人物で、神社には富正ゆかりの刀・鎧などが残されている。
(写真下:「藤垣神社」(福井県越前市本多3丁目)<*2024年10月17日午後訪問撮影>












