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首都圏における北陸ゆかりの地「新田義貞公之像」(分倍河原駅前・東京都府中市片町3丁目)
- 2026/2/22
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- 新田義貞, 分倍河原合戦, 元弘の乱, 上野国新田荘, 上野国生品神社, 武蔵小手指河原の合戦, 武蔵国久米川の合戦
首都圏における北陸ゆかりの地「新田義貞公之像」(分倍河原駅前・東京都府中市片町3丁目)
(写真下:「新田義貞公之像」(東京都府中市片町3丁目)<*2025年9月2日午後訪問撮影>


新田義貞公之像
この像は、分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして創作したものである。「分倍河原合戦」は、元弘3年(1333)5月15日・16日の両日に新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけ分倍河原で火花を散らした天下分け目の合戦である。この合戦で勝利をおさめた新田軍は一気に鎌倉を攻め落とし、遂に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後生に伝えるため、この分倍河原合戦にゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。制作は、我が国彫刻界の重鎮で、文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。 昭和63年(1988年)5月 府中市
新田義貞(1300年頃~1338年)は、元弘3年(1333年)5月の鎌倉攻めに突然登場し、北条高時を権力の頂点とする鎌倉幕府を攻め滅ぼして後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、足利尊氏との対立を深め、その後、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方の室町幕府に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げるまで、越前で南朝方の勢力拡大に奔走する。劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、30数年の生涯の中で、足利尊氏と覇を競い疾駆した5年の後半の約2年間は、越前各地で奮戦し越前で戦死となった北陸・越前と大変ゆかりの深い武将。
新田義貞は、上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の嫡男として生まれ、文保2年(318年)父・朝氏が45歳で死去したことにより、衰退していた新田氏宗家の家督を継ぎ8代当主となる。生年については判然としておらず、暦応元年(1338年)閏7月の戦死の時に37歳~39歳とも言われていて、出生地についても、台源氏と呼ばれた新田氏4代目・政義の館跡といわれる台源氏館跡が新田義貞誕生伝説地となっており「新田義貞卿誕生地之碑」(群馬県太田市由良町)が建立されているが、新田義貞誕生地は、他にも、新田義貞が育った新田郡生品村反町館(大田市新田地区)説をはじめ、世良田新田館(総持寺)説、碓氷郡榛名町里見郷(高崎市榛名地区)説などがある。
鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、鎌倉幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力が争った元弘の乱(1331年~1333年)の渦中で、新田義貞は、河内楠木正成攻めに参加するなど鎌倉幕府側で参戦したものの、1331年3月、河内千早攻囲陣より倒幕の綸旨を得て帰郷。1331年5月8日、新田荘一井郷の上野国生品明神(現・群馬県太田市新田市野井町)に一族と共に鎌倉幕府打倒の挙兵し、鎌倉に向け利根川を渡り鎌倉街道(上ノ道)を一気に南下し(進路についても最初に東山道を西進したのかどうかなど諸説あり)、関東の反鎌倉勢力を糾合して鎌倉に進攻。激戦の末に、1333年5月22日、挙兵後、わずか15日で鎌倉幕府を滅ぼす第一の勲功を立てる。この新田義貞の挙兵から鎌倉攻めの中で、5月11日、決着の着かなかった武蔵小手指河原の合戦(現・埼玉県所沢市北野)、翌5月12日の新田義貞方の勝利となる武蔵国久米川の合戦(現・東京都東村山市諏訪町)に引き続き起こった重要な合戦が、5月15日・16日の武蔵国多摩川河畔の武蔵府中分倍河原の合戦(現・東京都府中市)。鎌倉幕府軍は武蔵国の最後の要塞である多摩川で新田軍を迎え撃つべく、執権・北条高時の同母弟の北条泰家を大将とする総勢15万の大軍を急遽派遣し、5月15日の戦いでは新田軍を敗退させるが、翌16日の戦いで新田軍に敗れ、一方、勝利した新田軍は、そのまま相模・鎌倉に進撃することになる。
JR南武線・京王線の分倍河原駅南口の駅前ロータリーに建つ「新田義貞公之像」の銅像は、この分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして創作されたもので、東京都府中市により、昭和63年(1988年)5月建立。像の制作は、長崎県長崎市出身の彫刻家で、文化功労者・日本芸術院会員で1989年んは文化勲章を受章し、日展理事、理事長も歴任した富永直樹 氏(1913年~2006年)。三洋電機に在籍し、インダストリアルデザインの祖としても活躍された方。題字は、当時の府中市長・吉野和男 氏の揮毫による。この「新田義貞公之像」の新田義貞の顔は鎌倉方面である南を向いて建てられている。また、「分梅河原古戦場碑」は、東京都府中市分梅町2-59-1に建ち、分倍河原駅南口の駅前ロータリーの「新田義貞公之像」の場所からは、約1kmの距離。
(写真下:「新田義貞公之像」がある分倍河原駅南口の駅前ロータリー(東京都府中市片町3丁目)<*2025年9月2日午後訪問撮影>













