北陸関連の図録・資料文献・報告書 第3回 特別展「謙信 越中出馬」図録(富山市郷土博物館 編集・発行)


「謙信 越中出馬」図録(富山市郷土博物館 編集・発行、2017年9月発行)

富山市郷土博物館特別展「謙信  越中出馬」
会期:平成29年(2017年)9月16日(土)~11月12日(日)
会場:富山市郷土博物館(富山市本丸1-62)

本書は、2017年9月16日から11月12日の会期で、富山市郷土博物館で開催された富山市郷土博物館特別展「謙信 越中出馬」の図録。越後の春日山城(新潟県上越市)を本拠とする越後の戦国大名・上杉謙信(1530年~1578年)は、ライバルの武田信玄(1521年~1573年)との1553年から1564年の間に5度の主な戦闘があった川中島の戦いが非常に有名だが、この1553年(天文22年)の信濃(現長野)への出兵(第1次川中島合戦)を皮切りに、その生涯で約30回にも及ぶ、家臣に任せた軍勢の派遣ではなく、自らが出馬した戦いの国外出兵を行っている。これらの中で、13回にわたった関東攻めに次いで多いのが、1560年から1577年までの間、10回にもわたり、自ら兵を率いて越中へ攻め寄せてきたことは、確かに意外に知られていないだろう。

しかも、1569年の第5次越中出馬以降、寵臣の河田長親を魚津城(富山県魚津市)に置き、魚津城代として神通川以東の支配を委ね、「分国」(領土)化を図りはじめ、神通川以東の支配を展開していく中で、1572年に上杉謙信が奉納した願文では、越中も自らの「分国」(領土)であると表明するほど、越中を自らの「分国」とみなすようになり、そして、1576年(天正4年)の第10次越中出馬で、ほぼ越中を支配下におさめてしまう。1572年から1573年の第7次越中出馬では、積雪期の越年で約8か月も越中に在陣していたことにも驚きだ。

1577年(天正5年)に行われた上杉謙信生涯最後の国外出兵も、11回目の越中方面への出馬で、1577年9月15日、ついに七尾城(石川県七尾市)も攻め落とし、9月25日には、奥能登一帯を支配していた松波城(石川県鳳珠郡能登町)の松波義親を自害に追い込み、能登平定を実現。この間の9月23日には、手取川の戦いが加賀の湊川で行われ、柴田勝家率いる織田信長軍に大勝し、敵を越前へ追い払っている。その後、能登支配の名代として重臣の鰺坂長実を七尾城に置き、11月22日には越後の春日山へ戻り、北陸の覇者と呼ぶにふさわしい領土を手に入れ、絶頂期を迎えた上杉謙信であるが、翌1578年(天正6年)3月に急逝してしまい、上杉謙信が獲得した「分国」越中は、その死後数年で織田信長の軍勢によって切り取られていくことになる。

本展覧会では、一般的に、上杉謙信は、義に篤く、自らの野心では決して領土を広げないなど、好意的で人気が高く英雄としてのイメージが強い有力な戦国武将であるが、越中の側からみた上杉謙信は、領土拡張の野心に満ちあふれた侵略者だったのでは?との見方に立ち、上杉謙信にとって越中攻めのねらいとはなんだったのか、富山県内外に伝来する戦国武将上杉謙信ゆかりの諸資料から、激動の渦中に置かれた戦国時代の越中を俯瞰し、「謙信 越中出馬」の実情に迫るというもの。こうした観点から、富山県内だけで49か所にも及ぶ寺社が、上杉謙信軍による兵火を受けた伝承を持ち、その一覧を、写真とともに掲載していて、侵略者としての上杉謙信を語る伝承が、越中で数多く残っている点をしっかりと伝えている。

上杉謙信の越中出馬 (*本図録収録の富山市郷土博物館主任学芸員萩原大輔氏による”総論 越中からみた上杉謙信”より)
第1次 越中出馬(1560年3月~5月)
上杉謙信が越中に初出馬し、富山城(富山市)、増山城(富山県砺波市)に神保長職を攻める。神保長職を富山城から増山城へ追うだけでなく、さらに増山も攻略して、行方知れずにさせる戦果を挙げると、上杉謙信は、ほどなく越後へ引き揚げる
第2次 越中出馬(1562年7月)
上杉謙信が第1次越中出馬を終えてほどなく、神保長職は増山城(富山県砺波市)へ舞い戻り、復権を果たし、武田信玄は、北陸の一向一揆勢力勢力に挙兵を働きかけ、神保氏を援護。このよううな状況のもと、上杉謙信が1562年7月に第2次越中出馬を行い越中に進攻し、神保長職を攻める。越中入りしてまもなく、情勢が優位になったため、上杉謙信はすぐに帰国。
第3次 越中出馬(1562年9月~10月)
上杉謙信が越後に帰国後、1562年9月5日の神通川合戦で、上杉謙信の味方が大敗し、さらに松倉城(富山県魚津市)の椎名康胤も危機に陥ったため、上杉謙信は1562年9月に再び、越中に出馬し、たちまち神保長職を攻め増山城(富山県砺波市)まで追い払う。窮地に立たされた神保長職は、上杉謙信と同盟関係にあった能登の戦国大名・畠山義綱を介して和睦を求め、上杉謙信は和睦を受け入れて越後の春日山へ戻った
第4次 越中出馬(1568年3月~4月)
上杉謙信が、1566年に重臣たちの謀反によって能登国外へ追放された能登の守護・畠山義綱の本国復帰を支援すべく、守山城(富山県高岡市)を攻め取るために、放生津(富山県射水市)まで進んだが、村上城(新潟県村上市)を本拠とする家臣・本庄繁長が武田信玄に通じて反乱を起こした報を受けるという、予期せぬ事情もあり、目立った戦闘もなく、短期間ですぐさま放生津の陣を引き払い越後に帰国。
第5次 越中出馬(1569年8月~10月)
上杉謙信が、椎名氏と一向一揆方の寺島氏(神保長住被官)を討つため、1569年8月に第5次越中出馬に乗り出し、上杉謙信は、椎名康胤を激しく攻め立て、、本拠の松倉城(富山県魚津市)を残すだけのところまで追い詰め、また反上杉謙信方に走った神保氏家臣の寺島職定が守る池田城(富山県中新川郡立山町)も攻め、さらに神通川以西にも進出するが、上杉謙信が越中に出馬している隙を突いて、武田信玄の軍勢が関東の上杉領へ押し寄せてきたため、1569年10月下旬に急遽、越後の春日山へ戻った。
第6次 越中出馬(1571年2月~4月)
上杉謙信が、神保長職が助けを求めてきたこともあるが、1571年2月下旬に越中出馬し、1571年4月までに敵城を10か所余り攻め落としたうえで、武田信玄の動きをけん制すべく、2か月ほどの越中在陣で越後に帰国する。しかし、神保長職は翌1572年頃までに亡くなり、その死を機に神保氏が再び反謙信の姿勢をみせると、上杉謙信は越中を上杉氏の「分国」(領土)であると対外的に表明し始める。
第7次 越中出馬(1572年8月~1573年4月)
上杉謙信が、越中での反上杉方の勢力を掃討すべく、1572年8月に第7次越中出馬。新庄の地(富山市)に陣を構えた上杉謙信は、わずか1里の距離しかない富山城に軍勢を終結させた一向一揆側と対峙することとなった。そこで、富山城の攻略をいったん後回しにして、先に神通川以西の敵方勢力を各個撃破する作戦を探ることとし、まず、進軍してきた加賀一向一揆勢を安養寺御坊(富山県小矢部市)の寺内へ押し込めた後、瀧山城(富山市)に攻めかかり、ここを拠点としていた越中一向一揆勢も打ち破った。翌1573年1月になると、ついに松倉城(富山県魚津市)の椎名康胤が降参を申し入れてきて、これを受けて上杉謙信は、一向一揆勢がなおも抵抗を続ける富山城の周辺に、複数の砦を築いて取り囲み、富山城の孤立を図った上で、越年し約8ヶ月に及んだ越中在陣を終え、1573年4月に越後に帰国。
第8次 越中出馬(1573年8月)
上杉謙信が第7次越中出馬から越後の春日山へ戻ったのと時を同じくして、武田信玄が病没。この報をききつけ、越後に帰国後わずか4か月で、関東攻めに向けて越中情勢を安定させるべく、第8次越中出馬し、一向一揆勢を攻撃。しかし、すぐに加賀一向一揆方が和睦を求めてきたことから、越中に在陣すること数日で、その申し出を受けて越後に帰国。
第9次 越中出馬(1575年7月~8月)
上杉謙信と織田信長は、これまで武田信玄という共通の敵がいたことから、1564年以来、友好を保ってきて、織田信長は上杉謙信に対し、武田信玄の後を継いだ武田勝頼(1546年~1582年)が支配する信濃への出兵を再々求めながら、1575年(天正3年)7月、上杉謙信は織田信長との約束を反故にする形で、信濃ではなく越中へ出馬。これにより両者は完全に断行するに至る。上杉謙信は、第9次越中出馬で、一気に加賀まで群を進めて火を放つなどの攻勢を加えた上で、翌8月には越後の春日山に戻り、その後、すぐに関東へ出陣。一方、機内から北陸へと勢力をのばしつつあった織田信長という敵対勢力の強大化を受けて、1575年末には、上杉謙信は足利義昭の勧めに従い、ライバル武田氏と同盟を結び、更に翌1576年5月編んで②、本願寺門主の顕如ら一向一揆勢とも和睦。

第10次 越中出馬(1576年8月~1577年4月)
上杉謙信は、1576年8月に能登を平定するという意思を足利義昭側近たちへ伝えているが、同月、越中に出馬し、翌9月8日までに拇尾城(富山市)や増山城(富山県砺波市)を占拠した上で、さらに湯山城(富山県氷見市)をも陥落させる勢いで進み、11月28日には、能登の七尾城(石川県七尾市)へも攻め寄せ、ついに越中は、名実ともに謙信「分国」に組み込まれる

10回を超える上杉謙信の越中出馬だが、回数が10回と非常に多いだけでなく、しかも、その味方・敵の対立構造が度々変化していることも、上杉謙信に攻め込まれる複雑な戦国期の越中の特徴だろう。上杉謙信が始めて越中に出馬したのは、1560年(永禄3年)の事で、この頃の越中は、越後と接する越中東部地域は、父祖の代から上杉謙信と同盟を結ぶ松倉城(富山県魚津市)を拠点とする椎名康胤が支配し、越中の中部地域は、富山城(富山市)を本拠とする神保長職の勢力圏で、この椎名氏と神保氏という越中の戦国大名同士が激しく争っていた。更に越中の西部地域は、瑞泉寺や勝興寺(安養寺御坊)をはじめとする越中一向一揆の影響下にあるエリアで、尾山御坊(金沢御堂、石川県金沢市)を本拠とする加賀一向一揆と強く結びついているという、3つの大別した諸勢力が外部の強大な勢力とそれぞれ結びついて競合する状況。

まず、上杉謙信の最初の越中出馬となる1560年当時の越中は、東部の椎名氏と中部の神保氏との間で、1559年の夏ごろから抗争が激しくなり、神保氏は、武田信玄と手を組み、椎名氏を徐々に追い詰めていったため、上杉謙信は、椎名氏を助ける出陣と称して、越中に攻め込み、これをうけて武田信玄は、北陸の一向一揆勢力に挙兵を働きかけ、神保氏を援護。越中国内に「上杉謙信・椎名康胤 vs 武田信玄・神保長職・一向一揆」という対立構図が出現し、1562年、第2次、第3次と、2度の越中出馬となる。

ところが、越中で敵対してきた上杉謙信と神保長職は、両者は、ともに、内乱によって国外へ追放された能登畠山氏の当主義綱(生年不詳~1593年)を支援したことがきっかけで、1568年(永禄11年)までに和睦し同盟を結ぶことになり、これに対し、これまで上杉謙信と同盟関係にあり、ともに神保長職と戦ってきた椎名康胤は武田信玄方に転じることになり、越中における対立軸は、「上杉謙信・神保長職 vs 武田信玄・椎名康胤・一向一揆」へと変化する。

第7次越中出馬の期間に1573年1月には、松倉城(富山県魚津市)の椎名康胤が上杉謙信に降伏し、更に1573年(天正元年)に武田信玄が病没すると、越中では上杉謙信方がさらに優勢となるが、今度は、これまで武田信玄という共通の敵がいたことから、1564年(永禄7年)以来、友好を保ってきた上杉謙信と織田信長の関係に変化が生まれ、両者は完全に断行するに至り、一方、機内から北陸へと勢力をのばしつつあった織田信長という敵対勢力の強大化を受けて、1575年末には、上杉謙信は足利義昭の勧めに従い、ライバル武田氏と同盟を結び、更に翌1576年5月編んで②、本願寺門主の顕如ら一向一揆勢とも和睦。こうして、対立関係は、「上杉謙信・一向一揆 vs 織田信長」へと大きく変容する。

この展覧会テーマとなる上杉謙信とその好敵手たちのプロフィールも本図録に掲載されているが、上杉謙信、武田信玄、武田勝頼、織田信長といったの外の有力戦国大名に加え、椎名康胤(しいな・やすたね、生年不詳~1573年)と神保長職(じんぼ・ながもと、生年不詳~1572年頃)という2人の越中の戦国武将に越中の一向一揆勢という、上杉謙信に向き合う越中の諸勢力の動向も非常に興味深い。

尚、本図録で度々言及される越中の戦跡地については、巻末に、”謙信 越中戦跡地マップ”として、地図やカラー写真掲載で、増山城跡(富山県砺波市)、守山城跡(富山県高岡市)、松倉城跡(富山県魚津市)、池田城跡(富山県中新川郡立山町)、湯山(森寺)城跡(富山県氷見市)、新庄城跡(富山県富山市)、日宮城跡(富山県射水市)、安養寺御坊跡(富山県小矢部市)、滝山(富崎)城跡(富山県富山市)、拇尾城跡(富山県富山市)と、10か所がまとめて紹介されている。

目次
ごあいさつ
目次
凡例
総論 越中からみた上杉謙信
本展のキーパーソン ー謙信とその好敵手たちのプロフィール
第1部 謙信 VS 信玄
第2部 謙信 VS 一向一揆
第3部 謙信 VS 信長
おわりに 「謙信 越中出馬」その後
資料解説
「謙信  越中出馬」関係年表
上杉謙信軍の兵火を受けた伝承が残る富山県内の寺社
展示資料一覧
主要参考文献
謝辞

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