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北陸ゆかりの人物評伝 第4回 「山本条太郎」(山本条太郎 著)
北陸ゆかりの人物評伝 第4回 「山本条太郎」(山本 条太郎 著)

「山本条太郎」(山本条太郎 著、図書出版社 <経済人叢書>、1990年7月発行)
本書は、一小僧から身を起こして、上海を拠点に中国大陸での貿易・事業を開拓し三井物産の重役に上り詰めるも、海軍事件に巻き込まれ連座し下獄と大きな挫折を味わい、再び運命を開拓し、かえって自由にその才幹と力量とを発揮し、事業界に、更に政界に進出し、一時は満鉄総裁となり満州開拓に尽力し満鉄中興の祖と言われ、財界、政界の両方面に事業家、政治家として目覚ましい活躍を続けた山本条太郎(1867年(慶応3年)~1936年(昭和11年)3月25日)についての自叙伝。福井藩松平家に仕える微禄の武士・山本条悦の長男として慶應3年(1867年)10月11日に福井城下御駕町に生まれ、5歳で福井を離れ家族と共に入京、その後、叔父の吉田健三(福井藩士渡辺謙七の子で吉田茂の養親)の紹介で三井物産に小僧として働き始めるが、生い立ち・幼少期から、享年68歳で亡くなるまでの全生涯の事蹟について、全21章に分けて叙述。その他に、補遺が付け加えられている。本書の最初の章は「その家庭」と題し、実父・山本条悦のことや、福井での幼少期の事が書かれている。実父・条悦は越前南条郡王子保村の池田猪右衛門の第3子で、嘉永5年(1852年)13歳の時に吉田家の養子となり、同年、更に山本家の養子になっている。
山本条太郎が1936年(昭和11年)3月25日逝去後、故人の印象も生々しいうちにと、山本条太郎の側近として山本条太郎に深く薫育を受け日本財界の重鎮として活躍した実業家・原 安三郎氏(1884年~1982年)により、直ちに290余人の故人を知る人々にお願いして、昭和11年(1936年)9月5日発行の「山本条太郎翁追憶録」(編輯兼発行者:原安三郎、非売品、印刷所:三秀舎)追憶録が纏められた。そして、これを基礎にして、伝記山本条太郎が編まれ、別に論策集2巻が公刊となる。まず、論策集が昭和14年(1939年)8月25日に「山本条太郎 論策一・二」2巻が発行(発行者:原安三郎、発行所:山本条太郎翁伝記編纂会、印刷所:三秀舎、非売品)。続いて「山本条太郎 伝記」が昭和17年(1942年)3月25日に約1千頁にも及ぶ大冊で刊行(山本条太郎翁伝記編纂会 編、非売品)。その後、1960年、山本条太郎の銅像及び生誕記念碑が、生地福井市に建立された時に、既に戦前に発表された伝記、追憶録の中から抜粋して、中学、高校程度の若い人たちのための小伝を、原安三郎氏が百頁余りの頁数で刊行。1965年8月には、出版社・時事通信社から、裸一貫から事業を築き上げた人びとを取り上げる「一業一人伝」シリーズの一冊として、既に発表された大部の伝記の中より、若い時代に重点を置き編集し頁数は約250頁にまとめたた伝記「山本丈太郎」(原 安三郎 著、1965年8月発行)が発売された。尚、最初の「山本条太郎 伝記」は、1982年8月に、原書房より「山本条太郎 論策2巻とともに、明治百年史叢書シリーズとして復刻刊行(伝記は、958頁。年譜14頁)となる。
更に、山本条太郎伝記は、図書出版社より1990年7月に、経済人叢書シリーズとして、最初の「山本条太郎 伝記」復刻版958頁の内容を、448頁に圧縮して刊行されるが、それが本書。”現代の企業人に生涯を賭けて守るべき一燈はあるか 明治・大正・昭和三代の経済人の生き方を通じてそれを問う”として、図書出版社創業20周年記念出版として「経済人叢書 全10巻」(監修・小島直記)が企画刊行され、その一巻に、山本条太郎が選ばれている。尚、図書出版社の「経済人叢書 全10巻」シリーズの監修は、経済人などの伝記小説で知られる作家・小島直記(1919年~2008年)氏で、小島直記 氏の著書には、「小説 三井物産」(単行本は、講談社より1969年1月発行。文庫本は、講談社より講談社文庫として上下2冊で、1982年1月発行)があるが、この本の前半部は、1876年7月に三井物産を創設しその責任者となった益田孝(1848年~1938年)を中心に、後半部は、山本条太郎が中心に描かれている。
本書は全21章のうち、第3章「三井物産会社に入る」から、第13章「三井物産の重役」第14章「海軍事件」までの12章が、前半生の三井物産時代。68年の生涯の中で、1881年秋、14歳で小僧として三井物産横浜支店で働き始め、1914年4月に常務取締役を辞任し退社する約32年半の三井物産在勤時代(1881年秋~1914年4月)にあたる。注目すべき最初の点は、まず創始期の三井物産に入社するのは14歳で横浜支店に小僧としての入社だったこと。そこから、スケールが大きく豪快な野性味のある突出した企業人に駆け上がるストーリーも非常に痛快で、三井物産時代の才気あふれる活躍が、いろんな関係者の人たちの詳細な回想とあわせ、活写されている。順風満帆だった三井物産重役を不本意な形で突然辞めることになる転機が、1914年(大正3年)、シーメンス事件。このシーメンス事件に連座し下獄と一般に紹介されることが多いが、山本条太郎が巻き込まれた金剛艦事件は、汚職事件たるシーメンス事件とは全く別物で事件の性質も大きく異なり、また長州閥陸軍の大御所山県有朋元帥が薩摩閥海軍の頭領山本権兵衛大将の失脚を狙った陰謀のすり替え事件。しかも、三井物産の常務取締役の分掌でも、海軍関係は別の常務担当で、山本条太郎は、金剛鑑関連の協議にも一切関与していなかったが、不手際もあり疑惑の目を向けられ、1914年3月、取り調べを受け翌4月、金剛事件予審終結し、同月、山本条太郎は三井物産を辞任。シーメンス事件にまつわる災禍に見舞われ、1914年7月、第一審判決で懲役1年6カ月を宣せられ、翌1915年4月、控訴審判決で量刑は一審判決同様で執行猶予4年となり、翌1915年3月、特赦の恩典に浴している。
山本条太郎の生涯は、この海軍事件(金剛艦事件)を境として大きく前半生、後半生と分けることができ、その後半生については、本書の第15章「事業報告」第16章「政界へ進出」第17章「満鉄総裁時代」第18章「満鉄総裁としての業績」第19章「政界の巨頭」第20章「挙国一致・政党の再生」と続き、第21章「晩年・巨星ついに隕つ」までの7章で詳述されている。大正3年(1914年)三井物産を辞して後、経世的事業家として再出発し、その後、事業家として多種多様な事業経営に関わりながら、大正9年(1920年)に政界へ進出。政界進出後、早くから国策研究に努め、1927年(昭和2年)4月には、政友会総裁の田中義一内閣が成立し政友会幹事長に就任。1930年(昭和5年)5月、民政党の浜口雄幸内閣時代の野党の犬養毅政友会総裁のもとで政友会の政務調査会長に就任。満鉄総裁を辞任した後、「経済国策の提唱」を始め国策樹立のリーダーとして中央政界でも活躍。軍部独裁の動きが進む五・一五事件後は、政友会・民政党の政民連携の実現に奔走するなど、政党政治の擁護に努めている。「満鉄中興の祖」と言われる満鉄総裁時代(1927年7月~1929年8月)の山本条太郎の華々しい活躍も見落とせない。
生い立ち・幼少期から、享年68歳で亡くなるまでの山本条太郎の全生涯の事蹟について、本書では、全21章に分けて叙述されているが、その他に、補遺が付け加えられている。「補遺」では、「郷土と家庭」「趣味と娯楽」「真に巨人」と3節に分け、補足が付け加えられている。「郷土と家庭」の節では、わずか6歳で一家をあげて郷里・福井を離れた山本条太郎の郷土愛の精神から郷国の開発進歩のために大いに力を尽くしたことが紹介されている。福井での電力事業、繊維事業など様々な事業経営に関わっているが、郷土関係で山本条太郎が尽力した最初の仕事が、福井県坂井郡高椋村字長崎(現・坂井市丸岡町長崎)の称念寺の復興とは驚いた。新田義貞公の遺骸を埋葬した霊蹟ながら、明治維新の際、廃仏毀釈の影響でいたく荒廃していたとのこと。福井県の各種学校を始め教育事業、社会事業、神社、仏閣等への多額の寄付。「趣味と娯楽」では釣魚と銃猟に入れ込み、将棋も好んだようだ。「真に巨人」の節では、(1)全く自成の人で、常に勇猛邁進、機に臨み境に応じて自己を錬成した結果で、自成自造の好典型というべき(2)徹頭徹尾国家本位の見地に立って終始した人。終始我が国力の発展を念とし、国家本位に活動。(3)度量大きく、温情に富んだ人で、天性霊慧俊敏であり、独創力に富み、先見洞察の力が鋭く、精力絶倫、実行に果敢なる一面、極めて思慮周密で、スケールの大きい包容力に富んだ人、と山本条太郎の才能と魅力について、最後にまとめの補足文章で本書伝記を終えている。
尚、本書伝記には、巻末に、八尋俊邦 氏(三井物産相談役)による解説「企業を超えた視野」が掲載されている。八尋俊邦 氏(1915年~2001年)は、三井物産社長(在任1979年~1985年)、三井物産会長(在任1985年~1989年)を務め、イラン革命及びイラン・イラク戦争により暗礁に乗り上げたイランジャパン石油化学(IJPC)の精算処理にあたった経営者としても知られるが、「わが三井物産の大先達である山本条太郎さんの生涯とその事蹟は、われわれ後進にとって今日、どのような意味を持っているのであろうか。」と書き出している。山本条太郎の生涯をたどると、まず目につくのが、齢48にして金剛事件に連座し、下獄の憂き目を見たことで、山本条太郎の生涯の蹉跌といってもよい事件。「この人生の試練、一代挫折を、どう受け止め、どう乗り越えたのか。そこが私のもっとも関心を抱くところである」として、挫折を契機に自らの人生の新しい局面に挑戦することができるかという点に力点を置いている。加えて、山本条太郎の生涯を痛感して注目しているのは、その時代を見る眼の確かだったことで、三井物産時代も政界に転身して後も、時代の動向を実に正確に見究めている、と高く評価し、その大切さを強調している。
目次
その家庭
厳父条悦翁/ 幼時の条坊
東京転居及び少年時代
明治維新と山本家の上京/ 慈母を喪う・宏仏海氏夫妻/ 共立学校に学ぶ
三井物産会社に入る
明治初期の三井物産/ 横浜支店の条どん/ 支店長馬越恭平翁/
三井物産東京本社に遷る
本店における条少年/ 人一倍の努力と慧敏/ 嚢中の錐/ 才気ますます露わる/ 意外の鉄槌
頼朝丸に乗組
船長と機関長との感化/ 充実せる海上生活
上海前期
上海生活20年/ 当時の上海・翁の勤務/ 上田支店長/ 三井物産の発展と翁の活動
満州一番乗り
満州唯一の日本人/ 大豆豆粕商売と翁/ 三度目の営口入り
日清戦役と翁の活躍
開戦に当たりて/ 新占領地へ出発/ 貴重な視察報告
上海支店副支配人
再び戦後の上海へ/ 上海紡織会社支配人/ 上海支店に復帰/ 買弁の廃止/ 船繰りの名手/ 部下の見た山本翁
大阪支店時代
大阪支店次長・結婚/ 棉花糸首部長としての努力/ 紡績会社の合同/ 欧米視察/ 参事から参事長へ
上海支店長時代
日清戦役後の東亜の形勢/ 上海支店長/ 支那人に日本を知らしむ/ 在華紡績の基礎とその発展/ 揚子江流域に商業圏拡大
総監督時代
三井物産の重役
海軍事件
事業報国
政界へ進出
満鉄総裁時代
満鉄総裁としての業績
政界の巨頭
挙国一致・政党の更生
晩年・巨星ついに隕石つ
補遺
解説 企業を超えた視野 三井物産相談役・八尋 俊邦
山本条太郎 年譜
・慶応3年(1867):(数え年1歳)
10月11日、福井市松ヶ枝下町に生まる。12月、父条悦小算格を仰付らる。10石2人扶持。
・明治元年(1868):(数え年2歳)
この年、叔父吉田健三、外国より帰朝。
・明治2年(1869):(数え年3歳)
11月、父条悦小算格を秘免、家従附属申付らる。
・明治4年(1871):(数え年5歳)
2月、父条悦藩主松平茂昭に従い上京。5月、再び藩主と福井へ還る。
・明治5年(1872):(数え年6歳)
2月、松平家より山本家へ東京転任の内命。5月、父条悦改名し武。8月、山本家入京、松平家邸内に住居。父武、松平家家従となる。
・明治6年(1873):(数え年7歳)
2月、妹さく生まる。
・明治8年(1875):(数え年9歳)
4月、松平家に伴い山本家浅草今戸に移る。8月、母みつ病歿、当分父子別居
・明治9年(1876):(数え年10歳)
この年、父武後妻てるを迎え、一家再び集まる。
・明治10年(1877):(数え年11歳)
1月、松平家に伴い、小石川水道町安藤坂に転居。
・明治11年(1878):(数え年12歳)
10月、礫川小学校上等第2級前期修業
・明治12年(1879):(数え年13歳)
10月、礫川小学校高等1級前期修業
・明治13年(1880):(数え年14歳)
3月、共立学校入学。9月、弟章雄生まる。
・明治14年(1881):(数え年15歳)
この冬、肋膜炎を患う。この秋、三井物産横浜支店に入る。月給1円50銭
・明治15年(1882):(数え年16歳)
12月、三井物産東京本店に転勤。この年、叔父吉田健三絵入自由新聞創刊
・明治16年(1883):(数え年17歳)
この秋、千葉県小見川に出張、米買付に殊勲。12月、手代見習席に昇進、月給4円50銭。
・明治17年(1884):(数え年18歳)
12月、月給5円50銭。
・明治18年(1885):(数え年19歳)
2月、3等手代に昇進、月給8円。
・明治19年(1886):(数え年20歳)
8月、馬越恭平に随行、北海道視察行に加わる。12月、頼朝丸乗船、月手当20円支給。
・明治20年(1887):(数え年21歳)
この年、鉱山局の命により北清及び開平炭鉱視察。
・明治21年(1888):(数え年22歳)
3月、三井物産上海支店に勤務(支店長は上田安三郎)
・明治22年(1889):(数え年23歳)
6月、手代2等席に昇進。10月、頼朝丸ゴール船長歿。12月、月給30円、叔父吉田健三歿、一時上海より帰国
・明治24年(1891):(数え年25歳)
この夏、単身営口に入る。10月、手代1等席に昇進。12月、上海支店在勤中の月給35円。
・明治25年(1892):(数え年26歳)
4月、上田上海支店長本店転出(後任小室三吉)。11月、商用に付一時帰朝。12月、上海支店在勤中別に月手当5円。
・明治26年(1893):(数え年27歳)
2月、番頭3等に昇進。4月、厦門、汕頭、香港、牛荘に出張。9月、月給50円、手当10円。この年、無錫にて繭買付。
・明治27年(1894):(数え年28歳)
6月、臨時上海支店長代理。9月、本店詰。10月、朝鮮京城及び平壌地方商況視察。
・明治28年(1895):(数え年29歳)
1月、占領地へ出張。6月、再び上海支店詰。9月、営口詰。12月、月給80円上海紡績会社支配人
・明治29年(1896):(数え年30歳)
4月、上海紡績支配人を罷め上海支店復職。4月~5月、益田孝と支那巡視。7月、月給100円。
・明治30年(1897):(数え年31歳)
8月、月給150円。10月、参事に昇進、大坂支店に転じ棉花絲首部長。月給169円。
・明治31年(1898):(数え年32歳)
6月、原操子と結婚。12月、月給225円。
・明治32年(1899):(数え年33歳)
12月、月給300円。この年、三井物産支那修業生制度を設く。
・明治33年(1900):(数え年34歳)
3月、横浜出航渡米。5月、三井物産守山事件の処理。11月、帰朝、三井物産本店参事。
・明治34年(1901):(数え年35歳)
3月、参事長に昇進。9月、上海支店長、月給350円。
・明治35年(1902):(数え年36歳)
5月、漢口に出張員派遣、京漢線に枕木納入。この夏、興泰紗廠買収。12月、香港政庁に上海紡織会社を登記。
・明治36年(1903):(数え年37歳)
この秋、北海道に木材視察。12月、月給400円。この年、商務印書館を経営。
・明治37年(1904):(数え年38歳)
1月、父武歿。8月、三井の談話会で対支意見開陳。この秋、四川路上海支店新築竣工。11月、理事心得に昇進。
・明治38年(1905):(数え年39歳)
5月、バルチック艦隊の動向偵察。12月、清国総監督就任(支店長後任に藤瀬政次郎)
・明治39年(1906):(数え年40歳)
4月、勲六等単光旭日章を授かる。6月、理事に昇進。上海勤務如故。11月、満州出張、物産各出張所視察。
・明治40年(1907):(数え年41歳)
7月、月給500円。
・明治41年(1908):(数え年42歳)
1月、東京本店理事に昇進。4月、北清に出張。7月、堺セルロイド会社取締役。赤坂新坂町に移邸
・明治42年(1909):(数え年43歳)
7月、北海道に出張。8月、東亜興業会社取締役。10月、三井物産常務取締役。
・明治43年(1910):(数え年44歳)
8月、肺炎を患う。11月まで沼津で療養。このt氏、薬丸金山を経営、日本硫黄の経営に参加
・明治44年(1911):(数え年45歳)
1月、長男武太郎生まる。9月、門司の石炭会議に出張。
・大正元年(1912):(数え年46歳)
1月、中国革命政府に3百万円借款に応ず。
・大正2年(1913):(数え年47歳)
8月、中国興業(後の中日実業)会社相談役。
・大正3年(1914):(数え年48歳)
3月、岩原常務を始め金剛事件で取調べを受く。4月、金剛事件予審終結、三井物産辞任。7月、第一審判決。この年、朝鮮陵洞タングステン鉱山経営に着手。
・大正4年(1915):(数え年49歳)
4月、控訴審判決、執行猶予。この年、大洋汽船会社設立。
・大正5年(1916):(数え年50歳)
3月、特赦の恩典に浴す。6月、日本火薬製造会社設立相談役。10月、野州鉱山会社設立相談役。
・大正6年(1917):(数え年51歳)
5月、満州製麻会社設立相談役。6月、大日本炭鉱会社設立相談役。8月、北陸電化会社設立社長。11月、朝鮮紡織会社設立取締役後社長。
・大正7年(1918):(数え年52歳)
1月、化学工業協会評議員。10月、内外鉱業会社設立相談役。この年、東露通商公司設立。
・大正8年(1919):(数え年53歳)
5月、朝鮮生糸会社設立取締役。10月、日本水力会社設立社長。12月、日支紡織会社設立社長。
・大正9年(1920):(数え年54歳)
1月、梁瀬自動車会社設立相談役。5月、福井市より衆院議員に当選。6月、政友会同志と二七会を作る。この年、帝国蚕絲会社設立、蚕絲業救済に尽力。
・大正10年(1921):(数え年55歳)
2月、大同電力会社設立取締役。3月、不当廉売審査会委員。11月、北陸電化、大同肥料と改称、社長。
・大正11年(1922):(数え年56歳)
3月、食糧配給設備に関する建議案上提可決。7月、鉄道会議(鉄道省)議員。
・大正12年(1923):(数え年57歳)
3月、関東紡績会社経営に参画。4月、政友会臨時政務調査会副会長。8月、高橋是清、野田卯太郎と軽井沢別荘に清遊。この年、山東鉱業会社経営に尽力。
・大正13年(1924):(数え年58歳)
1月、床次派による分裂起こるも政友会に留る。政友会福井県支部長。5月、衆院議員に当選(第2回)。6月、東洋紡績会社監査役、同興紡績会社監査役。この年、政友会行政整理特別委員長、有志議員と談話会作る。
・大正14年(1925):(数え年59歳)
2月、独逸よりシュナイダース博士を招く。3月、政友会総務。5月、第二京浜電力会社設立取締役
・昭和元年(1926):(数え年60歳)
2月、関税定率法改正特別委員。7月、江ノ島電気鉄道会社設立相談役。11月、森永製菓会社取締役。12月、昭和電力会社設立顧問。
・昭和2年(1927):(数え年61歳)
2月、政友会代表として支那政情視察。4月、政友会幹事長。5月、川崎造船所救済問題に尽力。7月、南満州鉄道会社社長。10月、北京で張作霖と会見、五鉄道協約結ぶ。
・昭和3年(1928):(数え年62歳)
1月、満鉄新規事業計画決定。2月、衆院議員に当選(第3回)。4月、石炭液化研究を海軍に委嘱。11月、張学良と奉天で会見。
・昭和4年(1929):(数え年63歳)
1月、鉄鋼一貫作業計画を決定。7月、昭和製鋼所(新義州案)設立を登記。8月、満鉄総裁を辞任。この秋、急性腎臓炎、『経済国策の提唱』の著述に着手。
・昭和5年(1930):(数え年64歳)
2月、福井県より衆院議員に当選。5月、政友会政務調査会長。8月、『経済国策の提唱』刊行。9月、政友会臨時大会、新経済政策要綱を決定。
・昭和6年(1931):(数え年65歳)
2月、日本針布会社設立。4月、政友会政調会で十大政綱発表。8月、山川製薬会社設立相談役。11月、政友会党議で金輸出再禁を決議。
・昭和7年(1932):(数え年66歳)
1月、伊豆天城金山(現在の中外鉱業株式会社持越鉱業所)買収。2月、無投票で衆議院議員(第5回)。4月、満鉄総裁再任を辞す。東大病院入院手術。
・昭和8年(1933):(数え年67歳)
3月、朝鮮九峰金山、橋洞金山を買収経営。6月、望月圭介と共に政友会強硬自重両派を調停。8月、政友会主脳会議で政策大綱決定。
・昭和9年(1934):(数え年68歳)
2月、政友会総務会で政党の政策協定を主唱。5月、政民両党の政策協定交渉に尽力。10月、食道に異常感ず。11月、政民両党連携覚書を発表。
・昭和10年(1935):(数え年69歳)
4月、康楽病院でラジウム治療。10月、再び食堂狭窄を患う。12月、貴族院議員に勅選。
・昭和11年(1936):(数え年70歳)
1月、病状悪化。3月25日、逝去。












