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北陸関連の図録・資料文献・報告書 第12回 富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ー 古文書から浮かび上がる戦国時代」(編集・発行: 富山市郷土博物館 )
北陸関連の図録・資料文献・報告書 第12回 富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ー 古文書から浮かび上がる戦国時代」(編集・発行: 富山市郷土博物館 )
富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ー古文書から浮かび上がる戦国時代 ー 」(編集・発行:富山市郷土博物館、2021年10月発行)
富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ~古文書から浮かび上がる戦国時代~ 」
主催:富山市郷土博物館
会期:令和3年(2021年)10月30日(土)~12月12日(日)
会場:富山市郷土博物館(富山県富山市本丸1-62)
本書は、令和3年(2021年)10月30日(土)~12月12日(日)までを会期として、富山市郷土博物館(富山県富山市本丸)にて開催された富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ~古文書から浮かび上がる戦国時代~ 」(主催:富山市郷土博物館)の図録で、編集・発行は、富山市郷土博物館で、2021年10月発行。佐々成政(1536年?~1588年)は、富山城を本拠として、織田政権下で約4年半にわたって越中国を統治し、天正13年(1585年)秀吉に降伏後も、越中国新川郡は所領として残り、天正15年(1587年)に肥後国主に任ぜられれて越中国新川郡の統治から離れるまでの天正9年(1581年)からの約7年間、越中国の統治に関わった富山と大変ゆかりの深い戦国武将。
富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ~古文書から浮かび上がる戦国時代~ 」では、佐々成政が発した私信だけではなく、領地を与えたり権利を認めたりする公的な文書など、様々な書状類を「佐々成政の手紙」として幅広く取り上げ。富山市郷土博物館では、案文や後年の写し等も含め、これまで70点余りに及ぶ「佐々成政の手紙」を確認し、本図録の中で、「佐々成政発給文書一覧」として、これまでに把握できた「佐々成政の手紙」全78点の情報を収集・整理して一覧化されているだけでなく、「成政遺文」と題して付録の形で掲載している。このうちの展覧会での実物展示された「佐々成政の手紙」23点をはじめとする展示資料については、本図録で、それぞれについて詳細な解説が付されている。
今回、合計23点の全国に点在する「佐々成政の手紙」が実物展示となり、ほぼ時代順に、①「府中三人衆時代の手紙」、②「越前衆時代の手紙」、③「越中国主時代(越中平定以前)の手紙」、④「越中国主時代(越中平定以後)の手紙」、⑤肥後国主時代の手紙と、5つの時代区分に分けて展示解説。織田信長旗下としての動静、家臣に細かな指示を与える様子、神仏に加護を祈る姿など、様々な人物像が浮かび上がり、また、用いられた花押や印の変化をたどることで、佐々成政に訪れた転機を捉えることもできるという。尚、本書図録の表紙にある花押は、縦長の非常に個性的なものだが、最初の府中三人衆時代は、縦長ではなく、越前衆時代や越中国守時代が、この非常に縦長の花押で、肥後国主時代となると、全く異なる花押となっている。
佐々成政(1536年?~1588年)は、天文5年(1536)尾張国の比良城主・佐々成宗(盛政)の第5子、3男として、尾張比良に生れる(生年については、天文8年(1539年)説、永正13年(1516年)説もある)。織田信長の父・信秀に仕えていた成政の兄・政次(成吉・隼人正)、孫助(成経)は天文21年(1552年)信秀病死後、信長に仕え、成政は信長の小姓となる。織田信長の小姓、近侍となって仕えていた成政は、兄たちが相次いで討ち死にしたため、永禄3年(1560年)、家督を継いで比良城主となり、馬廻衆となる。永禄12年(1569年)頃までに、織田信長直属の親衛隊「黒母衣衆」の筆頭に任じられる。天正3年(1575年)の越前入国前までは、織田信長による近江国の浅井長政攻め、三好三人衆攻め、浅井長政・朝倉義景連合軍攻め、伊勢国の長島一向一揆攻めなどに従い、天正3年(1575年)には、織田信長による武田勝頼攻めに従い、長篠の戦いで、鉄砲奉行として活躍。天正3年(1575年)の越前入国し、府中三人衆・越前衆として小丸城に本拠を構え織田信長の全国統一に向けた戦いで、各地に転戦する。
佐々成政の手紙の初見は、天正3年(1575)10月頃のものから確認でき、府中城(福井県越前市)の前田利家、龍門寺城(福井県越前市)とともに小丸城(福井県越前市)を拠点とした佐々成政の府中三人衆が、織田信長より越前府中近県の2郡を共同で治めるよう命じられるとともに、柴田勝家の目付役に任じられ、越前国支配に関わり始めて間もない頃で、初期の成政文書の大半は府中三人衆連署状が占めている。府中三人衆は、主君信長の命令を管轄内の寺社や武士たちへ伝達するとともに、商人たちに対する諸役の免除など、行政文書を3人の連名で発していて、越前国高瀬(現・福井県越前市)の宝円寺、大滝神社(福井県越前市)周辺の紙屋、剣神社(福井県越前町)の神宮寺である織田寺や、もともと越前朝倉氏の家臣で織田信長の越前平定後に織田家臣になっていた赤座氏に宛てた府中三人衆連署状が、①「府中三人衆時代の手紙」の中で取り上げられている。
佐々成政は、天正3年(1575年)9月頃より小丸城(福井県越前市五分市町)に本拠を構え、越前府中近辺2郡の統治にあたる一方、主君・織田信長が推し進める領土拡張戦にも身を投じ、佐々成政のほか、前田利家、不破光治、金森長近、原政茂(原長頼)ら、越前国内に所領を与えられた武将たちは、柴田勝家の軍事指揮下に入り、この5名の武将たちは、織田信長雲の中で「越前衆」という名で編成され、遊撃隊的な役割を担っていくが、この時期に出された佐々成政の手紙が、②「越前衆時代の手紙」で紹介。佐々成政たち越前衆は、天正5年(1577年)に加賀国(石川県南部)へ出陣し上杉謙信軍と戦い、翌6年(1578年)から7年(1579年)にかけては荒木村重攻めのために摂津国(大阪府北西部、兵庫県南東部)・播磨国(兵庫県南西部)へ転じ、天正8年(1580年)には加賀一向一揆を滅ぼすべく再び加賀国へ進攻するなど、諸国をめまぐるしく転戦。この時期に出された佐々成政の手紙は、軍事的な内容のものが目立つとの事。佐々成政が単独で署名し、その花押は府中三人衆時代の時よりも少し縦長になっている。
天正9年(1581年)2月、佐々成政は越前国内2郡の支配から離れ、主君織田信長から越中新川、礪波の両郡を与えられ越中国の支配権を委ねられるとともに、越後国の上杉景勝攻めの軍事指揮官として富山へ派遣され、越前の小丸城は廃城となるが、この越中国主の時期になると、確認できる成政文書の数量が徐々に増え、村落に出した禁制や寺社への寄進状、地元の武士たちに対する安堵状など、今までに見られなかった内容の手紙が増えているとのこと。佐々成政は、守山城(現・富山県高岡市)を足場にして、越中各地に転戦し、越中西部を制圧。その後は上杉の勢力範囲にある越中東部にも侵攻し、天正10年(1582年)には佐々成政が富山城を居城とするようになる。
天正10年(1582年)本能寺の変後も、佐々成政は、織田方の武将として上杉軍や一向一揆軍と対峙するが、秀吉と対立を深める柴田勝家に味方し、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは越中に残り柴田方に付く。賤ヶ岳の戦後、佐々成政は加賀国金沢城に赴き、秀吉と面会し、越中国主の地位を引き続き認められ、越中一国をほぼ平定する。佐々成政は、天正11年(1583年)8月に越中国内の寺院や武士に対して数多くの知行目録を交付しているが、越中平定が果たされたことを示すものではないかと見ている。展示資料の中で、天正11年(1583年)9月晦日付の佐々成政書状は、佐々成政が、前田利家の嫡男利長に宛てた手紙は、他の手紙とは異色で、同僚の息子を思いやる、佐々成政の人間性をうかがい知ることのできるもの。
ただ、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と対抗し天正13年(1585年)秀吉に降伏。新川郡を除く所領を没収され、妻子とともに身柄は大坂へ移される。天正15年(1587年)九州島津攻めに従軍し、その後、秀吉より肥後国主に任じられ、居城を隈本城に定められる。これに伴い、越中国新川郡及び天正13年(1585年)追加の所領として与えられた摂津国能勢郡の支配から離れる。しかしすぐ肥後国衆一揆が勃発。失政の咎を受け、秀吉より上洛の呼び出しを受け、翌天正16年(1588年)秀吉から切腹を申し付けられ、摂津国尼崎で自害している。佐々成政は、天正15年(1587年)肥後一国の領主として国持大名に返り咲くが、天正15年(1587年)の佐々成政の出した手紙には、従来とは全く異なる花押が使われている。佐々成政の晩年の手紙は、天正15年(1587年)に集中しており、本拠の隈本城を差し押さえられた天正16年(1588年)正月以降のものは確認されていないとのこと。イエズス会宣教師のルイス・フロイスが著した『日本史』は、切腹に臨む佐々成政が、多数の知人のほか妻や娘たちに手紙を認めたと伝えているが、これらの手紙は現存しないとのことで、この点は非常に残念。
目次
ごあいさつ
目次
凡例
はじめに
佐々成政発給文書一覧
佐々成政関連略年表
一、府中三人衆時代の手紙
二、越前衆時代の手紙
三、越中国主時代(越中平定以前)の手紙
四、越中国主時代(越中平定以後)の手紙
五、肥後国主時代の手紙
資料解説
成政遺文
資料一覧・主要参考文献
謝辞
佐々成政関連略年表
・1516年(永正13年):この年に生まれるとの説あり。
・1536年(天文5年):この年に生まれるとの説あり。
・1539年(天文8年):この年に生まれるとの説あり。
・1561年(永禄4年)5月:この頃までに「内蔵助」を名乗るようになる。織田信長による美濃国の斎藤龍興攻めに従う。
・1569年(永禄12年)8月:織田信長による伊勢国の北畠具教攻めに従う。
・1569年(永禄12年)11月:この頃までに、信長直属の親衛隊「黒母衣衆」の筆頭に任じられる。
・1570年(元亀元年)6月:織田信長による近江国の浅井長政攻めに従う。
・1570年(元亀元年)9月:織田信長による三好三人衆攻めに従う。その後、織田信長による浅井長政・朝倉義景連合軍攻めに従い、近江国へ出兵する。
・1573年(天正元年)8月:織田信長による近江国攻めに従い、朝倉義景軍と戦う。
・1574年(天正2年)7月:織田信長による伊勢国の長島一向一揆攻めに従う。
・1575年(天正3年)5月:織田信長による武田勝頼攻めに従い、長篠合戦で鉄砲奉行を勤める。
・1575年(天正3年)9月:織田信長による越前国の一向一揆攻めに従う。一揆の平定後、前田利家、不破光治らとともに越前国内の2郡を所領として与えられ(「府中三人衆」)、柴田勝家の目付役を命じられる。小丸城を居城に定める。
・1577年(天正5年)8月:成政ら「越前衆」、滝川一益、豊臣秀吉、丹羽長秀らとともに、柴田勝家の指揮のもと、加賀国の加賀一向一揆攻めに従う。
・1577年(天正5年)9月:成政ら「越前衆」、加賀国で上杉謙信軍に大敗し越前国へ退く。
・1578年(天正6年)11月:成政ら「越前衆」、摂津国の荒木村重攻めの加勢に赴く。
・1579年(天正7年)3月:成政ら「越前衆」、織田信長による摂津攻めに従い、荒木村重軍と戦う。
・1579年(天正7年)4月:成政ら「越前衆」、織田信澄や堀秀政とともに、播磨国へ出兵する。丹羽長秀とともに、三木氏の拠点淡河城を攻め、これを平定した後、越前へ帰国の途につく。
・1579年(天正7年)12月:成政ら「越前衆」、京で荒木村重の一族妻子らの処刑の奉行を勤める。
・1580年(天正8年)12月:この頃までに、上杉景勝方の拠点新庄城攻めに加勢すべく、越中へ入国する。
・1581年(天正9年)2月:この頃までに、越前国内2郡の支配から離れ、越中国支配の権限を織田信長から委ねられる。
・1581年(天正9年)3月:近江国安土城へ赴き、織田信長に拝謁する。その後、急ぎ越中へ帰国する。
・1581年(天正9年)9月:神保長住らを率いて、越中国砺波郡の窪を攻め、越中一向一揆軍と戦う。
・1582年(天正10年)3月:柴田勝家、前田利家、佐久間盛政らとともに、唐人親広、小島職鎮ら反乱軍に奪われていた富山城を取り返す。
・1582年(天正10年)6月:本能寺の変が起こる。成政らは越中国魚津城を攻め落とし、さらに越中境からも上杉勢を駆逐する。しかし、変の報を受けて撤退する。この頃より、富山城を居城とするようになる。
・1583年(天正11年)2月:越後国へ兵を進め、落水近辺に火を放つ。
・1583年(天正11年)3月:豊臣秀吉と柴田勝家が対立。成政は越中で勝家方につく。
・1583年(天正11年)4月:加賀国金沢城へ赴き豊臣秀吉と面会。今まで通り越中国の支配権を認められる。
・1583年(天正11年)6月:この頃までに、越中一国をほぼ平定する。
・1584年(天正12年)1月:大坂で津田宗及の茶会に出席する。朝廷に参内して綿を献上する。
・1584年(天正12年)3月:この頃までに、「陸奥守」と名乗るようになる。小牧・長久手の戦いの開戦に伴い、豊臣秀吉方につき、援軍として佐々平左衛門に参陣を申し付ける。
・1584年(天正12年)9月:徳川家康に内通し、豊臣秀吉を裏切って織田信雄方につく。秀吉方の前田利家領である加賀国に攻め込むが、末森の戦いで大敗する。
・1584年(天正12年)12月:富山を発し、遠江国浜松で徳川家康と面会し、三河国吉良で織田信勝に拝謁する。翌年1月に富山へ帰国する。
・1585年(天正13年)8月:豊臣秀吉、成政を成敗するため、7万人の大軍を率いて、越中へ出陣する。成政、倶利伽羅峠の秀吉本陣へ出向いて降参する。越中国新川郡を除く所領を没収される。
・1585年(天正13年)閏8月:豊臣秀吉の命令により、妻子とともに大坂へ上り、追加の所領として摂津国能勢郡を与えられる。
・1586年(天正14年)5月:この頃までに、豊臣秀吉から「羽柴」の名字を賜り、朝廷から侍従に任じられる。大坂城に来た薩摩島津氏の使者が豊臣秀吉と面会するに際して同席する。
・1587年(天正15年)1月:大坂で津田宗及の茶会に出席する。
・1587年(天正15年)3月:豊臣秀吉による九州島津攻めに従う。行軍の途中、秀吉が長門国赤間関にて催した、安徳天皇追福懐古和歌会に参加する。
・1587年(天正15年)5月:豊臣秀吉から肥後国主に任じられ、居城を隈本城に定められる。これに伴い、越中国新川郡及び摂津国能勢郡の支配から離れる。
・1587年(天正15年)7月:肥後国衆一揆が勃発する。
・1587年(天正15年)12月:肥後国衆一揆が鎮圧される。
・1588年(天正16年)1月:豊臣秀吉から呼び出しを受け、上洛の途へつく。隈本城は毛利輝元の軍勢に差し押さえられる。
・1588年(天正16年)2月:摂津国尼崎まで上ってきたところ豊臣秀吉から待機を命じられ監視下に置かれる。
・1588年(天正6年)閏5月:豊臣秀吉から切腹を申し付けられ、摂津国尼崎で自害する。