北陸の寺院・堂 「一本田観音院と庚申堂」(福井県坂井市丸岡町一本田)
北陸の寺院・堂「一本田観音院と庚申堂」(福井県坂井市丸岡町一本田)
(写真下:一本田観音院(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2025年12月6日午前訪問撮影>

(写真下:「一本田観音院の由緒と千手観世音菩薩」説明板(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2025年12月6日午前訪問撮影>

一本田観音院(かんのんいん)の由緒と千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)(33年毎の御開帳秘仏)
一本田集落の西方約100mの所に通称「古堂様」という観音院跡がある。一本田区山田家に残る古文書には寛正2年(1461年)永平寺の僧の無参石門和尚(むさんせきもんおしょう)が、一本田の地に小庵を建てて、観音信仰の布教に力を注いだとある。また、丸岡町史には元禄8年(1695年)千手観世音菩薩を本尊とするお堂を集落西方に建立したともある。明和元年(1764年)には厭音白毛和尚(いやおとしろけおしょう)が庵主となってからは、西国33ヶ所の御礼所を巡拝し、各寺の観音様を一体ずつ拝受し、御本尊の千手観世音菩薩の両脇に御奉置した。また、境内の一隅に白毛塔を建てて、周りには各霊場より持ち帰った一握りの浄土を敷きつめたことから、お参りする人々が増えていった。天明7年(1787年)には、永平寺直属の一本田観音院となった。寛政4年(1792年)には初住職の石門和尚と二代目の鉄般和尚の330年忌大法要を営んだ。明治4年(1871年)には神仏分離令で、観音院は一本田の神明社に移された。昭和8年(1933年)には、お堂を再建したが、昭和23年(1948年)の福井震災で倒壊した。昭和32年(1957年)に観音堂が復興再建し、現在に至っている。記録による秘仏の御開帳の年は(1807年)(1847年)(1912年)(1943年)(1975年)(2008年)でした。 御開帳記念 平成20年(2008年)8月 一本田むつみ会
(写真下:「一本田観音院の千手観世音菩薩像」説明板(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2025年12月6日午前訪問撮影>

一本田観音院の千手観世音菩薩像
一本田区の山田家に残る古文書(文化2年1805年記載)によると、室町幕府後期の寛政2年(1461年)永平寺の僧の無参石門和尚が政情不安の乱世を救済しようと、一本田の地に小庵を建て、観音信仰を布教したとある。この頃に千手観世音菩薩像が安置されたと考えられる。丸岡町史には元禄8年(1695年)の丸岡藩税祖の中に、一本田観音院の引高物とあり、千手観世音菩薩を本尊として、集落の西部(現在の庚申堂の付近)に建立したとある。この千手観世音菩薩像は脇侍である「地蔵菩薩」「毘沙門天」の2像と、白毛和尚が安永2年(1773年)に西国33ヶ所の御礼所巡礼で、各寺より拝受したと伝えられる観音様を両脇に配置している。千手観世音菩薩像は33年毎に御開帳を行っている。・千手観音菩薩像:台座を含めた観音丈は約70cm
・地蔵菩薩と毘沙門天
・西国1番~15番札所の観音様
・西国16番~33番札所の観音様
・平成20年(2008年)8月10日の御開帳時の観音堂内部
・庚申堂:集落の西方(14字庚申堂)の旧観音院跡地に祀られている。昭和49年(1974年)に改修した。
・昭和32年(1957年)に再建された現在の千手観音堂
・白毛和尚石像:石門和尚が創建した観音院を、白毛和尚が明和元年(1764年)に再興した。(神明社境内)
(写真下:「一本田の歴史文化」説明板(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2025年12月6日午前訪問撮影>

一本田の歴史文化
一本田が史上に最初に出てくるのは、平安末期の「承安3年(1173)○○○の為八条院御領一品田勅旨田(いちぴんだちょくしでん)加納事」(越前国司庁宣)である。当時は一品田は44町歩程の広大な八条院の荘園であった。この一品田の中心地である一品本田から現在の一本田と改称されたと比定される。江戸時代になると、福井藩領地から丸岡藩領地となり、広大な一品田領地は一本田中、一本田福所、西里丸岡と枝村化していった。
室町後期の末法思想の中、観音信仰が生まれ、寛政2年(1461)頃に永平寺の僧無参石門和尚が小庵を建立した。(山田家文書) 元禄8年(1695)に千手観世音菩薩を本尊として集落西方に観音院を建立したともある。(丸岡町史) この思想は現代に至るまで、懇ろに地域住民により伝承されている。明治初期の廃仏毀釈でこの観音院は、現在の神明社境内に移され現在に至っている。
江戸末期には、豪農とよばれた山田家が誕生し、明治14年(1881)、当主穣(みのる)は第二代福井県議会議長、明治23年(1890)には第一回貴族院議員になった。その長男劔(おさむ)(1865~1941)は、昭和10年(1935)以降に帝国農会副会長、会長となり、福井県並びに国の農業振興に大きな足跡を残している。また、自邸裏に晩成園果樹園(現在の伊藤梨園)を作っている。
作家中野重治(1902~1979)は、プロレタリア文学に指導的役割を果たし、昭和22年(1947)に参議院議員に当選した。竜北中学校、丸岡中学校校歌の作詞もしている。その妹の鈴子(1906~1958)もプロレタリア詩人であった。
*八条院御領とは平安末期の鳥羽天皇(第74代)が上皇時代に、その第三皇女八条院(暲子内親王)が荘園として所有していた。制作:たかむくのまちづくり協議会歴史文化部会(平成30年(2018年)3月制作)
(写真下:庚申堂(旧一本田観音院跡地)(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2026年3月1日午前訪問撮影>

福井県坂井市丸岡町一本田にある神明社は、伊邪那岐尊を祭神とする創立の年月不詳の神社であるが、この一本田の集落内にある神明社の境内に、33年毎に御開帳を行っている千手観世音菩薩像を安置している一本田観音院がある。一本田の集落の豪農だった山田家に残る古文書(文化2年1805年記載)によると、室町幕府後期の寛政2年(1461年)永平寺の僧の無参石門和尚(むさんせきもんおしょう)が政情不安の乱世を救済しようと、一本田の地に小庵を建て、観音信仰を布教したとある。この頃に千手観世音菩薩像が安置されたと考えられる。丸岡町史には元禄8年(1695年)千手観世音菩薩を本尊とするお堂を集落西方に建立したともある。明和元年(1764年)には厭音白毛和尚(いやおとしろけおしょう)が庵主となってからは、西国33ヶ所の御礼所を巡拝し、各寺の観音様を一体ずつ拝受し、御本尊の千手観世音菩薩の両脇に御奉置した。また、境内の一隅に白毛塔を建てて、周りには各霊場より持ち帰った一握りの浄土を敷きつめたことから、お参りする人々が増えていった。天明7年(1787年)には、永平寺直属の一本田観音院となった。明治4年(1871年)には神仏分離令で、観音院は一本田の神明社に移された。昭和8年(1933年)には、お堂を再建したが、昭和23年(1948年)の福井震災で倒壊。昭和32年(1957年)に観音堂が復興再建し、現在に至っている。
一本田集落の西方約100mの所に通称「古堂様」という観音院跡があり、この旧一本田観音院跡地に庚申堂が祀られている。「旧一本田観音院跡地」の碑の裏面には、”寛政2年(1461)頃 この地に一本田観音院創建”と、記されている。この一本田の集落は、作家・中野重治(1902年~1979年)の生まれ育った土地で、この一本田観音院のある神明社のすぐ近くに、「中野重治生家跡」(福井県坂井市丸岡町一本田)がある。中野重治が小学校から中学校に入学する頃までの少年時代を書いた自伝的長篇小説「梨の花」では、少年時代の中野重治がモデルの主人公・高田良平少年が、おばば(祖母)と一緒に庚申堂の畑に瓜を摘みに行ったりもしているが、一本田の集落の西の方に、庚申堂が建っていて、高田良平少年の家の畑がここにあり、小さい頃より高田良平少年は何度もおばば(祖母)の手伝いで畑に来ている。「梨の花」では、村の集落の中の「堂様」と呼ばれる場所も度々登場するが、その場所が、この観音堂。「梨の花」の序盤で登場する「堂様」境内の虫歯の地蔵様は、今も一本田神明社内の一本田観音院境内に残っている。
「梨の花」では、虫歯が痛い高田良平少年が、一文銭を握って、堂様へ行く場面は、”堂様の御拝の手前に、石の垣でかこった小さい堂がある。その堂のまわりに、苔の生えたのや頭の欠けたのや、背の低い仏様がぐるりと立っている。たおれかけているのもある。頭巾をかぶって涎がけをかけているのもある。そのなかに虫歯の地蔵様がいる。虫歯の地蔵様は、青ぐろくぼろぼろになって、目も鼻も顔はよくわからない。それが、首をかたげて、片っ方の頬に片手をあてている。虫歯が痛むので、手でその方を押さえているのだ。堂様には誰もいない。良平は地蔵様のところへ行って、一文銭を地蔵様の足のところへ置いて、しゃがんで手をあわせて拝んだ。「地蔵様、地蔵様、うらの虫歯を、どうか直いてくんないのれ。地蔵様、地蔵様、うらの虫歯を、どうか直いてくんないのれ。」と、描かれている。
d県坂井市丸岡町一本田)<*2025年12月6日午前訪問撮影>

(写真下:一本田の神明社境内にある「虫歯の地蔵様」(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2026年3月1日午前訪問撮影>

(写真下:観音院(境内の右側の建物)が移された神明社境内(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2025年12月6日午前訪問撮影>
(写真下:一本田の神明社(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2025年12月6日午前訪問撮影>
(写真下:一本田の神明社(福井県坂井市丸岡町一本田)<*2026年3月1日午前訪問撮影>












