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南越地域の史跡・遺跡「葛野藩と葛野陣屋跡」(福井県丹生郡越前町下糸生)
南越地域の史跡・遺跡「葛野藩と葛野陣屋跡」(福井県丹生郡越前町下糸生)
(写真下:葛野神社と葛野陣屋跡を示す小さな石碑(福井県丹生郡越前町下糸生)<*2025年1月25日午後訪問撮影>
(写真下:葛野陣屋跡の地の葛野神社(福井県丹生郡越前町下糸生)<*2025年1月25日午後訪問撮影>
(写真下:葛野陣屋跡を示す小さな石碑(福井県丹生郡越前町下糸生)<*2025年1月25日午後訪問撮影>
*残り一面には、朝日町と刻まれている。
葛野藩(かずらのはん)は、貞享元年(1684)10月21日、紀州藩55万石5千石の第2代藩主徳川光貞(みつさだ)の四男として紀州和歌山城下で生まれた松平頼方(後の8代将軍・徳川吉宗)が、紀州徳川家が御三家の名門ということで、わずか14歳にして、元禄10年(1697年)4月、第5代将軍・徳川綱吉より、越前国に、3万石の所領を与えられて大名となり成立した藩。所領は、越前国丹生郡で下糸生村など13ヵ村6580石、坂井郡で針原村など32ヵ村23,420石合計30,000石(完禄郷帳)で、越前国丹生郡下糸生村(現・福井県丹生郡越前町下糸生)の一地区である葛野に陣屋を置き、紀州藩から派遣された少数の家臣によって領知の管理が行われ、当時は地元で「紀州領」と認識され、葛野藩主となった松平頼方(後の徳川吉宗)自身は、主として江戸の紀州藩邸に住み、一度も越前国の葛野藩領地に下ることは無かった。
1697年に立藩となった葛野藩は、藩主の松平頼方が、1705年(宝永2年)紀州藩相続時に、葛野藩は8年で廃藩となり、葛野藩領は幕府に収公され御料(幕府直轄領)となった。葛野の地の葛野陣屋は、1705年(宝永2年)葛野藩廃藩後も、旧葛野藩領を含む周辺の幕府領を管轄するため、享保5年(1720年)まで15年間幕府葛野陣屋が置かれた。葛野陣屋跡は現在は葛野神社となっており、葛野神社の領域の隅に葛野陣屋跡を記念する小さな石碑が建っている。享保5年(1720年)、間部家鯖江藩が立藩された際、葛野陣屋のある越前国丹生郡下糸生村周辺は鯖江藩領に組み入れられた。越前に本拠を置かない葛野藩などが越前国に立藩された当時は、越前松平藩が6代藩主の発狂で強制隠居処分となり領地半減により越前の幕府領が大幅に増加していた状況にあった。
葛野藩(かずらのはん)
成立:1697年(元禄10年)
廃藩:1705年(宝永2年)
藩主(1代):松平頼方(後の江戸幕府8代将軍・徳川吉宗)
領地:越前国丹生郡13ヵ村6580石、坂井郡32ヵ村23,420石の合計3万石
<越前国丹生郡13ヶ村6,580石> 下糸生村、上糸生村、小倉村、笹谷村、小羽村、上天下村、田尻村、小倉大畑村、風巻村、竹生村、下天下村、猿和田村、三留村
<越前国坂井郡32ヶ村23,571石> 針原村、西太郎丸村、西長田村、大味村、蛸村、西村、蔵垣内村、下関村、上関村、山室村、水居村、定広村、松木村、長畠村、随応寺村、鷲塚村、田畑村、金剛寺村、清長村、羽根馬場村、東善寺村、轟村、大口東村、新用村、春近本堂村、兵庫島村、伊井村、下新庄村、定宗村、千歩寺村、東太郎丸村、河原井手村
陣屋:越前国丹生郡下糸生村(現・福井県丹生郡越前町下糸生)の葛野
越前国丹生郡葛野藩主となった松平頼方は、貞享元年(1684)10月21日、紀州藩55万石5千石の第2代藩主徳川光貞(みつさだ)(1627年~1705年)の四男として紀州和歌山城下で生まれ、幼名は源六。11歳になると、次兄・次郎吉が病死した後は新之助と改名し、江戸の紀州藩邸に移り住む。元禄8年(1995)12歳で、従五位下主税頭(ちからのかみ)に任ぜられ、翌年の元禄9年(1696年)13歳で、従四位下右近衛権少将兼主税頭に昇進。元服し松平頼久と名乗る。頼方(よりかた)と名乗り、元禄10年(1697)4月、14歳のとき、紀州藩邸を訪問した5代将軍徳川綱吉に御目見えした際に、越前国に3万石を与えられて葛野藩主として大名となる。この機に名を頼久から松平頼方(よりかた)に改める。
本来なら、このまま、御三家の庶子相応の3万石の大名として、一生を終えることになっていたかもしれないが、宝永2年(1705年)、22歳の時に、最初の大きな転機が訪れる。同年に、まず長兄で1698年に徳川光貞が隠居し家督を継いでいた3代紀州藩主・徳川綱教(つなのり)(1665年~1705年)が41歳で病死し、4代紀州藩主に三兄・頼職(よりもと)(1680年~1705年)が跡を継ぐ。その3か月後に徳川光貞が病死。更にその翌月、治政3カ月あまりで、徳川頼職が、同年に病死したため、松平頼方が、22歳で急遽、紀州家を相続し第5代紀州藩主に就任となる。紀州55万5千石を継ぐにあたり、従三位・左中将の叙任を受け、将軍綱吉から偏諱を賜り、頼方を吉宗と改名する。第5代紀州藩主となった徳川吉宗は、その後、江戸幕府第7代将軍・家継(1709年~1716年:在位1713年~1716年)が早世し、1716年(享保元年)に第8代将軍に就任となる。
尚、元禄10年(1697)4月、紀州藩邸を訪問した5代将軍徳川綱吉から松平頼方が、越前国に3万石を与えられて葛野藩主として大名となる同じ時に、松平頼方の次兄・頼職(1680年~1705年)が、同じ越前国丹生郡63ヶ村3万石を与えられ、高森藩が成立。陣屋は越前国丹生郡高森村(現・福井県越前市高森町)に置く。同時に越前国に成立した高森藩と葛野藩は、紀州藩から派遣された少数の家臣によって領知の管理が行われており、「紀州領」と認識されていたが、宝永2年(1705年)、松平頼職が紀州藩を継ぎ、高森藩は一旦廃藩となり葛野藩領は幕府に収公され御料(幕府直轄領)となる。その後、4か月後の同年(1705年)、遠州浜松藩主松平資俊(本庄松平家)の次男・松平宗長(1687年~1709年)が、旧高森藩領のうち2万石を与えられ本庄松平家高森藩主となるが、宗長病死後、弟・松平宗胡が継ぐも、1711年に早世し、本庄松平家高森藩も無嗣断絶となっている。旧高森藩領のうち1万石分は、一旦は、葛野藩に加増編入され葛野藩は3万石から4万石になったという説もある。
(写真下:葛野陣屋跡の地の葛野神社(福井県丹生郡越前町下糸生)<*2025年1月25日午後訪問撮影>
(写真下:葛野神社からの周辺の風景(福井県丹生郡越前町下糸生)<*2025年1月25日午後訪問撮影>