- Home
- 北陸の文化史跡・遺跡
- 北陸の文化史跡・遺跡 「小田中親王塚古墳」(石川県鹿島郡中能登町)
北陸の文化史跡・遺跡 「小田中親王塚古墳」(石川県鹿島郡中能登町)
- 2023/3/25
- 北陸の文化史跡・遺跡
北陸の文化史跡・遺跡
「小田中親王塚古墳(こだなかしんのうづかこふん」(石川県鹿島郡中能登町小田中)
宮内庁により第10代 崇神天皇の皇子、大入杵命(おおいりきみのみこと)の陸墓、「大入杵命墓 (おおいりきのみことのはか)」として、1875年(明治8年)12月27日に治定されている小田中親王塚古墳は、周囲に濠をめぐらし、頂径20メートル、底辺67メートル、高さ14.5メートルと北陸随一の大きさで石川県内最古の古墳。古墳の形状は円墳で石川県中能登町指定史跡。口能登エリアの中核平地をなす邑知低地帯の中央部にあり、場所は、石川県鹿島郡中能登町小田中(中能登町発足前は旧鹿島町に属する)にある、この古墳は通常、「小田中親王塚古墳」と呼称されているが、古称は「新王塚」。
「平家物語」の巻七に「木曽殿は志保の山打越えて能登の小田中親王の塚の前にぞ陣をとる」と書かれているように、800年前から名の知れた古墳。大彦彦を北陸道に派遣するなど四道将軍を各地に派遣したとされる第10代 崇神天皇は、考古学上実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半とされていて、崇神天皇と尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)の間の皇子といわれる大入杵命は、能登国造の能登臣氏(のとのおみし)の祖と言われ、小田中親王塚古墳の造営年代は、4世紀後半から末期にかけてと推測されている。
小田中親王塚古墳の、道を挟んで真向かいの飛び地に、小田中親王塚の陸墓不属地としてあるのが亀塚古墳。こちらも宮内庁が管理していて、こちらは前方後方形の古墳。尚、「古代地域史の研究 -北陸の古代と中世1ー」(浅香年木 著、法政大学出版局、1978年発行)の第1編【古代するうえでの日本海とコシ】第1章〈古代のコシと対岸交流〉において、近世に記述された新王塚の由来を語る伝承をもとに、古代におけるノト地域と日本海対岸諸地域との交流の濃密さを検証する観点から、「小田中新王塚由来考」の論考が掲載されている。 <上の写真:小田中親王塚古墳正面。2022年10月5日午後訪問>
下の写真(2022年10月5日午後訪問)は亀塚古墳と呼ばれ、宮内庁が管轄。小田中親王塚古墳とともに中能登町指定史跡に指定されている。