享保5年(1720年)に間部家の入封で、鯖江藩が成立し、それから14年後の享保19年(1734年)、鯖江藩の勘定所勤めの平柳杢右衛門(ひらやなぎ・もくうえもん)が、上役鈴木某の讒訴により、年貢米札不正に関する不正の廉で、享保19年(1734年)3月23日、西鯖江の刑場で、太刀取同心森右衛門により打ち首死罪となり、このとき、息子の杢之助も連座して永牢となったが、同年10月牢死し、平柳家は断絶。それから百年余の後、第七代藩主間部詮勝(1804年~1884年、在職1814年~1862年)の代になってからのこと、間部詮勝の夢枕に礼装した武士の亡霊が立ち、無罪を訴えることが連夜に及んだという。不思議に思われた間部詮勝が、往時の事件の再調査を命じたところ、平柳杢右衛門の無罪が判明し、部下を無実の罪に陥れた鈴木某の子孫は、領外追放に処し、一方、平柳家再興のため、平柳杢右衛門の妻の実家にあたる大関家の弟に平柳家を継がせることとした。平柳父子の非業の死をなぐさめるため、間部詮勝藩主自ら法号を書かれは法要を営んで、鯖江藩評定所の前庭に石の祠を建てて供養した。これは、天保11年(1840年)から天保12年(1841年)の出来事。
それから、更に百年以上の歳月が過ぎて、その祠の存在も長い間、忘れられてしまうが、昭和38年(1963年)に、鯖江藩評定所跡地にあった中小路の旧鯖江郵便局庁舎(鯖江市本町2丁目)に鯖江消防署が設置され、当時の消防署長・森川政治郎氏は、敷地の片隅にある祠が平柳杢右衛門父子の霊を祀った甲弓山鬼神祠(こうきゅうざんきしんほこら)であることを知り、これを修築し、旧暦3月23日の命日には、供養が行われていた。しかし、その後、この場所には北電鯖江営業所が新築され、その祠はどうなったか、見当たらなくなってしまう。史実を知った有志によって、平柳杢右衛門の命日にあたる、昭和51年(1976年)3月23日、鯖江市長泉寺一丁目の西山公園東の嚮陽庭園の一角に、「甲弓山鬼神塚」(こうきゅうさんきしんづか)と呼ばれる石の祠が移築再建された。昭和51年(1976年)3月23日の法要には、鯖江藩とゆかりがあり、また平柳杢右衛門父子の位牌や墓のある萬慶寺住職久我隆則氏による読経、世話人代表の当時の福島市長や、遺族を代表して藤沢氏から来られた第七代・平柳健氏(大関から入られて、平柳家を再興された子孫)が参列。
尚、再興後の平柳家は、三喜之助、柳平、三喜、竹志、誠、健 氏と続いているが、福井県士族・陸軍歩兵中佐の平柳竹志(1937年5月死去)の子女は四男一女で、長女・静子は1943年病死、平柳4兄弟として知られる長男・平柳誠は東京帝国大学卒で大使館一等書記官としてビルマ派遣中に1945年4月、阿波丸にて殉職。次男の平柳三郎は慶應義塾高卒で1944年4月ニューギニア・ウエワクにて戦死。三男の平柳育郎(1922年~1944年)が中でも最も良く知られる人物で、海軍兵学校卒で駆逐艦「文月」にて1944年1月戦死。四男の平柳芳郎は、陸軍航空士官学校卒で、1945年5月、振武隊(特攻隊)隊長戦死と、4兄弟とも若くして太平洋戦争で戦死。
参考文献:『鯖江今昔』(執筆者:三輪信一 、編集・発行:鯖江今昔刊行会、1981年7月発行)
(写真下:甲弓山鬼神塚(福井県鯖江市長泉寺町1丁目<西山公園内> <2025年8月18日午後訪問撮影>
*西山公園の東の嚮陽庭園の下段の庭近くの場所に建立されている。














