関東圏における北陸ゆかりの地「新田義貞公と脇屋義助公像」(群馬県太田市)

関東圏における北陸ゆかりの地「新田義貞公と脇屋義助公像」(群馬県太田市)

(写真下:「新田義貞公と脇屋義助公像」(群馬県太田市)<*2021年12月23日午前訪問撮影>


新田義貞公は清和源氏新田氏直系の郷土出身の武将である。
元弘3年(1333)5月8日卯刻 生品明神の社前に義旗を挙げ板東諸国・越後・信濃・甲斐の源氏を糾合して鎌倉を攻め 同月22日 執権北条高時の鎌倉幕府を滅ぼした。この功により建武新政が成り後醍醐天皇より越後守・播磨守・上野介に任じられ武者所頭人・左近衛中将となる。その後 北条時行の乱を契機に南北朝の戦乱が起り義貞公は南朝方の忠臣として各地に転戦した。延元元年(1336)吉野に移った後醍醐天皇は恒良親王・尊良親王と義貞公を越前に下らせて再起を図った。義貞公は越前平野を支配下に置いたが、南風競わず 延元3年(1338)閏7月2日 越前藤島灯明寺畷で斯波高経の軍勢との遭遇戦において壮絶な最期を遂げた。御年38歳であった。御遺骸は福井県丸岡町の称念寺に葬られた。公の御霊は太田市新田神社、福井市藤島神社にまつられている。太田市金龍寺には供養塔と顕彰碑がある。  
昭和63年(1988)5月 新田義貞公銅像建設委員会

新田義貞公
鎌倉時代末期~南北朝時代初期の郷土の武将、清和源氏新田氏嫡流、元弘3年(1333)生品神社で挙兵。鎌倉幕府を倒し建武新政の中核となり、武者所頭人・左近衛中将に任ぜらる。延元3年(1338)越前藤島の戦で壮絶な最期を遂げた。御年38歳。公の御霊は太田市金龍寺、新田神社にまつられている。この像は公の歿後650年と太田市制40周年を記念し、郷土ゆかりの人びとの浄財を得て新田義貞公銅像建設委員会により建立された。
昭和63年(1988)5月3日
太田駅周辺土地区画整理事業に伴い、旧駅前広場より現在の場所へ移転された。 平成21年(2009)12月18日

群馬県太田市の東武伊勢崎線・太田駅前の北口広場に建つ「新田義貞公と脇屋義助公像」は、新田義貞は、上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の嫡男として生まれた新田義貞(1300年頃~1338年)と、新田朝氏の次男で新田義貞の弟の脇屋義助(1305年~1342年)の二人の銅像で、共に地元の太田市の郷土ゆかりの武将。新田義貞・脇屋義助兄弟の銅像ながら、銅像の下部の案内板や、脇屋義助銅像の前部に置かれた案内板では、共に新田義貞公銅像とだけ記され、新田義貞についての説明はあるものの、脇屋義助については、全く触れられてはいない。この銅像は、新田義貞公の歿後650年と太田市制40周年を記念し、郷土ゆかりの人びとの浄財を得て昭和63年(1988)5月3日。新田義貞公銅像建設委員会により建立されたが、その後、太田駅周辺土地区画整理事業に伴い、平成21年(2009)12月18日、旧駅前広場より現在の場所へ移転されている。直立している兄の新田義貞と、その脇で片膝をついて侍っている弟の脇屋義助の銅像は、鎌倉幕府打倒の為、元弘3年(1333)5月8日卯刻 生品明神にて挙兵決起の場面を表現していると言われる。新田義貞の像は、生品神社(群馬県太田市)、新田荘歴史資料館(群馬県太田市)や分倍河原駅前(東京都府中市)などが知られるが、「太平記」の中で非常に記述が多く武名が轟いていた脇屋義助の像については、他には脇屋山正法寺(群馬県太田市脇屋町)にあるだけではなかろうか。

新田義貞(1300年頃~1338年)は、元弘3年(1333年)5月の鎌倉攻めに突然登場し、北条高時を権力の頂点とする鎌倉幕府を攻め滅ぼして後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、足利尊氏との対立を深め、その後、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方の室町幕府に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げるまで、越前で南朝方の勢力拡大に奔走する。劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、30数年の生涯の中で、足利尊氏と覇を競い疾駆した5年の後半の約2年間は、越前各地で奮戦し越前で戦死となった北陸・越前と大変ゆかりの深い武将。

新田義貞は、上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の嫡男として生まれ、文保2年(318年)父・朝氏が45歳で死去したことにより、衰退していた新田氏宗家の家督を継ぎ8代当主となる。生年については判然としておらず、暦応元年(1338年)閏7月の戦死の時に37歳~39歳とも言われていて、出生地についても、台源氏と呼ばれた新田氏4代目・政義の館跡といわれる台源氏館跡が新田義貞誕生伝説地となっており「新田義貞卿誕生地之碑」(群馬県太田市由良町)が建立されているが、新田義貞誕生地は、他にも、新田義貞が育った新田郡生品村反町館(大田市新田地区)説をはじめ、世良田新田館(総持寺)説、碓氷郡榛名町里見郷(高崎市榛名地区)説などがある。

鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、鎌倉幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力が争った元弘の乱(1331年~1333年)の渦中で、新田義貞は、河内楠木正成攻めに参加するなど鎌倉幕府側で参戦したものの、1331年3月、河内千早攻囲陣より倒幕の綸旨を得て帰郷。1331年5月8日、新田荘一井郷の上野国生品明神(現・群馬県太田市新田市野井町)に一族と共に鎌倉幕府打倒の挙兵し、鎌倉に向け利根川を渡り鎌倉街道(上ノ道)を一気に南下し(進路についても最初に東山道を西進したのかどうかなど諸説あり)、関東の反鎌倉勢力を糾合して鎌倉に進攻。激戦の末に、1333年5月22日、挙兵後、わずか15日で鎌倉幕府を滅ぼす第一の勲功を立てる。生品神社境内(元・群馬県新田郡新田町市野井、現・群馬県太田市新田市野井町)は、昭和9年(1934年)3月13日、建武の中興6百年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として国の史跡に指定されたが、平成12年(2000年)11月1日、「新田荘遺跡  生品神社境内」として、面積を広げて国の史跡に指定されている。なお、生品神社の境内内にもともと安置されていた、海中に太刀を投じる姿の新田義貞公の銅像は、1941年に義貞公を慕う地元小学校の教師と児童たちが勤労活動によって集めたお金を元にして建立されたもので、1983年の挙兵650年を機に生品神社の境内に安置されていたもの。ところが、2010年2月、この生品神社の境内に安置されていた新田義貞公の銅像が何者かによって盗まれてしまい、2011年に地元の有志の方々を中心に「新田義貞公銅像再建委員会」が発足し、生品神社前に再建され、2012年5月8日、義貞公銅像除幕式が行われた。新たな銅像の製作者は、彫刻家の脇谷幸正 氏で、新田義貞の弟・脇屋義助の24代目子孫にあたる方とのこと。

一方の脇屋義助(新田義助)は、上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の次男で新田義貞の弟として生まれ、長じて、上野国新田郡脇屋(現・群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから「脇屋」と称した。元弘3年(1333年)5月、兄・義貞が生品神社で鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵以来、兄・義貞に従い、鎌倉幕府の倒幕に寄与。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い1333年8月、上洛。新田義貞は越後・上野・播磨国司に、脇屋義助は駿河国司に任じられたり、官職にも就くなど、兄・義貞を支え、後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、その後、兄・義貞が足利尊氏との対立を深め、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で、脇屋義助は、兄・新田義貞を助けて恒に行動を共にし各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は脇屋義助とともに、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方の室町幕府に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、新田義貞は、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げる。

脇屋義助も、兄・義貞とともに比叡山を下り、越前に向かい、敦賀の金ヶ崎城に入るが、越前守護・斯波高経の軍勢に激しく攻め立てられ、義貞と脇屋義助が救援を求めるため、杣山城へ出かけている隙に、金ヶ崎城は1337年3月に陥落。新田義貞は越前国杣山城を拠点に挽回の機会をうかがい、脇屋義助は、兄・義貞とともに、越前各地で奮戦し南朝方の勢力拡大に奔走し、越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、兄・義貞の越前藤島での戦死で越前南朝方は、一時崩壊の危機に置かれる。が、脇屋義助が越前南朝方の総大将の地位を引き継ぎ軍勢をまとめて、1339年7月には北朝方の斯波高経の越前黒丸城を攻め落とし、斯波高経を加賀の富樫城へ敗退させるなどの成果をあげる。脇屋義助の活躍で北陸方面が南朝方の強力な拠点になると、翌1340年には北朝方の大軍による反攻が行われ、1340年8月、南朝方の拠る黒丸城が北朝方に陥落、その後も、南朝方は府中から退却、1341年6月には杣山城が陥落し、1340年から1341年の北朝方の反攻で越前国内の南朝方は一掃される。この間に、脇屋義助は越前を去り、越前と美濃の国境・温見峠を越え、一時美濃の根尾城(現・岐阜県本巣市)に立て籠っていたが、美濃守護・土岐頼遠の軍勢に攻められて義助は尾張へ移り熱田神宮の大宮司に助けられ、尾張の羽豆崎(現・愛知県南知多町)の神宮領で整えて、海路伊勢に渡り、伊賀を経て、1341年8月、吉野の後村上天皇の行宮に参内。1342年3月、脇屋義助は、四国及び西国の南朝方の総大将を命ぜられ、熊野水軍とともに海を渡り、1342年4月、四国の伊予国府(現・愛媛県今治市)に入るが、突如発病し、伊予入国後わずか20日ばかりで病没。享年38歳。兄・義貞同様、劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、38年の生涯の中で、最後は、伊予国での病没ではありながら、比叡山下山から金ヶ崎入城から義貞死後も越前の南朝方の総大将として越前各地で奮戦した脇屋義助けるも、北陸・越前と大変ゆかりの深い武将。

(写真下:東武伊勢崎線太田駅前の太田市観光ガイドマップの案内板(群馬県太田市)<*2021年12月23日午前訪問撮影>

(写真下:太田市観光協会の「新田義貞ゆかりの地 太平記の里」ポスター(群馬県太田市)<*2021年12月23日午前訪問撮影>

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