- Home
- 他地域に見る北陸ゆかりの地, 首都圏における北陸ゆかりの地, 特集テーマ記事
- 首都圏における北陸ゆかりの地「新田神社と新田義貞の臣・亘新左衛門尉早勝の墓」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)
首都圏における北陸ゆかりの地「新田神社と新田義貞の臣・亘新左衛門尉早勝の墓」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)
- 2026/8/25
- 他地域に見る北陸ゆかりの地, 首都圏における北陸ゆかりの地, 特集テーマ記事
- 栗生左衛門尉忠良, 畑六郎左衛門尉時能, 篠塚伊賀守重廣, 姥ヶ森, 新田義貞, 新田神社, 亘新左衛門尉早勝, 新田義興, 慶寺丹長 4代目, 御祭神 新田義貞公像, 新田四天王
首都圏における北陸ゆかりの地「新田神社と新田義貞の臣・亘新左衛門尉早勝の墓」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)
(写真下:「新田神社」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)<*2026年6月28日午前訪問撮影>

新田神社
御祭神:
主祭神 新田義貞公
配神 天照大御神、市杵島姫命(いちこしまひめのみこと)、宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)
亘新左衛門尉早勝(わたりしんざえもんのじょうはやかつ)
御神徳:家門隆盛、武道上達、心身健康
御例祭:8月第1土・日曜日(元7月2日、後10月10日)御由緒御沿革:
社伝によれば、新田義貞公が延元3年(1338年)7月2日、越前国藤島(現在 福井市内)で討死の際、その臣 亘新左衛門尉早勝が公の差添の名剣と七ッ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を得てこの地に携えて帰り、ひたすら冥福を祈って供養していたところ、里人らも公の徳を追慕し、その三種の形見を早勝に乞い早勝と共に永和元年(1375年)7月2日 清浄の地を求め孤松の下に埋納し、廟を営んで新田大明神と崇め、この地の鎮守として里人武人らの信仰が厚く祭田の寄進もあったと伝えられております。
また俚伝によれば、正月元旦と7月2日の晩にはこの地に軍馬が嘶く声がすることがあり、これは河北矢口村(現在 東京都大田区内)に鎮座されている公の二子 義興公が父霊のもとに参るためと言われておりました。
明治6年(1873年)村社に列格、後幣吊料供進神社に指定。戦禍により建物悉く焼失したが昭和31年(1956年)社務所、同38年(1963年)社殿、同43年(1968年)神楽殿の再建を遂げ、平成3年(1991年)社務所を改築した。
(写真下:「新田神社」境内の「御祭神 新田義貞公像」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)<*2026年6月28日午前訪問撮影>



神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目にある新田神社(にったじんじゃ)は、主祭神 新田義貞公を主祭神として祀る神社で、社伝によれば、新田義貞公が延元3年(1338年)7月2日、越前国藤島(現在 福井市内)で討死の際、その臣 亘新左衛門尉早勝(わたり・しんざえもんのじょうはやかつ)が新田義貞の差添の名剣と七ッ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を得てこの地に携えて帰り、ひたすら冥福を祈って供養していたところ、里人らも新田義貞の徳を追慕し、その三種の形見を早勝に乞い早勝と共に永和元年(1375年)7月2日 清浄の地を求め孤松の下に埋納し、廟を営んで新田大明神と崇め、この地の鎮守とした事に始まる。新田神社の入り口の右手前に建つ「新田神社」の新しく黒い碑は、新田義貞公生誕700年記念建碑として、平成13年(2001年)10月吉日に建立。境内に入っての左手側には「御祭神 新田義貞公像」が建つが、この像は、鋳金家の慶寺丹長 4代目( 大正8年(1919年)~平成3年(1991年)) の昭和37年(1962年)7月の作。
新田神社の主祭神として祀られている新田義貞(1300年頃~1338年)は、元弘3年(1333年)5月の鎌倉攻めに突然登場し、北条高時を権力の頂点とする鎌倉幕府を攻め滅ぼして後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、足利尊氏との対立を深め、その後、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げるまで、越前で南朝方の勢力拡大に奔走する。劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、30数年の生涯の中で、足利尊氏と覇を競い疾駆した5年の後半の約2年間は、越前各地で奮戦し越前で戦死となった北陸・越前と大変ゆかりの深い武将。
新田神社の境内の左手側には、新田神社創設に深く関わる新田義貞の臣・亘新左衛門尉早勝の墓があり、その由緒沿革を記す案内板には、言伝えによれば、亘新左衛門尉早勝が領地であった渡田村で永和3年(1377年)7月2日没した後、里人がその旧居跡(現在 川崎市渡田3丁目)に祠(御霊社)を建立し、傍らに墓石を建てその霊を鎮めていたが、明治末年 新田神社境内に移されたとのこと。新田義貞の忠臣として活躍した武将「新田四天王」には、の一人とされるが、栗生左衛門尉忠良、畑六郎左衛門尉時能、篠塚伊賀守重廣、由良新左衛門尉具滋か亘新左衛門尉早勝の名前が挙げられる。新田神社の境内社は、姥ヶ森弁財天社、稲荷社、神明社の3社。このうち、「姥ヶ森弁財天社」は、昔「姥ケ森」あるいは「森山」と呼ばれた地(現在 川崎市鋼管通3丁目)に鎮座していたが、明治末年に合祀令により新田神社に遷されているが、その森には新田義貞公寄進の馬場と御手洗の池があったという伝えがあるとのこと。
(写真下:「新田神社」境内の「亘新左衛門尉早勝の墓」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)<*2026年6月28日午前訪問撮影>

亘新左衛門尉早勝の墓
御由緒御沿革
言伝えによれば、当社創設に深くかかわる新田義貞公の臣 亘新左衛門尉早勝が領地であった渡田村で永和3年(1377年)7月2日没した後、里人がその旧居跡(現在 川崎市渡田3丁目)に祠(御霊社)を建立し、傍らに墓石を建てその霊を鎮めていたが明治末年 当社境内に移されました。亘新左衛門尉早勝は、栗生左衛門尉忠良、畑六郎左衛門尉時能、篠塚伊賀守重廣と共に新田義貞公の勇猛な家臣四天王の1人でした。渡田、小田地区には四天王の末えいと伝える家系があり、また当地区の急速な開発前には四天王縁りの塚もありました。また昔は渡田村を亘田と書いたという伝えもあります。
(写真下:「新田神社」境内社の「姥ヶ森弁財天社」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)<*2026年6月28日午前訪問撮影>

(写真下:「新田神社」境内社の「稲荷社」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)<*2026年6月28日午前訪問撮影>

(写真下:「新田神社」境内社の「神明社」(神奈川県川崎市川崎区渡田2丁目)<*2026年6月28日午前訪問撮影>











