南越地域の寺社「弁天堂」(福井県鯖江市旭町2丁目)
(写真下:「弁天堂」(福井県鯖江市旭町2丁目)の西側<*2025年7月3日午前訪問撮影>
弁天様は琵琶を携えた美しい天女の姿で、音楽や福徳財宝の神として、各地で信仰されているが、福井県鯖江市旭町2丁目の弁天堂には、弘法大師が作られた3体の霊像の一つである弁財天が本尊として安置されていると言われ、この弁財天は、もとは、江戸幕府将軍家の宝物であったが、6代将軍徳川家宣(1662年~1712年、在職1709年~1712年)から、鯖江藩藩祖の間部詮房(1666年~1720年)が拝領したものと伝わる。間部詮房は、6代将軍家宣の時代に、家宣の側用人として、学者の荒井白石と共に正徳の治を断行し、徳川家宣・家継の2代にわたり、将軍の側近として幕政を主導するが、享保元年(1716)7代将軍家継が幼少のまま病死し8代将軍に徳川吉宗が就任すると、間部詮房は失脚し越後国村上に転封となり、享保5年(1720)越後村上城で逝去。
能役者の子といわれる間部詮房は寛文6年(1666)5月、武蔵国忍で生れ、幼少の時、父・西田清貞とともに江戸に出て能楽師喜多太夫に師事していたが、貞享元年(1684)4月、甲府徳川家の甲斐甲府藩主の徳川綱豊(別名:甲府宰相、6代将軍徳川家宣、甲斐の甲府藩主は1678年~1704年)の江戸桜田の甲府藩邸にて甲府家の小姓として禄米250俵で勤仕することになった。この時、徳川綱豊の命により、旧姓間鍋を「間部」に改称。以後、累進を重ね、元禄12年(1699)用人となり(禄米1200俵)、宝永元年(1704)徳川綱豊が将軍継嗣として江戸城西の丸に入ると間部詮房もこれに従って江戸城入りし奥番頭(書院番頭格)となり、従五位下・越前守に叙任を受けている。宝永2年(1705)側衆となり相州(相模国)鎌倉領で3千石を拝領。宝永3年(1706)正月、若年寄格(老中次格)に任ぜられ、相模国内で1万石を領して大名となり、同年12月には従四位下、老中の次席格となった。
宝永4年(1707)1万石の加増で2万石となり、宝永6年(1709)には徳川家宣が将軍職を継ぐと老中格に任ぜられ、更に1万石を加増され3万石の大名となる。宝永7年(1710)2万石を加えられ、5万石の上州(上野国)高崎城主となる。正徳2年(1712)徳川家宣が逝去したとも遺命を奉じて、江戸城中に止まり、幼君家継を補佐し、この間、私邸に帰ることは無く、徳川家宣・家継の2代にわたり、将軍の側近として幕政を主導。正徳6年(1716)家継が8歳で逝去すると役職を免ぜられて、享保2年(1717)越後村上へ転封され、越後村上藩間部氏初代藩主となるが、享保5年(1720)越後村上城にて行年54歳で逝去。家督は実弟で養嗣子の間部詮言(まなべ・あきとき、1690年~1724年)が継ぎ越後村上藩第2代藩主となるが、享保5年(1720)に越後村上から越前鯖江に移封となり越前鯖江藩初代藩主となり享保6年(1721)鯖江に入部。これより間部家9代詮道までの150年間鯖江藩政が続く。
弘法大師が作られた3体の霊像の一つであるといわれる弁財天は、もとは江戸幕府将軍家の宝物であったが、6代将軍徳川家宣から、鯖江藩藩祖の間部詮房が拝領したものと伝わり、間部家はこれを崇敬し元の領地だった高崎藩(群馬県高崎市)から村上藩(新潟県村上市)、そして鯖江藩へと移され、越前鯖江藩2代藩主・間部詮方(まなべ・あきみち、1709年~1785年)の時に、享保11年(1726年)現在の地に、間部詮房ゆかりの霊像弁財天を安置する堂宇を建てられた。鯖江藩2代藩主・詮方は、殊に神仏を尊ぶ心が強く、弁財天女堂の建立、舟津神社仮斎場の新設、菩提寺万慶寺の移転などに力を注いだといわれるが、間部詮方は江戸西ノ丸下の邸で生まれ、享保9年(1724)叔父・詮言の養子となり、16歳で家督を相続。享保14年(1729)に初めて鯖江に入る。
越前鯖江藩2代藩主・間部詮方の時に、享保11年(1726年)現在の地(清水坂、現・鯖江市旭町2丁目)に、間部詮房ゆかりの霊像弁財天を安置する堂宇が建てられたが、それから百年後の文政9年(1826)、越前鯖江藩7代主・間部詮勝(1804年~1884年)により、現在の弁天堂が建てられた。その頃、弁天堂が建てられてた清水坂の東には、新たに清水町が設けられ、魚市場や遊郭も置かれて、そのあたりは活気のある街並みになった。間部詮勝は、文化元年(1804)江戸の芝三田の邸で生れ、文化11年(1814年)、鯖江藩6代藩主・間部詮允の急養子となり、11歳で家督を相続。寺社奉行・大阪城代・京都所司代を歴任、天保11年(1840年)には老中となり幕政の改革にあたった。
(写真下:「弁天堂」(福井県鯖江市旭町2丁目)の南側<*2025年7月3日午前訪問撮影>
(写真下:「弁天堂」(福井県鯖江市旭町2丁目)の東側<*2025年7月3日午前訪問撮影>
(写真下:「弁天堂」(福井県鯖江市旭町2丁目)の南西側<*2025年7月3日午前訪問撮影>
(写真下:「弁天堂」(福井県鯖江市旭町2丁目)の北側<*2025年7月3日午前訪問撮影>
越前鯖江藩2代藩主・間部詮方の時に、享保11年(1726年)現在の地(清水坂、現・鯖江市旭町2丁目)に、間部詮房ゆかりの霊像弁財天を安置する堂宇が建てられ、それから百年後の文政9年(1826)、越前鯖江藩7代主・間部詮勝(1804年~1884年)により、現在の弁天堂が建てられ、その頃、弁天堂が建てられてた清水坂の東には、新たに清水町が設けられ、魚市場や遊郭も置かれて、そのあたりは活気のある街並みになった。これは、弁天堂の境内には、売買春を目的に辻に立つ街娼が出没し賑わいはじめたため、この弁天堂のわずか東の清水町の外れの現・鯖江市柳町2丁目の一角に「弁天」と呼ばれる鯖江の遊女街が造られる。この鯖江の弁天遊郭も、戦後、売春防止法が1957年(昭和32年)4月に施行され、1958年(昭和33年)に、公認で売春が行われていた遊郭の風俗営業地域である赤線が廃止された。
(写真下:「弁天堂」(福井県鯖江市旭町2丁目)の周辺地図案内板 <*2025年7月3日午前訪問撮影>
(写真下:「弁天橋と弁天川」(福井県鯖江市柳町2丁目) <*2025年7月23日午前訪問撮影>