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南越地域の史跡・遺跡「歯塚・富田長繁の供養塔」(福井県鯖江市長泉寺町1丁目)
- 2024/5/25
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南越地域の史跡・遺跡「歯塚・富田長繁の供養塔」(福井県鯖江市長泉寺町1丁目)
(写真下:歯塚大権現・富田長繁の供養塔と説明版 <2024年5月8日午後訪問撮影>
さばえ歴史街道膝栗毛 歯塚(はづか)・富田長繁(とだながしげ)の供養塔
歯塚大権現(はづかだいごんげん)は、天正2年(1574)の一向一揆の際に焼失した長泉寺の経典を埋めた塚といわれ、昔から歯の痛む者が箸をもって祈願すると痛みが癒えるといわれている。ここには、一向一揆との合戦で戦死した富田長繁(銘文では長秀)の霊を慰めるために建てられた供養塔がある。
富田長繁は、天正元年(1573)に朝倉氏が滅亡すると、府中(武生)城主に任せられ、越前国の支配権を握った。しかし、織田信長との関係に一向一揆勢が猛烈に反発、天正2年(1574)には一揆勢が蜂起して、加賀から七里頼周(しちり・よりちか)を大将として呼び寄せ、53,000余の兵力をもって府中の長繁への包囲網をしいた。
これに対して長繁は一向一揆と対立していた三門徒衆に応援を要請し、鯖江門徒(誠照寺(じょうしょうじ))は3,000騎、横越門徒(證誠寺(しょうじょうじ))は2,000騎を率いて参戦、府中町人も1,500n軍兵を整えて長繁に味方した。合戦は2月17・18日の2日間、鯖江近辺で繰り広げられた。このとき、長泉寺城に立て籠った一向一揆勢を攻略するために攻め上った長繁は、寝返った味方の兵に後方から鉄砲で撃たれて戦死している。24歳であった。(天正2年の一向一揆~長泉寺山の合戦) 鯖江市教育委員会
(写真下:富田長繁の供養塔<2024年5月8日午後訪問撮影>
富田長秀墓碑(歯塚大権現に相隣・平成26年(2014)鯖江市文化財指定)
富田長秀(長繁)(1551年~1574年)
近江国小谷城での戦の折り、朝倉家から反して織田家に仕え短期間であるものの越前守護職に就いていた中世の武将。天正元年(1573)に朝倉家が滅亡した後、織田信長より府中城主(現・福井県越前市)に任命されるが、反旗を翻して土一揆勢と連携して越前を制圧。しかし、その後一揆勢(後に加賀の一向一揆勢と合流)とも対立し孤立。天正2年(1574)2月に、安居(朝倉)景健(あご・かげたけ)、朝倉景胤(かげたね)の寄る長泉寺山の砦を攻撃中、配下の武将・小林吉隆より背後から撃たれた。享年24歳。<鯖江市郷土史など>中道院史によれば、天正元年織田信長が朝倉討伐のため越前に攻め入ったとき、朝倉義景が軍を引くときは、必ず長泉寺に遁れるに違いないと考え、一方の将、安居景健や朝倉景胤らは長泉寺山の字、茶臼山に屯して、同年2月14日、当山を襲撃。これを察知した府中の龍門寺の城主富田長秀は朝倉の遺臣でもあり長泉寺の檀家でもあることからこれを救援しようとしたが、旗下の小林吉隆なるものの謀反によって狙撃され落命してしまう。このため、西泉坊の秀運法印は、その遺体を長泉寺の字、馬市に手厚く葬りその労に報いた。その遺跡は、歯塚大権現の隣にあり、天保8年(1873)7月再建の由緒の石柱がある、との記述あり。
富田長繁(とだ・ながしげ/とんだ・ながしげ)1551年(天文21年)~1574年(天正3年)2月18日。富田家は越前の南仲条郡(現・福井県南条郡)に所領を持つ国衆と思われ、1570年(元亀元年)4月に織田信長の越前侵攻に対して1,000騎を率いて出陣したのが初出。1572年(元亀3年)8月、近江国小谷城でで織田軍と朝倉軍が睨み合っている最中に、前波吉継の織田軍への寝返りに続いて、富田長繁も織田軍に転身。1573年(天正元年)8月に朝倉氏が滅ぼされると、桂田長俊(前波吉継改め)が越前守護代、富田長繁は越前の府中領主にそれぞれ任ぜられるが、1574年(1574年)1月18日に、大規模な土一揆を率いて、一乗谷に侵攻し桂田長俊を殺害し越前を制圧。しかし、その後、一揆勢(後に加賀の一向一揆勢と合流)とも対立し孤立。1574年(天正2年)2月に、10万を超える一揆軍に富田長繁は包囲され始めるも、700人余りの軍勢で一揆勢を一旦は撃退。更に一揆勢を追いかけ奇跡的な勝利を収めるが、府中(現・越前市)から浅水(現・福井市の南部)への進軍から一旦、南に引き返し、これまで一揆軍と富田長繁の合戦を傍観していた安居(朝倉)景健(あご・かげたけ)、朝倉景胤(かげたね)の寄る長泉寺山の砦を攻撃。その最中に配下の武将・小林吉隆より背後から撃たれ戦死。享年24歳。
歯塚大権現(箸塚・経塚)
長泉寺町内では、「はしづかさん」と呼ばれ、天正年間の織田信長の北陸平定や一向一揆の騒乱等で、長泉寺36坊はほとんど消失したが、乱後、村人たちが焼け残りの仏書や経典を集めて土中に埋め、盛られた塚の上に標柱を立てて祀ったのが始まりといわれている。言い伝えでは、徳川三代将軍家光公時代、村人が歯痛に堪えられず日頃使用していた箸をこの塚にお供えして祈願したところ、不思議にも歯痛が治ったとのことで村人の信仰をあつめ、「歯塚大権現」と称して崇拝し、徳川寛永年間(1624~1644)の頃の塚の上に小堂を建立して敬い崇拝したといわれている。また一説によると、柴田勝家公が北陸道を東部に移した折、お堂を東向きに改めたところ、その後災害にあったので、元の西向きに戻したといわれている。<鯖江郷土史などより>