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東アジアの古代文化(古代朝鮮)「公州武寧王陵と王陵園(공주 무령왕릉과 왕릉원)」(韓国忠清南道公州市 충청남도 공주시 )
東アジアの古代文化(古代朝鮮)「公州武寧王陵と王陵園(공주 무령왕릉과 왕릉원)」(韓国忠清南道公州市 충청남도 공주시 )
(写真下:「公州武寧王陵と王陵園」入口前の駐車場付近(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)

(写真下:「公州武寧王陵と王陵園」チケット売り場前(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)
(写真下:「公州武寧王陵と王陵園」チケット売り場前の「鎮墓獣」(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)

鎮墓獣
武寧王陵の入り口で出土した国宝162号の鎮墓獣を、3倍の大きさで制作したレプリカである。鎮墓獣は、古代に墓を守ると考えられていた空想上の生き物で、中国の南北朝時代には、墓の前、または中に置かれた。墓の中にある鎮墓獣は、死者をあの世に導く案内者の役割を兼ねていたものとも考えられる。韓国の古墳では、百済時代の武寧王陵で初めて出土された。
(写真下:「世界遺産 百済歴史遺跡地区 公州武寧王陵と王陵園」(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)

(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」入り口(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)
「公州武寧王陵と王陵園」(2021年に旧称「宋山里古墳群」から名称変更)は、忠清南道公州市熊津洞にある、熊津時代の百済王室の王や王族の陵墓群。高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した朝鮮半島の三国時代(4世紀~7世紀)の百済の歴史は、首都・漢城(現・ソウル)の漢城時代(~475年)、首都・熊津(現・公州)の熊津時代(475年~538年)、首都・泗沘(現・扶余)の泗沘時代(538年~660年)の3期に分けられるが、その中期の百済熊津時代(475年~538年)は、百済22代王・文周王(在位475年~477年)、23代王・三斤王(在位477年~479年)、24代王・東城王(在位479年~501年)、25代王・武寧王(在位501年~523年)、26代王・聖王(在位523年~554年)の5代の王の治世に渡り、538年に26代王・聖王が泗沘(現・扶余)に遷都するまでの63年間の時代。ちなみに、百済熊津時代の王城は熊津城と呼ばれ、公州武寧王陵と王陵園の近くにある巨大な山城の古代城郭である現在の公山城。
公州武寧王陵と王陵園(旧・宋山里古墳群)は、百済熊津期の代表的な王陵として知られ、2015年7月にはユネスコ世界遺産に登録。この旧・宋山里古墳群はほとんど戦前の日本植民統治下での調査によって、その存在が知られていて、当時の記録によれば、約30基以上の古墳が確認されたが、現在は、戦後の1971年に5・6号墳の補修工事の際に奇跡的な世紀の大発見となった武寧王陵及び、戦前の日本植民統治下での調査によって古墳の構造や形式が明らかにされていた1号墳~6号墳の計7基だけが復元されている。公州武寧王陵と王陵園は、標高130mの松山に位置し、東北側の丘陵の上部には1~4号墳が、その西側の傾斜面には、武寧王陵と5 ・6号墳が集まっている。古墳の構造は、百済の伝統的な様式でドーム状の天井の横穴式石室(1~5号墳)と、中国南朝の影響を受けて作られた塼築墳(6号墳と武寧王陵)に大別できる。旧・宋山里古墳群に対する考古学的調査は、戦前の1927年と1932年に行われたものの、1~4号墳は調査前にすでに盗掘されていて、5号墳は1932年に考古学的調査が行われ、6号墳については、物議を醸す現地在住の高校教師だった軽部慈音(1897年~1970年)氏による単独調査が行われ紹介されたが、そのとき既に盗掘されていて遺物は一つもなかったと報告された。1971年に古墳群の排水路を整備する過程で武寧王陵が発見されて、旧・宋山里古墳群に対する更なる考古学的調査が行われることになった。
武寧王陵は、百済第25代王・武寧王(在位501年~523年)の墓で、三国時代の王陵の中で唯一つ、被葬者が明らかになった墓。また、この墓は武寧王とその王妃を合葬した墓。1971年7月、公州武寧王陵と王陵園の梅雨時の被害を防止するために、排水路工事をしていた中、6号墳の隣でレンガ墓の入り口が偶然発見され、入り口はレンガが積まれたまま詰まっていたが、入り口を開けてみると、一度も盗掘されたことのない墓が現れ、発見直後に緊急発掘調査が行われた。墓の内部から被葬者似関する事柄が書かれた墓誌石をはじめ、金銀で作られた多様な装身具、金製冠飾、金製耳飾、金銅製飾履、青銅鏡、石獣など、108件、4,600点の遺物が出土された。武寧王陵の発見後、この重大な遺品を現地に保存展示するため、1973年には公州博物館が大きく新築完成され、武寧王陵から出土された国宝12点と歴史的、芸術的価値が優れた遺物は、「公州武寧王陵と王陵園」近くのの国立公州博物館に展示されている。武寧王陵の発見の経緯や調査、王陵の築造や装身具・副葬品などについては、武寧王陵の現地調査の責任者で当時、韓国国立博物館長であった金 元龍(1922年~1993年) 氏の著書「武寧王陵」(金 元龍 著、近藤出版社、1979年8月発行)にも詳しい。
武寧王陵の発見後は、武寧王陵も周辺を美化し、入り口を設けてガラス壁を通じて羨道・玄室の内部が一時期見られるようになっていたが、その後、王陵内への見学は禁止となり、代わりに、公州武寧王陵と王陵園の園内に、「公州武寧王陵と王陵園の展示館」が設けられ、武寧王陵及び5・6号墳を忠実に再現し、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神図を再現した古墳内部の模型を始め、王陵から出土した副葬品の複製などを展示公開している。武寧王陵出土品で国宝に指定されているのは、武寧王の金製冠飾(154号)、武寧王妃の金製冠飾(155号)、武寧王の金製耳飾(156号)、武寧王妃の金製耳飾(157号)、武寧王妃の金製頸飾(158号)、金製釵(かんざし)(159号)、銀製の釧(腕輪)(160号)、武寧王陵銅鏡一括(3点)(161号)、武寧王陵石獣(162号)、武寧王陵誌石(163号)、武寧王妃の頭枕(164号)、武寧王の木足座(165号)の12点。王と王妃の遺体が安置されていた木棺の中や辺りから見つかった装身具や副葬品や、武寧王陵の羨道に置かれた王と王妃の墓誌が刻まれた二枚の石板である「誌石」などで、国宝以外にも、武寧王陵の羨道の墓誌石の上に置かれていた古代中国の銅銭「五銖錢」や、王の腰の周辺からは王の統治権を象徴する龍と鳳凰で飾られた「環頭大刀」が見つかっている。武寧王と王妃の木棺の材料に日本産コウヤマキが使用されていたことも注目に値する。
(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」入り口(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)
(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」内(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)(*⑦が武寧王陵)
(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」内(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)
(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」内「5号墳と横穴式石室墳」紹介(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)

(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」内「百済を再興した武寧王」像(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)

(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」内「武寧王陵発見」紹介(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)
(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」内「武寧王陵の出土遺物」紹介展示(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)



(写真下:「公州武寧王陵と王陵園の展示館」内「精巧に設計された武寧王陵」紹介展示(忠清南道公州市)、2026年4月5日午後訪問撮影)







