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南越地域の史跡・遺跡「高森藩と高森陣屋跡」(福井県越前市高森町)
南越地域の史跡・遺跡「高森藩と高森陣屋跡」(福井県越前市高森町)
(写真下:陣屋第1公園にある高森陣屋跡を示す案内板(福井県越前市高森町)<*2025年2月2日午後訪問撮影>
高森陣屋跡
元禄10年(1697)紀州藩主 徳川光貞の次男松平頼職(よりもと)は、時の将軍綱吉から越前国丹生郡内で57ヶ村、3万石の領地を与えられ、高森藩が成立した。
宝永2年(1705)頼職は紀州和歌山藩を相続することになり、所領のうち1万石は弟の葛野(葛野)藩主松平頼方(よりかた)(後の将軍吉宗)に加増、残り2万石は松平(本庄)資俊(すげとし)の子 宗長(むねなが)に与えられたが、宗長の跡を継いだ弟の宗胡(むねひさ)も正徳元年(1711)に没し、廃藩となった。この場所は、14年間にわたり、高森藩の陣屋が置かれていたところで高森町上陣屋及び下陣屋地籍にまたがり今も『掘の上、堀の下、牢屋敷』などの地名が残っている。
おおむし地区振興会 大虫地区郷土史クラブ 平成30年(2018)11月
(写真下:高森陣屋跡を示す案内板がある陣屋第1公園(福井県越前市高森町)<*2025年2月2日午後訪問撮影>
高森藩は、延宝8年(1680年)1月17日、紀州藩55万石5千石の第2代藩主徳川光貞(みつさだ)の三男として生まれた松平頼職(よりもと)(後の紀州藩第3代藩主・徳川頼職、1680年~1705年)が、紀州徳川家が御三家の名門ということで、元禄10年(1697年)4月、第5代将軍・徳川綱吉より、越前国丹生郡内に、63ヶ村3万石の所領を与えられて大名となり、越前国丹生郡高森村(現・福井県越前市高森町)に陣屋を置き成立した藩。
紀州藩第2代藩主徳川光貞(1627年~1705年)の長男は紀州藩第3代藩主・綱教(1665年~1705年)、次男は早世した次郎吉(1667年~1679年)、三男は紀州藩第4代藩主を継ぐ前は越前高森藩初代藩主の頼職(1680年~1705年)。次男が早世していることもあり、三男でなく次男とも記される。そして四男が、紀州藩第5代藩主・江戸幕府第8代将軍に就任前は、越前葛野藩初代藩主の頼方(後の徳川吉宗、1684年~1751年)。松平頼職の幼名は長七で、元服して松平頼元(よりもと)と称し、その後、松平頼職に改名。従四位下・左近衛権少将兼内蔵頭の官位を受ける。紀州藩主を継いだ時に徳川頼職となる。
元禄10年(1697年)4月、紀州藩第2代藩主徳川光貞の3男・松平頼職が、5代将軍綱吉から、越前国丹生郡に3万石の所領を与えられ大名となった時、同時に、松平頼職の異母弟の松平頼方(のちの江戸幕府8代将軍・徳川吉宗)も同様に、越前国丹生郡・坂井郡内に、3万石の所領を与えられて大名となり、越前国丹生郡下糸生村(現・福井県丹生郡越前町下糸生)の一地区である葛野に陣屋を置き葛野藩が成立。同時に越前国に成立した高森藩と葛野藩は、共に紀州藩から派遣された少数の家臣によって領知の管理が行われ、当時は地元で「紀州領」と認識され、それぞれの藩主となった松平頼職と松平頼方(後の徳川吉宗)自身は、主として江戸の紀州藩邸に住み、一度も越前国の高森藩・葛野藩領地に下ることは無かった。
宝永2年(1705年)5月に、長兄で1698年に徳川光貞が隠居し家督を継いでいた3代紀州藩主・徳川綱教(つなのり)(1665年~1705年)が41歳で病死し、越前高森藩主の松平頼職が本藩を継ぎ紀州藩第4代藩主に就任ことになり、高森藩は一旦廃藩。その3か月後に徳川光貞が病死。更にその翌月、治政3カ月あまりで、徳川頼職が、同年に病死したため、松平頼方が、22歳で急遽、紀州家を相続し第5代紀州藩主に就任となり、更に1716年(享保元年)に第8代将軍に就任する。
宝永2年(1705年)、松平頼職が紀州藩を継ぎ、高森藩は一旦廃藩となり高森藩領は幕府に収公され御料(幕府直轄領)となるが、4か月後の同年(1705年)10月、遠州浜松藩主松平資俊(本庄松平家)の次男・松平宗長(1687年~1709年)が、旧高森藩領のうち2万石を与えられ本庄松平家高森藩主に就任。「徳川実紀」によれば、本庄宗長の父・資俊は将軍綱吉の母桂昌院の甥にあたり、この2万石新封は桂昌院の遺言によるものだという。本庄松平家の松平宗長は、松平頼職の高森陣屋をそのまま引き継ぎ、代官を派遣して統治したが、一度も高森藩領地に入部せず、在職4年で病死。松平宗長病死後、当時6歳だった松平資俊の6男で宗長の弟・松平宗胡が継ぐも、正徳元年(1711年)に早世し、本庄松平家高森藩も無嗣断絶となる。
尚、旧高森藩領のうち1万石分は、一旦は、葛野藩に加増編入され葛野藩は3万石から4万石になったという説と、葛野藩に一旦加増編入されずに、幕府直轄領のままという説がある。享保5年(1720年)、越前に本拠を置かない高森藩や葛野藩などが越前国に立藩された当時は、越前松平藩が6代藩主の発狂で強制隠居処分となり領地半減により越前の幕府領が大幅に増加していた状況にあった。
高森藩(たかもりはん)
成立:1697年(元禄10年)
廃藩:1711年(正徳元年)<*宝永2年(1705年)に一旦廃藩>
藩主:
<高森松平家 親藩3万石>
初代:松平頼職(後の4代紀州藩主・徳川頼職)
<本庄松平家 譜代2万石>
初代:松平宗長(むねなが)
2代:松平宗胡(むねひさ)
領地:越前国丹生郡63ヶ村3万石
宇須尾村、末野大谷村、中山村、勾当原村、糠石村、黒川村、高佐村、道口村、厨村、茂原村、下河原村、熊谷村、小曽原村、八田新保村、八田村、北山村、上野村、野村、寺村、蝉口村、開発村、乙坂村、気比庄村、持明寺村、小泉村、下大倉村、吉田村、田村、平井村、当田村、有定村、熊田村、鳥井村、下司村、上氏家村、下氏家村、二町掛村、冬島村、和田村、下野田村、上野田村、余田村、本保村、片屋村、上太田村、高森村、上四目村、下四目村、下大虫村、三俣村、上大虫村、横根村、丹生郷村、山干飯杉本村、都部村、中野村、千合谷村、居倉北山村、平等村、樫津村、市村、真木村、四杉村
陣屋:越前国丹生郡高森村(現・福井県越前市高森町)
高森藩は、1697年(元禄10年)に立藩され、1711年(正徳元年)に廃藩となり、旧高森藩領は幕府領となったが、旧高森藩の高森陣屋は、1720年(享保5年)の廃止まで、そのまま近隣幕府領の管理拠点として使われ、23年間、高森に陣屋が置かれた。高森陣屋跡を示す案内板は、現在、陣屋第1公園(福井県越前市高森町)にあり、同公園には、高森陣屋団地案内図も掲げられている。高森町周辺に高森遺跡があり、昭和58年(1983年)の高森陣屋団地造成に伴う発掘調査以来、昭和63年(1988年)までに、計6回の発掘調査が実施され、丹生郡衙であることを示す堀立建物群とそれを取り巻く倉庫群と雑舎が検出され、墨書土器等も出土しているが、この発掘調査では、高森陣屋の遺構は検出されず。
(写真下:高森陣屋団地案内図がある陣屋第1公園(福井県越前市高森町)<*2025年2月2日午後訪問撮影>
<*個人の住宅表示部分は個人情報保護のために掲載写真画像では消去>
(写真下:左側の陣屋第1公園(福井県越前市高森町)周辺の道路<*2025年2月2日午後訪問撮影>
(写真下:陣屋第1公園裏の武甕槌(たけみかつち)神社(福井県越前市高森町)<*2025年2月2日午後訪問撮影>