首都圏における北陸ゆかりの地「分倍河原古戦場碑と新田義貞」(東京都府中市分梅町2丁目)

首都圏における北陸ゆかりの地「分倍河原古戦場碑と新田義貞」(東京都府中市分梅町2丁目)

(写真下:「分倍河原古戦場碑」(東京都府中市分梅町2丁目)<*2025年9月2日午後訪問撮影>

東京都指定旧跡 分倍河原古戦場(ぶばいがわら こせんじょう)
所在地 府中市分梅町2-59  新田川分梅公園
指定 大正8年(1919年)10月
文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘3年(1333)5月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国(こうずけのくに)新田庄(にったのしょう)から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(5月11日)、さらに、久米川の戦で優勢に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(5月15日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日に鎌倉幕府は滅亡した。  平成10年(1998年)3月 建設  東京都教育委員会

新田義貞(1300年頃~1338年)は、元弘3年(1333年)5月の鎌倉攻めに突然登場し、北条高時を権力の頂点とする鎌倉幕府を攻め滅ぼして後醍醐天皇を中心とする建武政府の樹立に貢献し、建武政府の一翼を担うものの、足利尊氏との対立を深め、その後、建武政府に反旗をひるがえして北朝の天皇を擁立し室町幕府を開いた足利尊氏方との抗争で各地を転戦。延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の比叡山からの京都還幸と分れ、新田義貞は、比叡山を下りて恒良・尊良の両親王とともに越前へ下向。これ以降、越前国金ヶ崎の戦い(現・福井県敦賀市)で北朝の足利方の室町幕府に敗北するも、その後は越前の軍事的主導権を握るまでに至るが、南北朝内乱初期の暦応元年(1338年)閏7月に越前国藤島の灯明寺畷(現・福井県福井市)で不慮の戦死を遂げるまで、越前で南朝方の勢力拡大に奔走する。劇的な挙兵と鎌倉幕府を滅ぼした時から一度も生国に戻らず、30数年の生涯の中で、足利尊氏と覇を競い疾駆した5年の後半の約2年間は、越前各地で奮戦し越前で戦死となった北陸・越前と大変ゆかりの深い武将。

新田義貞は、上野国新田荘(現・群馬県太田市周辺)を拠点とする新田氏宗家7代当主・新田朝氏(1274年~1318年)の嫡男として生まれ、文保2年(318年)父・朝氏が45歳で死去したことにより、衰退していた新田氏宗家の家督を継ぎ8代当主となる。生年については判然としておらず、暦応元年(1338年)閏7月の戦死の時に37歳~39歳とも言われていて、出生地についても、台源氏と呼ばれた新田氏4代目・政義の館跡といわれる台源氏館跡が新田義貞誕生伝説地となっており「新田義貞卿誕生地之碑」(群馬県太田市由良町)が建立されているが、新田義貞誕生地は、他にも、新田義貞が育った新田郡生品村反町館(大田市新田地区)説をはじめ、世良田新田館(総持寺)説、碓氷郡榛名町里見郷(高崎市榛名地区)説などがある。

鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、鎌倉幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力が争った元弘の乱(1331年~1333年)の渦中で、新田義貞は、河内楠木正成攻めに参加するなど鎌倉幕府側で参戦したものの、1331年3月、河内千早攻囲陣より倒幕の綸旨を得て帰郷。1331年5月8日、新田荘一井郷の上野国生品明神(現・群馬県太田市新田市野井町)に一族と共に鎌倉幕府打倒の挙兵し、鎌倉に向け利根川を渡り鎌倉街道(上ノ道)を一気に南下し(進路についても最初に東山道を西進したのかどうかなど諸説あり)、関東の反鎌倉勢力を糾合して鎌倉に進攻。激戦の末に、1333年5月22日、挙兵後、わずか15日で鎌倉幕府を滅ぼす第一の勲功を立てる。この新田義貞の挙兵から鎌倉攻めの中で、5月11日、決着のつかなかった武蔵小手指河原の合戦(現・埼玉県所沢市北野)、翌5月12日の新田義貞方の勝利となる武蔵国久米川の合戦(現・東京都東村山市諏訪町)に引き続き起こった重要な合戦が、5月15日・16日の武蔵国多摩川河畔の武蔵府中分倍河原の合戦(現・東京都府中市)。鎌倉幕府軍は武蔵国の最後の要塞である多摩川で新田軍を迎え撃つべく、執権・北条高時の同母弟の北条泰家を大将とする総勢15万の大軍を急遽派遣し、5月15日の戦いでは新田軍を敗退させるが、翌16日の戦いで新田軍に敗れ、一方、勝利した新田軍は、そのまま相模・鎌倉に進撃することになる。

鎌倉幕府は新田義貞蜂起の報を受け、5月10日には、正面からは北条氏一門の桜田貞国(1287年?~1333年)を新田義貞討伐軍の総大将とし、長崎高重等を副将にして武蔵・上野の軍勢が鎌倉街道の上ノ道より入間川方面に出陣し、5月11日、新田義貞軍は入間川を渡り両軍は小手指河原で合戦。この日は決着がつかず新田義貞は三里退き入間川に、鎌倉勢も三里退き久米川に陣をとる。翌5月12日朝、新田義貞軍は久米川に押し寄せ、副将の加冶二郎左衛門入道・長崎高重軍を撃破し、鎌倉勢は分倍河原に退く。鎌倉幕府は衰勢を挽回しようとして新田義貞討伐に本腰を入れ、新田軍を迎え撃つべく北条高時の弟・北条泰家を大将とする総勢15万の大軍を急遽派遣し、分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流。一方で新田義貞は、幕府軍に大軍の増援が加わったことを知らず、5月15日、新田軍は幕府軍に迎撃され、堀兼(現・埼玉県狭山市堀兼)まで敗走。鎌倉幕府軍が新田義貞軍への追撃をせず、その5月15日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が、相模の松田・河村・土肥・本間・渋谷氏らを率いて新田義貞の援軍に駆けつけ、新田義貞軍は翌5月16日未明に分倍河原に押し寄せ、鎌倉幕府軍を急襲して北条泰家以下を敗走させ、この5月15日・16日の二度の分倍河原合戦で、その後の戦局に決定的な新田軍の勝利で終る。

尚、新田氏の子孫で元男爵・新田義美(にった・よしてる:1899年~1969年)氏の筆による「分倍河原古戦場」の記念碑が昭和10年(1935年)に建てられたが、この新田義美氏は、岩松新田家第3代男爵で、祖父は、幕末の慶応4年(1868年)に尊皇・倒幕を掲げた新田勤王党(新田官軍)の新田俊純(1829年~1894年)。このJ「分梅河原古戦場碑」は、東京都府中市分梅町2-59-1に建ち、R南武線・京王線の分倍河原駅南口の駅前ロータリーに建つ分倍河原合戦を題材にした「新田義貞公之像」の銅像が建つ場所からは約1kmの距離の新田川分梅公園にある。

(写真下:「新田川分梅公園」(東京都府中市分梅町)内の緑道・遊歩道案内図<*2025年9月2日午後訪問撮影>*北が下方の地図

(写真下:「分梅碑」(東京都府中市分梅町)がある分梅駐在所交差点近くの案内板<*2025年9月2日午後訪問撮影>

旧鎌倉街道散歩
旧鎌倉街道散歩は、永山駅から府中駅までの約6.5kmのみちのりです。「いざ鎌倉」で知られる鎌倉街道は中世の軍路。北条氏と新田氏の合戦の舞台となった関戸・分倍河原古戦場跡をはじめ、鎌倉街道沿いの史跡・旧跡をめぐる散歩道です。
北条氏と新田氏の戦い
建久3年(1192年)源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その後 北条氏が実権を握ると、鎌倉街道の要衝として政治・軍事・交通の面で府中はこれまでに増し重要な地位をしめるようになった。また、多摩川は北に対する防備線として、軍事上 特に重要視されていた。武士の争乱の続く中で、元弘3年(1333年)上州(上野国)新田荘に倒幕の旗を揚げた。新田義貞は5月16日 分倍河原に北条泰家率いる幕府軍を急襲した。これが分倍河原の戦いである。多摩川をひかえた北の防衛戦を破られた北条氏は、新田勢の進撃を防ぎきれず鎌倉に攻め込まれ、滅亡の道をたどった。

分梅
分梅(ぶばい)は、現在の分梅町一・二・三・四・五丁目の一部(鎌倉街道=分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、 「新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。 分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移ったあと分倍河原に進出したといわれています。古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ、「ぶんばい」と呼ばれていたこともありますが、近世以降には「分梅」が多用されています。地名の起こりは、不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説があります。

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