京都における北陸ゆかりの地「上善寺の長州人首塚と禁門の変の越前藩」(京都府京都市北区鞍馬口通寺町東入ル上善寺門前町)

京都における北陸ゆかりの地
「上善寺の長州人首塚と禁門の変の越前藩」(京都府京都市北区鞍馬口通寺町東入ル上善寺門前町)

(写真上:上善寺(京都府京都市北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町)<*2023年11月22日午後訪問撮影>

上善寺の境内東側にある墓地内には「長州人首塚碑」があり、元治元年(1864年)の7月19日に起こった禁門の変において、鷹司邸附近で亡くなった長州藩士の入江九一はじめ、原道太・半田門吉・奈須俊平・田村育蔵・緒方弥左衛門・小橋友之輔と無名の1人計8名を、当時、堺町御門警衛隊長であった越前藩桑山十蔵が主君松平春嶽(1828~1890)の許しを得て、1712年以来、越前藩の菩提寺であったこの寺に葬ったもので、明治38年(1905年)、旧長洲藩主毛利家により塚周辺が整備された。

上善寺の墓地に「長州人首塚」があるが、墓地の一角が基壇とその上の石の柵で区切られ、柵内に四角柱の暮石(正碑)が立っている。正碑は、高さ47cm X 幅 19cm X 奥行19cm で、北側の表には、「長州人首塚」、西側の側面には、「元治元年甲子七月十九日於堺町御門御持場討取者也」と刻む。墓石(正碑)の横には、ついたてのような碑(副碑)がある。建立年は1907年で、高さ98cm X 幅 120cm X 奥行12cm。副碑には、「上善寺境内長州人首塚碑  元治甲子之変越藩士与長藩士  戦於   皇城堺町門獲首八級越  藩軍務官桑山十蔵葬之於此建  石標之然経年所之久世人知者  太尠明治三十八年福井県人田  辺政之助偶見此塚報之毛利公  邸公聞之派人攷覈事実而得知  其姓名者七人曰贈正四位入江  九一曰贈従四位原道太曰贈正  五位半田門吉曰贈正五位奈須  俊平曰田村育蔵曰緒方弥左衛  門曰小橋友之輔其餘一人未有  所考公命修塚域寄祭資当寺永  祈冥福野衲謹記事由以諗後人  明治四十年九月  上善寺見住載誉運外誌 」と刻まれている。

この一行13字詰めで、明治40年(1907)9月に建立されたと記される副碑の碑文の大意は、”元治元(1864)年の蛤御門の変で越前藩士は長州藩士と御所の堺町御門で戦い,敵の首八級を獲た。越前藩軍務官桑山十蔵はその首をこの地に葬り石標を建てた。年月を経る間にこのことを知る者は少なくなった。明治38年,福井県人田辺政之助がたまたまこの塚を見つけ,毛利公爵に報告した。公爵はこのことを聞いて,人を派遣して調査させた。その姓名を知ることができたのは贈正四位入江九一,贈従四位原道太,贈正五位半田門吉,贈正五位那須俊平,田村育蔵,緒方弥左衛門,小橋友之輔で,残る一人は未詳である。毛利公爵は塚を整備することを命じ,当寺に供養料を寄附され永く冥福を祈ることになった。わたくし(上善寺住職載誉運外)はこの経緯を記して,後世の人に示すものである。”

この首塚のいわれについては、『京都石碑探偵』(伊東宗裕 著、2004年、光村推古書院)によれば、『京都維新史跡』(1928)という書物には以下の様に記されているとのこと。”当寺の墓域には、春嶽侯の情誼に依り葬れる長州人首級と標せる石碑ありしを、明治36年(1903年)山口県人桂半助なる人之を発見せしが、何人の首級なるや不明なりしを、苦辛の結果漸く当時の生存者たる越前藩士軍務官桑山重蔵翁の実況談に依つて之を明らかにせり。曰く、「元治元年7月19日堺町御門の変にて越前藩の為に囲まれし益田右衛門の幕下久坂義助、入江九一、半田門六、原道太、那須俊平、田村育造、小橋友之助、緒方弥左衛門等大争闘の後何れも割腹憤死せしを、主君越前守春嶽侯は、当時越前藩隊長なりし予に命じ、『敵とは云へ何れも皇国の為に働く盡忠の士、首級を清めて厚く葬れよ』と、当藩の菩提寺たる上善寺へ密かに葬り、『長州人首級』と標したり」云々。其後有志に依つて改修せられ、爾後年忌には法会追祭を執行せらる。此塚に葬られたる八氏の氏名左の如し。 入江九一弘毅 原道太盾雄 半田門吉成久 那須俊平重任 田村育造直道 小橋友之助以義 緒方弥左衛門真澄 外一名未詳”

(写真下:上善寺 <*2023年11月22日午後訪問撮影>

上善寺 じょうぜんじ <案内板より>
千松山遍照院(せんしょうざん へんしょういん)と号する浄土宗の寺院である。貞観5年(863)、僧円仁により、天台密教の道場として千本今出川(上京区)に創建されたと伝えられている。その後、文明年間(1469~87)に、春谷盛信(しゅんこく せいしん)によって再興され、後柏原天皇の勅願寺として栄え、文禄3年(1594)、寺域を現在の地に移し、浄土宗に改められた。
地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁(おのの たかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、「鞍馬口地蔵」「深泥池地蔵」「姉子の地蔵」などの愛称で親しまれている。この地蔵は、当初、小幡の里に祀られていたが、保元年間(1156~59)に、洛北の深泥池のほとりに祀られ、更に当寺に移されたものといわれている。毎年8月22日・23日の京都六地蔵巡りには、多くの参拝者で賑う。 京都市

尚、長州人首塚と正碑に刻まれてはいるものの、姓名が明らかな8名のうち、長州藩士は、吉田松陰から高く評価され、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた入江九一(いりえ・くいち)(1837~元治元年(1864)7月19日)で、他には、原道太(1838~1864)と半田門吉(1834~1864)は久留米藩、那須俊平(1807~1864)は土佐藩、小橋友之助は讃岐高松藩士など、尊皇攘夷派ではあるが長州藩士ではない。半田門吉(はんだ・かどきち)(1834~1864)は名は成久で久留米藩士。尊攘運動に関わり文久3年(1863)天誅組の挙兵に加わるが敗れて長州に潜伏し元治元年(1864)7月19日、禁門の変で戦死。

境内の長州人首塚は、住職の家の裏の墓にあり、無断では行きづらく、2023年11月22日午後訪問時には訪ねることができなかったものの、ネット上では、境内の長州人首塚の写真はいろいろと見つけることができる。


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