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北陸ゆかりの作家による作品 第8回 「死が美しいなんて だれが言った」(広津里香 著、光文社)
- 2026/7/23
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北陸ゆかりの作家による作品 第8回 「死が美しいなんて だれが言った 思索する女子学生の遺著」(広津里香 著、光文社)

「死が美しいなんて だれが言った ー 思索する女子学生の遺書」(広津里香 著、<カッバ・ブックス>光文社、1977年1月発行)
廣津里香(ひろつ・りか)略歴(*1938年~1967年)<本書略歴紹介>
1938年 東京・渋谷に生まれる。
1956年 金沢大学付属高校卒
1957年 津田塾大中退
1962年 東京大学教育学部社会教育卒
1963年 東京大学新聞研究所卒
1965年 早稲田大学大学院英文学修士課程修了。
1967年12月12日 油絵制作中 シンナー慢性中毒による悪性貧血のため死亡
本書著者の広津里香(本名・広津啓子、1938年2月~1967年12月)は、1938年、東京・渋谷区富ヶ谷町に生まれ、1967年、油絵制作中に再生不良性貧血が悪化し、29歳の若さで、東京都田無市の救急病院で急逝した画家、詩人。1951年、父親が金沢大学工学部教授として金沢赴任に伴い、金沢に転居し、中学・高校時代を金沢で過ごす。1ヶ月間だけ、金沢市立紫錦台中学に転入し、1951年4月、国立金沢大学付属中学2年生に編入試験合格。1953年4月、国立金沢大学付属高校に入学し、1956年3月、金沢大学付属高校を卒業。その後は、1957年に津田塾大中退、1962年に東京大学教育学部社会教育卒。1963年、東京大学新聞研究所卒、1965年に早稲田大学大学院英文学修士課程修了と東京で学業を修め、大学院修了後は、東京の家で詩作、絵画を描くが、創作活動を始めた中学・高校時代を金沢で過ごしたこともあって、石川近代文学館でも石川県ゆかりの文学者として取りあげられている(尚、家族が父親の転勤で金沢を離れるのは、1960年5月6日)。また、広津里香顕彰活動として、広津里香記念 高校生による「創作詩」募集と入賞作品展の活動が、主催・石川近代文学館、共催・石川県立図書館により続けられている。
著者は、数多くの日記をはじめ、詩や絵画を残して亡くなるが、1967年12月の没後、遺族により、翌年の1968年12月に「Note de vivi」私家版、1969年12月に「詩画集 量られた太陽」私家版刊行を皮切りに。詩画集『広津里香詩集 量られた太陽』(ポエットリー出版部、1970年12月) 『広津里香詩集』(思潮社、1972年11月)、詩画集『黒いミサ』(思潮社、1975年1月)が刊行され、その後の1977年1月に、本書の手記『死がうつくしいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書』(昭和52年)が、光文社カッパブックスより刊行される。その後も、『画帖 黒いミサ』(思潮社、1977年6月)、『詩集 白壁の花』(思潮社、1979年2月)、『画帖 不在証明』(思潮社、1980年11月)、『生への手記』(思潮社、1983年9月)、『不可能な儀式 生への手記』(思潮社、1984年6月)、『死が美しいなんてだれが言った』(潮出版社、1986年4月)、『広津里香詩集 蝶の町』(沖積舎、1987年6月)、『私は優雅な叛逆者 生への手記』(創樹社、1989年2月)、『蝶への変身 生への手記』(創樹社、1990年10月)など、 十数冊の著書が家人の手によって刊行される。
本書の手記『死がうつくしいなんてだれが言った 思索する女子学生の遺書』は、著者が残した日記から抜粋し編集されたもので、月日と曜日の記載があり、年の記載はないが、文章の内容などから、高校時代から大学時代、大学院時代、大学院卒業後の時代にまたがるものと分かる。本書以外の著書では、特定の時期の日記が数冊刊行されているが、本書では、カバーする時期が長い分、日記の内容が相当に省略されていて、1日分の日記でも割愛されれいる記述がたくさんある。著者の残された日記類から、掲載内容も、出版社の編集部による抜粋編集によるが、本書タイトルや各章の章立てなども、出版社の編集部によるもの。本書のサブタイトルに「思索する女子学生の遺書」と付けられていて、自死ではないものの、日記類を読むと、早くから、死の意識が非常に強いことがすぐに分かる。著者の日記類や詩集、画集などは、生前は公刊されてはいなくて、文字通りの遺稿ながら、詩はもちろんのこと、日記類の文章も、一つの作品として発表する気持ちは、あったようで、1965年に早稲田大学大学院英文学修士課程修了後は、外出の機会も無く、家にこもりっきりで、メモ帖を整理し、1965年12月末まで日記を元にして、「Viviのノート」、小説等を清書していたとのこと。本書の構成は11章に分かれ、日記の文章が時系列に沿い抜粋編集されている。編集本書の「まえがきにかえて」は、娘を若くして亡くした母・廣津松枝 氏による文章が収められていれ、この文は、1968年に書かれた「母の書簡」より抜粋された文章。表紙カバーの裏表紙では、「あなたはもういない」と、父の広津萬里 氏が、娘の死について述べている。本書の表紙や各章の扉絵は、広津里香氏による作品。
第1章「明日なんか欲しくない」は、金沢大学付属高校の高校2年の時の日記から始まっている。日記を英文の文章から始め、Viviというフランス風の名前の少女に装って、思いのたけを語ろうとしている。「明日という言葉の空しさを知る者に」「雪」「私はいやだ」「アジアの17歳」と、自作の詩が第1章に登場するが、”私はいやだ 花瓶のなかで花開くのは“”私はいやだ 金網のなかで呼吸するのは”などは、分かりやすく、閉塞的な環境で束縛の多い暮らしに嫌気が指している日記の文章も多く見られる。「明日という言葉の空しさを知る者に」という詩にも現れているように、高校時代で作っている著者の繊細な感性や世の中を冷徹に見据え、詩や文章で表現する言葉に驚いてしまう。「チボー家の人々」の登場人物のジャックへの共感、心酔ぶりも際立っている。”「チボー家の人々」を読んで行って、ジャックが死んだ時、私も死んだような気がした。ああ!ジャック!私もある意味で貴方の生き方をすると分かっているから。生まれつき何も感じず暮らしていく愚鈍な人間が一杯いる。その人たちと違うということ、決して同じ線で考えることはないということが分かるだろうか?・・私は滅茶苦茶に破壊したい。私に不合理と思えるもの。慣習で動いている人たちが全面的に頼っているものを。”。
高校2年生の日記で、”死ぬのは自由だ。私の自由意志で死ねるのだわ。人間には自分で自分の生を断つ権利ぐらいある。死刑のように他人の生命を断つ権利はだれにもないけれど。私はいつだって思ってる。今自殺しないで、後で死なないでよかったと思う時など来やしないと。断じて来ない。それなのになぜ生きてるのだろう。何のために生きるのか。・・・”などと、「生」と「死」についても思索しているが、「生」と「死」についての思索は、高校時代だけでなく、その後もずっと続いている。自分の方向が決まっていないと、進路の悩みは、やはり大きいが、”外国の大学で建築を学びたい。美術建築を。思い思いのくだけた、個性的な服装をして学生たちが歩いている石の廊下。私は石の廊下を歩きたい。”とも記しているが、著者の日本嫌い、ヨーロッパ好みはずっと一貫して変わらない。自分自身については、”Viviは我儘で強情っぱりで天之邪悪。Viviは全身傷だらけだけど誰にも見せない。自分でも気づかないように振る舞える。決して泣きはしない。理由が無くて泣くのなら分かる。私は泣かない。叫びはするが。Viviは殻をまわりにはりめぐらしている。誰にも入れない。その殻はとっても厚いのだ。Viviだったつつくものがなかったら殻などはりはしなかったでしょう。”と分析している。
金沢の高校卒業後は、1年のブランクがあって、1957年に津田塾大入学、同年中退、1958年に東京芸術大学建築科を希望するが、芸大受験中に気分が悪くない途中退出し、母親が内緒で願書を出していた学芸大学英文科に入学。1960年に東京大学教育学部社会教育科3年に編入。1961年に東京大学新聞研究所合格し、新聞研究所1年となる。1962年に東京大学教育学部社会教育卒。1963年、東京大学新聞研究所卒、早稲田大学大学院英文学修士課程合格。1964年にフルブライト試験に合格するが、教授の推薦状の不備で留学できず。1965年に早稲田大学大学院英文学修士課程修了。早稲田大学教育学部の助手の話があったが、募集しないことになり勤務できず、海外留学も実現せずに家にこもり、日記、小説類を清書し、1966年には、アパートを借り、部屋を閉めきって、夜、独学で油絵を描き始める。
嫌いだった金沢を離れ、東京での大学生生活も、ヨーロッパの大学での建築を学ぶという希望は実現できずに、日本嫌いなまま、不本意な日々を送っていたようで、それでいて、著者は非常にオシャレで、生活を楽しむ様子も日記には登場する。第2章の「青春が美しいなんて誰が言った」から、第3章「私は愛する、全身で」、第4章「反攻するのだ」、第5章「運命がほほえみかけようと」、第6章「可能性にかけて」は、1959年から1962年頃の大学時代の日記。安保反対デモや加熱する大学紛争の1960年は、著者が東大教育学部3年に編入した年で、1960年の日記には、樺美智子(1937年~1960年6月15日)の安保闘争での死亡事件のことや、浅沼稲次郞(1898年~1960年10月12日)暗殺事件のことが取りあげられている。この頃の1960年8月21日の日記では、”ああ私をどうかして、こんな状態から出して!。。私は終ってしまった。何もかも中途半端のまま。外国で勉強することはできなかった。好きな勉強ももうできない。・・酒や煙草や男の子そんなものも今はだめ。私はそれ以上の何かが欲しい。生活は欲しい。何も私にはききめはないのだ。私からとり上げた私の生命を返し、そして私に世界を”と、焦燥感にあふれた落ち込んだ気分の記述があるが、似たような気分の書き込みは少なくない。
『私は優雅な叛逆者 生への手記』(創樹社、1989年2月)のタイトルにも使われた「私は優雅な反逆者」という章タイトルは第7章ながら、本書では、第9章の「汚れゆく魂よ」の中で、”今や私は優雅な反逆者。”という表現が使われている。1963年~1965年の大学院時代や、大学院卒業後、社会に出ること無く、家に引きこもり、日記ノート類の清書や、詩作、絵画の創作で過ごす時期が、本書の終盤の第8章「透明に、より透明に」、第9章「汚れゆく魂よ」、第10章「帰りつく場所がない」、第11章「ノートを閉じよう」の日記の時期。章タイトルからだけでも、不安を感じるタイトルだが、第9章の「汚れゆく魂よ」の最後はの1965年3月16日では、”私は日本に私の心を汚れさせたくはなかった。・・とにかく何にも関わりを持たないようになる。ちょっとの間だ。もうすぐ。そして、みんな死ぬ”とあるが、目にみえる現実の日本や日本人に、彼女の感性からは我慢ならないくらい不快に写ることが多く、絶望に近い気持ちの表出も少なくない。本書の最終章「ノートを閉じよう」の終末は、もう仮装舞踊会の必要はないと言い、風を恐れる風の娘と言い、シャンソンの抜粋で、Viviのnoteを閉じている。
目 次
まえがきにかえて・・・母・廣津松枝(ひろつ・まつえ)1、明日なんか欲しくない
2、青春が美しいなんて誰がいった
3、私は愛する、全身で
4、反抗するのだ
5、運命がほほえみかけようと
6、可能性に賭けてきた
7、私は優雅な反逆者
8、透明に、より透明に
9、汚れゆく魂よ
10、帰り着く場所がない
11、ノートを閉じよう註釈(本文中*印)
あとがき
廣津里香略歴











