南越地域の寺社「藤垣神社」(福井県越前市本多3丁目)
南越地域の寺社「藤垣神社」(福井県越前市本多3丁目)
(写真下:「藤垣神社」(福井県越前市本多3丁目)<*2024年10月17日午後訪問撮影>
藤垣神社(ふじがき じんじゃ)
江戸時代の府中領主本多家の初代富正を祀った神社。富正は、戦国時代に荒れ果てた府中の町並みを整備し、産業を保護奨励し現在の市街地の基礎を築いた人物で、神社には富正ゆかりの刀・鎧などが残されている。
(写真下:「藤垣神社」(福井県越前市本多3丁目)<*2024年10月17日午後訪問撮影>
藤垣神社
御祭神 本多伊豆守従五位下富正公
富正公は大織冠内大臣藤原鎌足の御子孫で本多助秀八代の孫本多孫左衛門重富の長男である。元亀3年(1572)三河国大平(愛知県岡崎市大平町)に生れられた。15才の時から、徳川家康の次男秀康(この時13才、後の福井藩主松平中納言秀康)の相談役となって幾多の功績をあげられた。
慶長5年(1600)の関ケ原の役には秀康に従って関東を守り宇都宮に陣取って上杉景勝を押え武功を立てられた。翌6年の春、家康、伏見に於て軍功を賞せられるに当り、秀康を越前藩主に封ぜられた。富正公は特に家康の肝入りで附家老として越前に入り府中3万9千石の城主となった。以来慶安2年(1649)78才でなくなられるまで約50年間当地方の民政に貢献された。
当時、越前は多年兵乱の後で、荒廃著しかったので、富正公は住民の福祉を計り、産業を奨励し、道路を開き、荒地を開拓し用水を通す等大いに民政に手腕を発揮された。例えば府中(武生)の町用水、亀用水、中井部用水を作ったり、鯖江の鳥羽野の開拓に手をつけられたりした。又、九頭竜川から芝原用水を引いて福井城下に導き坂井郡浜口郷村の片川悪水を改修し、松岡では芝原用水口が元覚堤のよび方で記念されているように水利についてすこぶる手腕を振るわれた。一方、絹屋、織屋、鍛冶屋、酒屋の株をさだめて、産業を保護奨励しその後の織物生産や地方産業に大いに貢献された。
越前藩の国家老として代々府中城(現・福井県越前市府中)に居館した本多氏は越前藩主松平氏の家臣ではあったが、幕府における待遇は大名格をもって遇され、江戸に邸宅を与えられ、城中では柳之間詰の格式を誇った。府中本多家は初代富正以降も明治維新にいたるまで9代・270年間にわたって府中を治め、また福井藩の筆頭家老として代々の藩主に仕えている。この府中領主本多家初代当主が本多富正(1572年~1649年)で、藤垣神社は、本多富正を祀った神社。藤垣神社は、府中本多家が、1864年(元治元年)吉田家から神位を得て、越前府中の本多家館内(現・福井県越前市蓬莱町)に本多富正を奉祭したことに始まるが、明治維新後、本多家とともに東京に移された。1882年(明治15年)、あらためて旧館内に戻され、藤垣神社と称されることとなった。明治15年(1882年)が本多富正を祀る藤垣神社の創建年。藤垣神社の社名は越前府中城(1575年~1872年廃城、別名は越府城)が藤の垣がめぐらされていて愛称は藤垣城と呼ばれていたことに由来すると言われる。1932年(昭和7)、道路拡張等のため現在地(現・福井県越前市本多3丁目)に移転となった。
藤垣神社が祀る府中領主本多家初代当主本多富正は、徳川家康の嫡子信康に仕えた本多孫右衛門富房の嫡子として元亀3年(1572年)、三河国大平村(現・愛知県岡崎市大平町)で生れる。幼名は源四郎。幼にして叔父本多作左衛門重次(1529年~1596年)の薫陶を受ける。天正12年(1584年)小牧長久手の戦和睦の時、徳川家康の子於義丸(のちの結城[松平]秀康)は羽柴秀康の養子として大阪に遣わされ、この時、本多重次の長子仙千代(のちの本多成重)らが付き添うが、翌1585年、本多重次は仙千代を戻し、代わりに兄の孫左衛門重富の長男源四郎(のちの富正)と交代させる。秀康12歳、源四郎(のちの本多富正)14歳の時で、秀康と富正主従の縁が生まれ、源四郎改め富正は日夜忠勤に励み、股肱の臣となる仕え、九州島津氏・小田原北条氏の平定、肥前名護屋への出陣、関ヶ原の戦いに関与、大阪の陣に出兵し活躍。天正18年(1590年)秀康が下総結城晴朝の養子となり10万石の家督を相続した時、富正もこれに従い結城に移り、初めて知行百石を与えられる。以降、度々加増される。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの結果、秀康は越前68万石が与えられ、慶長6年(1601年)秀康・富正が越前入国となるが、本多富正は越前府中に封じられて知行高36,750石を受ける(慶長16年(1611年)富正、従五位下に叙し、伊豆守に任じられ、3万9000石に加増)。元和9年(1623年)には越前藩主・松平忠直の隠居と豊後国配流が決まり、翌元年(1624年)に富正は、6282石加増され、4万5282石となる。正保二年(1645年)10月、74歳で隠居し元覚斎と名乗る。慶安2年(1649年)8月12日没す。享年78歳。慶長6年(1601年)以降、府中領主本多氏代々の菩提寺となる龍泉寺に葬られる。本多富正は福井藩の初代秀康以来、忠直、忠昌、光通に至る福井藩4代の藩主に仕え、慶安2年(1649年)78歳で没するまで、1601年から約半世紀にわたり、福井藩の国老、府中の領主として越前の復興と民政の安定に努めた。
(写真下:「藤垣神社」(福井県越前市本多3丁目)<*2024年10月17日午後訪問撮影
藤垣神社
・府中領主本多家初代当主本多富正を祀る
・県指定 刀無銘(左文字)附打刀拵
・市指定 紙本金地著色 千鳥の屏風、徳川秀忠黒印状、徳川家康黒印状
藤垣神社 越前市教育委員会
福井県指定文化財 千鳥の屏風 六曲一双、刀 無銘(左文字)附打刀拵 一口
越前市指定文化財 徳川家康黒印状 一通、徳川秀忠黒印状 一通
藤垣神社自体は、明治15年(1882年)創建と、非常に新しい神社ではあるものの、本多富正を祀る神社として、本多富正にまつわる本多家伝来の重宝が所蔵されている。慶長12年(1607年)本多富正が14歳から近侍してきた主君秀康(1574年~1607年)が死去した際、将軍秀忠、及び大御所家康から本多富正の殉死を禁じる黒印状がそれぞれ、前者は本多伊豆守宛、後者は越前守年寄中宛に発せられたが、この徳川家康黒印状と徳川秀忠黒印状を藤垣神社が所蔵。また、駿府城の普請手伝いに本多富正が越前からの人足をつれ富士山中から御用木を切り出し沼津まで引き出したことを徳川家康が喜んで、徳川家康から関ヶ原の戦いで帯びた秘刀大左文字を拝領し家宝となったと伝える名刀が藤垣神社に奉納されている。尚、本多家に所蔵されてきた金箔地を背景に芦が風になびき千鳥が舞う屏風は、大阪夏の陣で一番乗りを果たした本多富正が大阪城千畳敷大広間から奪い切ったものとも言われてきたが、この話の真偽は不明。
k(写真下:「藤垣神社」(福井県越前市本多3丁目)<*2024年10月17日午後訪問撮影>
写真上:「藤垣神社」内の「追遠歸厚」の石碑(福井県越前市本多3丁目)<*2024年10月17日午後訪問撮影>