- Home
- 北陸地域関連書籍, 「越」関連書籍紹介, 北陸対象の図録・資料文献・報告書
- 北陸関連の図録・資料文献・報告書 第18回 「阿波賀 ~越前一乗の入江、唐人の在所~ 」(編集・発行: 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館)
北陸関連の図録・資料文献・報告書 第18回 「阿波賀 ~越前一乗の入江、唐人の在所~ 」(編集・発行: 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館)
北陸関連の図録・資料文献・報告書 第18回 「阿波賀 ~越前一乗の入江、唐人の在所~ 」(編集・発行: 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館)

「阿波賀 ~越前一乗の入江、唐人の在所~ 」(編集・発行:福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館、2025年7月発行)
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 令和7年度 夏季特別展「阿波賀 ~越前一乗の入江、唐人の在所~ 」
主催:福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館
会期:令和7年(2025年)7月19日(土)~8月31日(日)
会場:福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(福井県福井市安波賀中島町8-10)
本書は、令和7年(2025年)7月19日(土)~8月31日(日)までを会期として、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(福井県福井市安波賀中島町8-10)にて開催された、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 令和7年度(2025年)夏季特別展「阿波賀 ~越前一乗の入江、唐人の在所~ 」(主催:福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館)の図録で、編集・発行は、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館で、2025年7月発行。戦国城下町の一乗谷というと、どうしても、朝倉氏が新たに作った町としての、上城戸と下城戸に挟まれた区画で、朝倉館のある「城戸の内」だけをイメージしてしまうが、戦国城下町の一乗谷は、成立の契機や性格がまったく異なる5つの町、朝倉館のある「城戸の内」、上城戸の外の「東新町」「西新町」、さらに谷の奥の「浄教寺」、下城戸の外の「阿波賀(あばか)」から構成されていて、本書展示会図録では、下城戸の外の阿波賀の土地の歴史にスポットをあて、阿波賀の様々な顔について、貴重な歴史資料や美術工芸品、出土品などを通じて紹介している。本書では、一乗谷城跡上空から日本海を望むページ大の航空写真がまず掲載され、日本海の三国湊に流れる足羽川沿いにあり、周囲をぐるりと囲む高い山稜と細長い谷の一乗谷の「城戸の内」の下城戸の外に広がる阿波賀の絶妙なロケーションがよく分かる。
本書図録には、第Ⅰ章から第Ⅳ章の本文構成の前に、最初に小野 正敏(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館特別館長)氏執筆による【特論】「阿波賀 ー城戸の外のもう一つの町」が収められているが、まず、奈良の興福寺大乗院で室町時代に門跡を務めた尋尊・政覚・経尋が三代に渡って記した日記『大乗院寺社雑事記』に、阿波賀がもつ独特の位置と機能、景観が端的に表現されている記事があると紹介。明応の政変(1493年)により管領の細川政元により室町幕府の将軍を廃位され幽閉されるが京都を脱出し越中に逃れ再起の機会をうかがっていた10代将軍・足利義稙(1466年~1523年、初名は義材(よしき)、越中亡命時に義尹(よしただ)に改名)が上洛を試みる途次に、明応7年(1498年)9月、三代・朝倉貞景の治世の一乗谷に入った時のことで、越中御所(足利義尹)が、明応7年(1498年)9月1日、従者13人と共に「越前一乗の入江、唐人の在所」「一乗の阿波賀在所」に入り、翌2日、朝倉貞景は朝倉教景(後の宗滴)を遣わして足利義尹を迎え、含蔵寺(がんぞうじ)」に入れたと記されている。この記録から、阿波賀には入江があり、唐人が住んでいたこと、含蔵寺という寺があったことがわかるが、入江は足羽川から入り込んだ川湊で、唐人は中国や朝鮮出身の人々のことで、含蔵寺については、特定の権力に属さない「公界(くがい)所」との記録があるとのこと。この「越前一乗の入江、唐人の在所」との記述の言葉が、本書のサブタイトルにも付されている。
本書冒頭の【特論】「阿波賀 ー城戸の外のもう一つの町」では、阿波賀がもつ独特の位置と機能、景観について、①「一乗の入江」=川湊と美濃街道 ②「無縁・公界の地」 ③首都一乗谷の経済センターであること ④唐人町の存在、という4点を挙げている。美濃街道は北ノ庄から北国街道と一乗谷を結び、さらに美濃へと継ぐ街道であり、水運は、日本海航路の拠点三国湊から北ノ庄を経て一乗谷を結んでいた足羽川から入り込んだ川湊であった。一乗谷の前段階、黒丸城時代には三代城主・氏景の次弟・茂景が「阿波賀」を名乗り、阿波賀の地に拠を置き、足羽川流域の流通拠点を抑えていく朝倉氏の重要な一翼を担ったことや、またこの阿波賀の地が足羽川上流山間部に広がる近衛家宇坂庄の西端に位置し、宇坂庄や周辺の物資の集散地として政所的な機能を有していたと思われ、1068年、御冷泉天皇が帝都(平安京)東北鬼門鎮護として創建され、以来御冷泉の勅願所となり、”国中第一の大社”として毎年勅使の参向が行われたという縁起が伝わる阿波賀春日神社(福井県福井市安波賀町)も宇坂庄の立庄とともに勧請された存在だったのだろうと記している。考古学的にも阿波賀の発掘調査から、一乗谷に先行した鎌倉時代からの湊町の存在を裏付けていて、このことが越前の首都を一乗谷に誘因した大きな要因であったとも述べられている。ただ、一乗谷において発掘で解明されたのは城戸の内の部分に偏っていて、城戸の外の考古学情報はひどく貧弱ではあるが、まだ城戸の外の世界が発掘可能な状況で残っていて、山城を含め、戦国一乗谷全体の豊かな歴史景観が今後明らかになることへの期待が述べられている。
本書第Ⅰ章「世界とつながる一乗谷」では、中国大陸や朝鮮半島、東南アジア、さらにはヨーロッパで作られた製品が一乗谷から出土していることから、物流を通して一乗谷は世界とつながり、一乗谷の城下町における窓口が、阿波賀の地であったことに触れているが、一乗谷城下町と外界との協会でもあり接点である阿波賀が独特の機能と景観を持っていたことについては、本書第Ⅱ章「阿波賀の系譜」で詳述されていて、この本書第Ⅱ章の部分が、本書の中で、阿波賀の多様な機能と魅力を包括的に一番よく伝えてくれる箇所かもしれない。本書第Ⅱ章「阿波賀の系譜」では、まず、「1. 朝倉氏の源流と阿波賀」として、朝倉氏が一乗谷に城下町を築く以前から、近衛家領宇坂庄内の中心的な場所であったと考えられ、その地名は、朝倉氏の故地である但馬国(現在の兵庫県北部)の粟鹿(あわが)神社(粟鹿明神)(兵庫県朝来市山東町粟鹿)が、室町時代のはじめ、朝倉氏の鎮守として分祀されたことに由来すると考えられていると紹介。ただ、その分祀された社地は阿波賀春日神社の前身とも奥宮とも言われているが、明らかではないとのこと。一乗谷の中でも歴史が古く、朝倉氏の故地とゆかりの深い阿波賀は、朝倉氏が戦国大名として台頭していく上で重要な合戦の舞台ともなっている。初代朝倉孝景が同族内の反対勢力を一挙に排除し総領家の越前における地歩を固めた戦いとなった長禄元年(1457)に始まり長禄3年(1459)に及んだ長禄合戦では、その終盤の長禄3月2月21日に、阿波賀城戸口合戦が起こっている。
本書第Ⅱ章「阿波賀の系譜」では、「2.川湊と唐人」の項に次いで、「3.無縁・公界の地」の項では、京都の清水寺に法華堂(朝倉堂)を寄進し、一乗谷の南陽寺の方丈を再興するなど、善行を多く積んだ人物として知られる三代・朝倉貞景が、永正4年(1507)8月の一向一揆勢との合戦で討死した亡魂の菩提のために、翌年、阿波賀に経堂を建立し、毎年4月、10日間、110人の衆僧を集めて、法華経千部を暗誦させる法会「千部会」が恒例行事になっていたことが「賀越闘諍記」に記されていることが紹介されている。経堂の建立場所として阿波賀が選ばれたのは、「無縁・公界の地」という阿波賀の性格にあったと考えられているとのことで、この経堂の場所については、平成29年(2017)に実施した福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館整備に伴う発掘調査で、経堂の敷地を区画したと推測される石垣と堀が出土し、その実在が確認されたとのことで、「経堂跡」出土品もこの特別展に出展された。本書第Ⅱ章「阿波賀の系譜」の「4. 阿波賀見物」の項では、天文12年(1543)、当時、一乗谷に滞在していた高名な儒学者で祖父にあたる清原宣賢を訪ねて、京都から若い学者の清原枝賢(きよはらのえだかた)が一乗谷を訪ねているが、この越前への旅の様子が清原枝賢の日記『天文十二年記』に記されている。具体的に何を見物したかは記載がないものの、阿波賀を見物していて、春日神社や西山光照寺などの社寺や、商店が軒を連ねた活気ある市中を見物したものと想像される。本書第Ⅱ章「阿波賀の系譜」では「5.商業の町」「6.景勝の地」と、様々な機能の紹介が続いていて、永禄5年(1562)8月に朝倉氏最後の朝倉義景が一乗谷で、京でも絶えて久しい曲水宴を盛大に催したことは広く知られているとは思うが、城戸の内での宴とばかり思い込んでいたが、この曲水宴は、下城戸の外の阿波賀で催されたことを本書で知った。
本書第Ⅲ章「西山光照寺跡と鏡屋」の章では、もともと阿波賀に所在し、戦国時代の一乗谷で屈指の規模を誇っていた西山光照寺跡(福井県福井市安波賀中島町)の往事の繁栄ぶりがうかがえる出土品が出展され、また、西山光照寺跡の門前に残る地字「鏡屋」は、西山光照寺の北庄(現在の福井市)移転後の同寺を支えた有力檀家との関連が説かれ、博物館整備に伴う発掘調査では、戦国時代の阿波賀の字「鏡屋」で暮らした商人や職人の姿を物語る数多くの遺物が出土しており、これらの出土品も出展。光照寺は、現在は「福井大仏」として知られ福井市花月1丁目にあるが、もともとは阿波賀にあり、創建は平安時代に遡るともいわれ、長禄合戦で朝倉氏一族の争いに敗れた鳥羽将景(初代孝景の叔父)の菩提を弔うために再興されたと伝わり、西山光照寺跡地(福井県福井市安波賀中島町)には今も約40対の大型石仏が立ち並んでいるほか、発掘調査では立派な石垣や、陶磁器の優品が出土している。西山光照寺跡の発掘調査では、破片数にして6万1千点を超える遺物が出土したとのこと。天正元年(1573)朝倉氏が滅亡すると、西山光照寺は、阿波賀ヵら北庄(現在の福井市)に末寺も一緒に移転していったが、西山光照寺が北庄に寺地を賜るのが慶長11年(1606)、新たな堂宇が完成するのが慶長16年(1611)と伝わることから、阿波賀の町が姿を消すのには、30~40年ほどの過渡期があったのではと、「阿波賀の移ろいと「鏡屋」」と題したコラム②の中で推察されている。
本書第Ⅳ章「阿波賀の残照と記憶」の章では、戦国時代、一乗谷城下町と外界との結節点として異彩を放った阿波賀が、天正元年(1573)に朝倉氏が滅亡するとその意味を失い、物資の集散地として栄えた町並も、一乗谷の多くの地区と同様、急速に耕作地へと変貌を遂げたようで、どのようになったかははっきりとは分かっていないものの、今に残る地名や伝承に、土地の記憶として往時の様子を伝えるものがある例を挙げている。ここでは、「阿波賀を掘る」と題したコラム③が充実していて、阿波賀地区における、数次にわたる発掘調査について発掘調査の実測図を含めて詳細な報告が掲載されている。加えて、現在の安波賀・安波賀中島村の地字の一覧が地図と共に掲載され、数次にわたる発掘調査のエリアも地図上で確認できるのが有難い。このコラム③「阿波賀を掘る」では、一乗谷朝倉氏遺跡は、約278haが国の特別史跡に指定され、発掘調査と遺跡整備が計画的に進められているが、これまでに発掘調査が行われた面積は、半世紀以上を経た現在でも指定範囲全体の5%あまりに過ぎず、しかも、その大部分は、上下の城戸で仕切られた一乗谷川の平地部が対象で、城戸の外側や山城跡はほとんど手つかずのまま残されているとの驚くべき報告が為されている。下城戸跡の外側に位置する阿波賀地区についても、特別史跡の指定範囲が西山光照寺跡や春日神社の所在する山麓から山間部に限られることもあり、本格的な発掘庁舎は数カ所にとどまっているのが現状とのこと。
本書最後には、阿波賀に関するテーマではないものの、トピックとして「一乗谷の鉛はどこから !? ー戦国時代の流通研究最前線 ー 」と題したレポートが付されていて、コラム④「一乗谷朝倉氏遺跡出土の鉛資料について」とコラム⑤「一乗谷朝倉氏遺跡出土の鉛地金の産地を探る」が詳しい。一乗谷における鉛の使用実態とともに、鉛地金の原料産地推定も行われている。形態ごとに原料産地が異なり、様々な産地の鉛地金が一乗谷に持ち込まれていることが確認でき、その中には、タイのカンチャナブリ県近郊の鉛鉱山産と思える鉛地金もあるとのこと。朝倉館のある「城戸の内」、上城戸の外の「東新町」「西新町」、さらに谷の奥の「浄教寺」、下城戸の外の「阿波賀」という、戦国城下町の一乗谷を構成する5つの町のうちの一つで、一乗谷の奥の上城戸の外の「淨教寺」が、谷の奥にある砥山からの砥石の採掘と販売に関係した町で、刀剣用砥石として全国にその名がとおる経済価値が高い商品で、商品化された砥石は、阿波賀から足羽川経由で三国湊に運ばれ、北国船に載り日本海沿岸に流通していたという事が、本書の最初の「特論」の箇所で紹介されていて、このことも阿波賀のことではないが、初めて知って驚いた。
目次
ごあいさつ。・・・福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 館長 湯川 直
目次・凡例
特論 阿波賀 ー 城戸の外のもうひとつの町・・・小野 正敏(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館特別館長)
1. 一乗谷、五つの町
2. 下城戸の外の町、阿波賀
3. 唐人町の住民たち
まとめにかえて
第Ⅰ章 世界とつながる一乗谷
第Ⅱ章 阿波賀の系譜
1. 朝倉氏の源流と阿波賀
2. 川湊と唐人
3. 無縁・公界の地
4. 阿波賀見物
5. 商業の町
6. 景勝の地
コラム① 秋に心を寄せた義景の曲水宴・・・藤田 若菜(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館)
第Ⅲ章 西山光照寺跡と鏡屋
コラム② 阿波賀の移ろいと「鏡屋」・・・宮永 一美(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館)
第Ⅳ章 阿波賀の残照と記憶
コラム③ 阿波賀を掘る・・・田中 祐二(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館)
トピック 一乗谷の鉛はどこから !? ー 戦国時代の流通研究最前線 ー
コラム④ 一乗谷朝倉氏遺跡出土の鉛資料について・・・川崎 雄一郎(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館)
コラム⑤ 一乗谷朝倉氏遺跡出土の鉛地金の産地を探る・・・三浦 麻衣子(帝京大学文化財研究所)
関連年表
出品目録
主要参考文献
謝辞












