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北陸関連の図録・資料文献・報告書 第2回 令和元年度 富山県公文書館企画展「富山藩主、勢ぞろい!ー初代 利次から13代 利同まで 」資料
北陸関連の図録・資料文献・報告書 第2回 令和元年度 富山県公文書館企画展「富山藩主、勢ぞろい!ー初代 利次から13代 利同まで 」資料
「富山藩主、勢ぞろい!ー初代 利次から13代 利同まで 」資料(2019年10月発行)
令和元年度 富山県公文書館企画展「富山藩主、勢ぞろい!ー初代 利次から13代 利同まで 」
会期:2019年(令和元年)10月3日(木)~11月3日(日)
会場:富山県公文書館(富山県富山市茶屋町33-2)
本資料は、平成から令和へと改元された節目の年、2019年に、富山県公文書館(富山県富山市茶屋町)にて、同年10月3日から11月3日まで開催された企画展資料。2019年からちょうど380年前の1639年(寛永16年)に、富山藩(政庁は富山城)は、加賀藩から越中国婦負郡、新川郡の一部、加賀国能美郡の一部からなる10万石を分知され立藩し、藩主の12回の「代替わり」があり、13人の藩主が登場。この企画展では、富山県公文書館所蔵の史資料を中心に、初代藩主利次から最後の藩主13代利同までのすべての富山藩主を取り上げ、歴代藩主の治世や人物像、それぞれの治世下での事件やトピックスなどを6部構成で紹介。尚、この企画展の資料は、パンフレット資料全20頁、富山県公文書館ホームぺージの刊行物の頁で無料公開してくれているのは有難い。
富山藩は、おおむね神通川流域にあたる地域を領有した石高10万石の藩で、立藩の時点で過大な家臣団を抱えたため人件費が財政を圧迫。そのため、上方や飛騨の豪商らの他、加賀前田家からも多大な借財を抱え、また、急流河川による水害や大地震などの自然災害、城下の大半が焼失した大火からの復興、莫大な出費を強いられた度重なる公儀普請手伝いの中、藩主たちは、家臣のリストラや新田開発、特産品の開発を進め、江戸時代を通して、なんとか10万石の所領を治め続けた。
富山藩の領域は、1639年の加賀藩からの分知立藩の時は、藩領が分散していたため、1660年(万治3年)に加賀藩と領地を交換して富山町を藩領として、富山町周辺に領地をまとめ、この結果、富山藩の領域は、おおむね、神通川流域の越中国中央部となっている。まず、富山藩の領域は、藩の名前から、越中国や現在の富山県の領域をイメージしてしまいがちだが、婦負郡全域と新川郡の一部だけで、越中国、現在の富山県の東部の新川郡の大半や、西部の砺波郡や射水郡は加賀藩領のままで、鉱山や穀倉地帯を持たず目玉産業もない財政的にもともと厳しい小藩。前田利家・利長父子の加賀前田家が加賀能登越中3国(能登約21万石・加賀約44万石・越中約53万石の計約120万石)を領有していたが、1639年に、加賀藩3代藩主前田利常の自らの隠居と富山藩・大聖寺藩の2支藩を創立する願いを幕府が許可し富山藩10万石、加賀最南部の大聖寺藩7万石が分藩。
5代富山藩主・前田利幸の治世での財政再建のための様々な施策の一つとして、加賀藩領の射水郡放生津などからの魚荷を取り締まり、また農具、仏具は加賀藩領の高丘の鋳物師ではなく、富山金屋町の鋳物師から買い付けるように奨励し、富山藩外への通貨流出を減らそうとしたことが、本資料で紹介されているが、今の富山県射水市放生津や富山県高岡市が、富山藩領域ではなく、他藩の加賀藩領だったという事。
富山藩歴代藩主
初代:前田利次(としつぐ)(1617年~1674年、藩主在位1639年~1674年)
2代:前田正甫(まさとし)(1649年~1706年、藩主在位1674年~1706年)
3代:前田利興(としおき)(1678年~1733年、藩主在位1706年~1724年)
4代:前田利隆(としたか)(1690年~1744年、藩主在位1724年~1744年)
5代:前田利幸(としゆき)(1729年~1762年、藩主在位1745年~1762年)
6代:前田利與(としとも)(1737年~1794年、藩主在位1762年~1777年)
7代:前田利久(としひさ)(1761年~1787年、藩主在位1777年~1787年)
8代:前田利謙(としのり)(1767年~1801年、藩主在位1787年~1801年)
9代:前田利幹(としつよ)(1771年~1836年、藩主在位1801年~1835年)
10代:前田利保(としやす)(1800年~1859年、藩主在位1835年~1846年)
11代:前田利友(としとも)(1834年~1853年、藩主在位1846年~1853年)
12代:前田利聲(としかた)(1835年~1904年、藩主在位1854年~1859年)
13代:前田利同(としあつ)(1856年-1921年 藩主在位1859年~1871年)
(*13代藩主・前田利同は、版籍奉還の1869年から廃藩置県の1871年迄は富山藩知事)
富山藩230年、13人の藩主のうち、初代富山藩主の前田利次(としつぐ)(1617年~1674年、藩主在位1639年~1674年)は、加賀前田第3代・加賀藩第2代藩主前田利常(1594年~1658年)の2男で、富山藩前田家の始祖。ちなみに前田利常の長男・光高(1616年~1645年)は加賀藩第3代藩主で、2男・利次は富山藩初代藩主、3男・利治(1618年~1660年)は大聖寺藩初代藩主。当初は百塚(現・富山市百塚)に富山藩の新城を築城予定で、仮の城下として富山を加賀藩から借り受け富山城に入るが、その後、百城築城は財政上からも難しく実現できないまま、既存の富山城と城下町の整備を進め統治体制も固めていくことになる。
初代藩主・利次の第2子として生まれた富山藩2代藩主・前田正甫(まさとし)だけが、富山藩歴代藩主13代の中で、名前に”利(とし)”が使われていないが、この2代藩主・前田正甫は、富山の売薬を広めた殿様として知られ、現在の富山城址公園に銅像が立っていることからも馴染みが深い。また、富山藩歴代藩主の墓所、長岡御廟は、百塚築城を夢見ていた初代藩主の父の前田利次を、百塚山に隣接した長岡(富山市八ヶ山)に前田正甫が弔ったのが始まり。富山藩歴代藩主の中でも気になる藩主の1人が、第3代藩主・前田利興で、1706年に家督を相続以来、数々の財政再建のための改革に取り組むも、在位13年、1723年、45歳の時に、土蔵に籠り誰とも会わず参勤を欠怠するようになり、藩内が動揺し、翌1724年に隠居となったが、気になる引きこもった原因は分かっていない。
財政再建のための様々な施策に取り組んだ第5代藩主・前田利幸が34歳の若さで亡くなり、家督を継いだのが4代藩主・利隆の4男の6代藩主・利與(としとも)。藩主に就いた翌年(1763年)、小藩の富山藩に幕府より多額の出費を要する日光東照宮修復手伝いを命じられたりと、厳しい目に遭いながら、1773年、時期尚早との声がある中、藩主・利與の強い意志により、宗家加賀藩の明倫堂より20年早い創設となる、富山藩藩校・広徳館を創設。6代藩主・利與は持病の脚の病気が悪化し途中で隠居し、5代藩主・利幸の長男・前田利久に藩主の座を譲るが、7代藩主・前田利久は27歳で若死。6代藩主・利與の長男として生まれた8代藩主・利謙(としのり)も35歳で若死。利謙の跡継の2男の利保(のちの10代富山藩主)が幼少だったため、大聖寺藩から迎えた養子の利幹が後を継ぎ9代富山藩主となったが、在位34年の1835年、藩財政が悪化する中、病気を理由に隠居する。
そして、1835年に家督を継いだ第10代富山藩主・前田利保も、財政再建に取り組むも、1846年に病気を理由に隠居し、6男の利友に家督を譲るが、本草学・博物学に打ち込んでいた利保は、学者大名としても知られ、学問以外にも武芸にも励み、和歌や能楽にも優れていた利保は富山藩主の中でも傑出した文化人といえると、本資料では評価。ただ、一旦、隠居はしたものの、幕末の混乱期に、前田利保は再び藩政に関わってくることになる。前田利保の側室・毎木(元の名の梅を崩して称す)も11代藩主利友、12代藩主利聲の母となり、政治に介入する(江戸詰め家老富田兵部と不義が噂されてもいたが、1857年の富田兵部一件で多くの関係者が処分された中に、毎木も含まれた)。ペリー来航半年後の1853年12月に、第11代藩主・利友が財政再建が進まない中、歴代富山藩主の中で最も短い生涯の20歳の若さで亡くなる。
11代藩主・利友の弟の利聲(としかた)が第12代藩主として跡を継いだが、この頃、富山藩の財政状況は、たびたびの改革も実らず破綻状態に陥り、藩財政と改革をめぐり、第12代藩主・利聲らの江戸派と、第10代藩主・利保らの富山派に藩内が割れて大きな混乱が生じ、お家騒動が起こることになる。1857年、富田兵部一件が起こり、多くの富山藩士が処分されたこの事件をきっかけに、前田利保が再び政務をとることになり、1859年には、第12代藩主・利聲を隠居させ、その跡には、歴代の富山藩主の中で最年少のわずか3歳で、加賀藩13代藩主前田斉泰の9男として生まれた前田利同が、最後の富山藩第13代藩主となった。藩主はまだ幼少のため、富山藩へ派遣された加賀藩家老が一時期、藩政を指導することになるなど、富山藩政は、本藩加賀藩の影響を強く受け津とともに、改革をめぐり、新たに生じた内部の対立を抱えて、幕末の動乱期を不安定な状況が続くことになっていく。
立藩の時点から財政が圧迫されていながら、水害や大地震などの自然災害、大火からの復興、莫大な出費を強いられた度重なる公儀普請手伝いの中、産業振興、新田開発、支出削減など、いかにして、歴代の富山藩主たちが財政再建に取り組んできたか、本資料全編を通じ、藩財政の問題が非常にずっと深刻だったことが良くわかる。また、本資料の最後の第6部では、「廃藩後の藩主と富山」と題し、1871年の廃藩置県後、現在の富山県が1883年(明治16年)に誕生するまでの変遷だけでなく、明治以降に存命した旧藩主は12代・前田利聲(1835年~1904年)と、13代・前田利同(1856年-1921年)で、それぞれの富山藩廃止後の生涯について説明が付されている。
目 次
開催にあたって
はじめに
1.17世紀の藩主 初代 利次(としつぐ)・2代 正甫(まさとし)
2.18世紀前半の藩主 3代 利興(としおき)・4代 利隆(としたか)・5代 利幸(としゆき)
3.18世紀後半の藩主 6代 利與(としとも)・7代 利久 (としひさ)・8代 利謙(としのり)
4.19世紀前半の藩主 9代 利幹(としつよ)・10代 利保(としやす)
5.19世紀中頃の藩主 11代 利友(としとも)・12代 利聲(としかた)・13代 (としあつ)6.廃藩後の藩主と富山
おわりに
◇主要参考文献
◇関連年表
◇企画展示資料一覧