北陸の神社 「金崎宮と摂社・絹掛神社」(福井県敦賀市金ヶ崎町)

北陸の神社「金崎宮と摂社・絹掛神社」(福井県敦賀市金ヶ崎町)

(写真下:金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町)<*2026年7月31日午後訪問撮影>


(写真下:金崎宮の「金崎宮縁起」案内板(福井県敦賀市金ヶ崎町)<*2026年7月31日午後訪問撮影>

金崎宮縁起
祭神 

本宮 金崎宮
尊良親王 後醍醐天皇第一皇子、
恒良親王 後醍醐天皇皇太子
摂社 絹掛神社

藤原 行房、新田 義顯、氣比 氏治、氣比 斎晴、瓜生 保、瓜生 義鑑、里見 時成、里見 義氏、由良 具滋、長浜 顯寛、武田 與一
以下殉難将士

由緒 
當宮は敦賀市の市街地の東北に位置し、元官幣中社の社格である。
この金崎山は氣比大宮司氏治の居城でもあり 延元2年(1337)3月6日落城す。その時 城中に在られた尊良親王は自刃され、義顕、氏治らの将兵3百余人も殉じ果てた。皇太子恒良親王は逃れられるも 後に幽閉され、翌年京都にて他界される。
金崎城落城後556年を経て明治26年(1893)、敦賀の人々の熱烈なる請願によって尊良親王、恒良親王を祭神に社号を金崎宮として鎮座されたのが本宮である。又落城の時、殉難した将士を祀る絹掛神社は、これら将士の子孫が有志を募り手続きを経て明治30年(1897)創立認可を受けて設立されたお社である。この金崎城趾は昭和9年(1934) 史蹟として文部省より指定を受け、月見御殿の旧趾、焼米出土地、経塚のあと、木戸掘切の旧趾などあり、由緒の地である。 金崎宮

(写真下:金崎宮入口の「金ヶ崎案内」図(福井県敦賀市金ヶ崎町)<*2026年7月31日午後訪問撮影>

金崎宮案内
金ヶ崎は南北朝時代や戦国時代に戦いの場となった城跡で、境内には後醍醐天皇の皇子を祀る「金崎宮」が創建されている。この境内のほとんどが金ヶ崎城跡にて、昭和9年(1934)3月に国の史跡に指定された。城跡には木戸跡(城戸とも書き防御施設のひとつ)や急峻な斜面等が自然の地形を利用した山城の面影を残している。現在の城跡は公園として整備され、周回することが出来る。殊に最高地の月見御殿跡(86m)からの見晴らしは素晴らしく、条件がよければ遠く越前海岸まで望むことが出来る。また、春には桜が美しく咲き誇り、桜の造花を交換する「花換まつり」が開催される。  贈  敦賀みなとライオンズクラブ  管理者 金崎宮社務所

金崎宮(かねがさきぐう)は、金ヶ崎城址(福井県敦賀市金ヶ崎町)の麓にあり、後醍醐天皇第一皇子の尊良親王と、後醍醐天皇皇太子の恒良親王 を祭神とする神社で、建武中興十五社の一社。旧社格は官幣中社。1336年(延元元年)5月、九州で再挙した足利尊氏(1305年~1358年)が、5月25日の摂津国湊川(現・神戸市)の戦いに勝利し、敗走する新田義貞(1300年頃~1338年)を追って、5月29日には足利方が京都を占領し、6月14日には足利尊氏が再入京を果たすが、楠木正成(?~1336年)戦死の報を知った後醍醐天皇(1288年~1339年)は、足利尊氏の再入京以前の5月27日には、新田義貞らと共に既に京から比叡山に脱出し、再び京をめぐり足利方と激戦を展開する。足利尊氏側の圧倒的な攻勢の前に勝利の見込みを失った後醍醐天皇は、足利尊氏の和睦の提案を受け入れ、1336年(延元元年)10月10日、比叡山を下山して入京する。その際、後醍醐天皇は後醍醐天皇側の中核軍の大将である新田義貞に命じ、後醍醐天皇の2人の皇子・恒良親王(1325年~没年不明)と尊良親王(?~1337年3月6日)を奉じて、北陸道の鎮撫、官軍再興のために越前に下向させた。敦賀の気比神宮の大宮司気比弥三郎氏治(?~1337年3月6日)に迎えられ、1336年(延元元年)10月13日、越前国金ヶ崎・天筒山(現・福井県敦賀市)に入城する。

新田義貞の金ヶ崎入城直後、越前国守護・足利高経(斯波高経)(1305年~1367年)率いる北朝方は金ヶ崎城を包囲するが、守りの堅い金ヶ崎城を攻めあぐね、兵糧攻めを行い、翌1337年(延元2年)正月、足利尊氏は高師泰(?~1351年)を大将に各国の守護を援軍として派遣し、1337年1月18日、足利軍の大軍は金ヶ崎城を総攻撃するが、三方を海で囲まれた要害の金ヶ崎城をなかなか落とせず。ただ籠城戦も限界があり、1337年2月には、杣山城の瓜生保(?~1337年2月)が脇屋義助の子・脇屋義治(1323年~?)らとともに、援軍を組織し後方から金ヶ崎城の包囲軍の足利方に攻撃をかけるが、救援に失敗し敗退。新田義貞、脇屋義助、洞院実世は援軍を求めるため、二人の皇子と新田義貞の長男・新田義顕(1318年?~1337年3月6日)らを残し、兵糧の尽きた金ヶ崎城を脱出し杣山城に向かったが、再び金ヶ崎城へ戻ることはできず。1337年3月3日、足利方の大軍が金ヶ崎城に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、1337年3月6日、金ヶ崎城は落城。尊良親王(享年27歳)・新田義顕(享年18歳)・気比氏治などは自害。将士3百余人が共に亡くなる。金ケ崎城落城の直前に、気比氏治の子・気比斉晴(?~1337年3月6日)は、金ヶ崎城の浦の浜手から恒良親王を小舟に乗せ、自らは泳ぎ舟綱を身体に結びつけ脱出し蕪木浦まで渡り、親王を浦人に托し、再び泳ぎ戻って金ヶ崎城兵の傍らで殉死。ただ、金ヶ崎城落城の翌日3月7日は、恒良親王は蕪木浦にて、捕らえられ、北朝足利軍の島津駿河守忠治が迎えに行き、金ヶ崎城に戻された。「太平記」では、その後、恒良親王は京都に護送され、花山院に幽閉され、1338年4月13日に弟の成良親王と共に毒殺された(享年15歳)と伝えられるが、真偽は不明。

尚、「太平記」には、後醍醐天皇が比叡山を下山する直前、皇子である恒良親王に三種の神器を譲って受禅の儀が行われ譲位した、と語られ、恒良親王が即位して新天皇になったことが書かれるが、歴史上としては、恒良親王が自身を新帝と認識し綸旨の形式の文書を発給していたということが確認できるだけで、正史では、恒良新天皇は認められていない。比叡山で受禅の儀が行われ、恒良親王が即位し新天皇となり、越前金ヶ崎城で、「白鹿(はくろく)」の年号を称し、束の間の北陸朝廷が誕生したとする見解もある。尚、「太平記」では、後醍醐天皇の講和受け入れと新田義貞の越前下向のいきさつについては、新田義貞に図らずに新田義貞と一族を見捨てるような後醍醐天皇の足利方からの和睦受入に、一番驚いたのが新田義貞で、新田一族の堀口貞満(?~1338年)が涙ながらに後醍醐天皇に抗議し新田義貞の思いを代弁したため、後醍醐天皇はこれに感じて皇太子恒良親王に皇位を譲位し、新帝恒良を新田義貞に託して越前に託して越前に下らせ反攻の時を待つことになったと記されている。

明治の時代に至り、明治23年(1890年)6月4日、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、同年9月11日、尊良親王を祭神とし、宮号を 金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出され、同年12月11日地鎮祭執行。明治25年(1892年)11月16日には恒良親王を本宮に合せ祀らるべき旨仰出される、明治26年(1893年)3月13日創立工事が竣成。同年5月5日、勅使参向鎮座祭及び奉告祭を 執行。同年5月6、7日両日祝祭を執行し爾来毎年5月6日を以て例祭と定められた。明治27年(1894年)12月4日、金ヶ崎城落城当時の殉難将士の子孫有志やその他有志の発起により、本宮摂社として殉難将士奉祀の請願があり、明治30年(1897年)4月6日 摂社創立の件が認可され、直に造営工事に着手し、同年10月19日、社号を金崎宮摂社絹掛神社として摂社鎮座祭及奉告祭を執行。爾来この日を以て摂社例祭日に定める。しかし、明治36年(1903年)3月28日、町内の出火による敦賀大火の際、類焼し本殿以下三棟炎上。明治38年(1905年)再建に従事し、この際 山を拓き谷を埋め、もともと山の高所に鎮座していた本殿以下を現在の位置に移し、建築様式も流造より神明造に改められた。明治39年(1906年)3月31日 再築工事竣成。同年4月5日正遷宮祭を、同年4月6日、7日に臨時大祭を執行。

境内神社には、絹掛神社(摂社)以外に、朝倉神社(末社)と愛宕神社があり。朝倉神社(末社)の祭神は、朝倉景冬、朝倉景豊、朝倉教景、朝倉景紀、朝倉景悦、朝倉景恒、朝倉道景で、戦国時代末期、朝倉義景と織田信長との対立に、朝倉義景は金ケ崎等に城を築き来襲に備えたが、元亀元年(1570年)4月、織田信長は天筒・金ヶ崎両城を攻略し、朝倉景恒を降伏せしめた。朝倉神社はここに城を構えた文明3年(1471年)より降伏するまでの朝倉氏6代と一子の御霊を祀った社。愛宕神社の祭神は、火産霊大神、伊弉諾命、天熊大人命で、古くから愛宕大権現と尊称し、地方郷土の崇敬が篤く、火防の神と崇め、領主酒井藩・松平福井藩よりも社殿の造営には寄進あったとされる。

(写真下:摂社 絹掛神社(福井県敦賀市金ヶ崎町)<*2026年7月31日午後訪問撮影>

摂社 絹掛神社の由来
延元2年(1337)3月6日 金ヶ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将 新田義顯以下321名の武士が自刃した。祭神はその人達である。氏名の判明する者僅かに十数名、大半の人は近畿、中国四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少くはない。籠城5ヶ月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立向った壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。

(写真下:摂社 絹掛神社(福井県敦賀市金ヶ崎町)の「鎮魂之碑」裏面 <*2026年7月31日午後訪問撮影>

萬世一系を誇るわが国の歴史で同時に2人の天皇が併立せられた南北朝57年 国内が大混乱に陥った暗黒の時代であった。その一方で、天皇の神聖を絶対視する日本人の伝統精神が見事に発揮されたのもこの時代である。南(宮方)と北(武家方)との熾烈な戦ひが全国の各地で始まった延元2年 この金ヶ崎城でも激しい攻防戦が行われたが、戦ひはわずか一日で幕を閉ぢ、結果は南朝方の完敗に終った。南北合戦史上 最も悲惨な出来事であった。星霜ここに650年 時の流れは滔々として尽きることがない。南北二つの朝廷に分れ、生死を賭して争ったのも、今はただ歴史の舞台に現れたドラマのひとこまに過ぎず、勝敗も亦 時の運と言へよう。
この碑を建て、神霊を慰め奉ることを申出られた加藤氏は足利高氏の末裔を自認する人。滅亡の悲運に泣いた南朝及びそれに従った人々に深謝するとともに、不幸にして敵同士となって、戦場の露と消えた彼我の諸英霊鎮魂のために真心を捧げる決意をされた。その思ひは遠く鎌倉幕府の北條氏にまで及ぶと云ふ。金崎宮との直接のつながりはないが、その志は諒とせねばならぬ。時の隔りに介意せず、恩讐さえもこのうるわしい企てに深く賛意を表し、謹んで鎮魂の辞とする。

(写真下:金崎宮 社務所内(福井県敦賀市金ヶ崎町) <*2026年7月31日午後訪問撮影>

(写真下:朝倉神社(末社)(福井県敦賀市金ヶ崎町) <*2026年7月31日午後訪問撮影>

(写真下:愛宕神社(福井県敦賀市金ヶ崎町) <*2026年7月31日午後訪問撮影>

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