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首都圏の中の北陸ゆかりの地「矢代操と明治大学発祥の地」(東京都千代田区銀座5丁目2)
- 2024/4/25
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- 矢代操, 岸本辰雄, 宮城浩蔵, 明治法律学校, 明治大学
首都圏の中の北陸ゆかりの地
「矢代操と明治大学発祥の地」(東京都千代田区銀座5丁目2)
(写真上:「明治大学発祥の地」(東京都千代田区銀座5丁目2)<*2024年3月25日午後訪問撮影>
明治大学発祥の地
明治法律学校(現明治大学)は、明治14年(1881)1月17日に旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校した。創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の3人は、貢進生として鳥取藩、天童藩、鯖江藩を代表して大学南校に進学し、つづいて明法寮でボアソナードにフランス法を学んだ。その後フランスに留学し、とくに「権利自由、独立自治」の精神の普及をめざして本学を設立した。当時彼らはいずれも30歳に満たぬ白面の書生であった。
(写真上:「明治大学発祥の地」案内板(千代田区銀座5丁目2)<*2024年3月25日午後訪問撮影>
明治大学発祥の地(深溝(ふこうず)松平家上屋敷跡
かつて外濠川に面したこの付近には、1691年(元禄4年)以来、肥前島原藩(現在の長崎県)などを治めた深溝(ふこうず)松平家の上屋敷が置かれていました。明治維新後、屋敷は、政府の収用を免れて貸し出されることになり、民権結社による演説会などが盛んに催されました。1881年(明治14年)1月17日、若き法律家である岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操は、屋敷の一部を借り受け、同心協力して明治法律学校(明治大学の前身)を開校し、1886年(明治19年)に神田区駿河台南甲賀町(現在の神田駿河台)へ移転するまで、我が国の近代化を担う法曹の育成に努めました。1995年(平成7年)、同地に「明治大学発祥の地」碑が建立されました。 千代田区
・創立期の明治法律学校(想像図) ・明治大学駿河台キャンパス(2019年)
・青丸が現在地付近。北側囲みが上屋敷地
(写真上:「明治大学発祥の地」碑と案内板<*2024年3月25日午後訪問撮影>
尚、明治大学創立者の一人・矢代操については、本サイト内の記事「明治大学創立者矢代操先生旧宅跡(福井県鯖江市屋型町2-1)と「矢代操先生胸像」(福井県鯖江市長泉寺町1-9)で紹介。
矢代操先生について <明治大学創立者・矢代操先生旧宅跡地にある明治大学による説明文>
1852(嘉永5)年6月20日、鯖江藩士、松本柔次郎(伝吾)の3男として生まれた。幼名を美太といった。藩校進徳館で学び素読掛に命じられる。1869(明治2)年 鯖江藩士、矢代家の養子となり第7代当主となった。翌年(1870)、明治政府により優秀な人材育成を目的として設置された貢進生に、鯖江藩からただ1人選抜された。全国から選ばれた貢進生の数は350名、ここで、明治大学の創立者となる岸本辰雄、宮城浩蔵と出会った。この頃、同じ鯖江藩士の娘と結婚、操と改名した。大学南校(東京大学の源流)を経て、1874(明治7)年 司法省明法寮(司法官僚の養成を目的として設置された学校、後に司法省法学校と改称)に転じ、ボアソナードやブスケよりフランス法律学を学んだ。1876(明治9)年卒業、法律学士の称号を得た。
卒業後、岸本や宮城たちはフランスに留学し、他の者は官僚の道へと進んだが、矢代先生のみは、在野にとどまり法律学の教育の道を選んだ。それは、自由や権利の本当の意味を国民が知るためには法律学の普及が必要であるとの考えからであった。講法学社で講師と幹事として教育と経営に携わると同時に、時習社において『法律雑誌』の発行にかかわった。1880(明治13)年に岸本と宮城がフランス留学から帰朝した後は、2人に諮り、また講法学社で事務経験のある斎藤孝治を幹事として明治法律学校の設立にこぎつけた。1881(明治14)年1月17日を創立日、当時の麹町区有楽町3丁目1番地の旧島原藩邸を誕生の地とする。法律学の普及にあたって、矢代先生は「教ユルハ学フノ半ナリ」をモットーとして教育に情熱を注ぎ、日本人で日本人を相手に法律学を教えた最初の人物として評価されている。先生は、また地方の学生のための通信教育にも力をつくし、1887(明治20)年、明治法律学校内に講法会を設置し、講義録の刊行につとめた。「仏国民法講義」と題して、契約篇、相続篇、財産取得篇などの著作を刊行した。
他方で、1879(明治12)年からは元老院において刑法と治罪法の草案審査に従事し、司法官僚としての道を歩んだ。1886(明治19)年には元老院書記官、1889(明治22)年には帝国議会開設のための臨時帝国議会事務局書記官、翌年(1890)には貴族院書記官、貴族院議事課長を経歴し、議院規則などの制定に尽力した。1891(明治24)年4月2日、病を得て没す。38歳の人生であった。東京青山霊園に眠る。