天狗党の乱は、元治元年(1864年)3月に、藤田小四郎(1842年~1865年:水戸学の大家・藤田東湖(1806年~1855年)の4男)が、幕府に横浜鎖港を要求するため、62人の同志たちと共に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱で、筑波山での挙兵以降、各地から続々と浪士・農民らが集結し、関東での争乱が続くが、千人余りが水戸藩領北部の大子村(現・茨城県大子町)に集結し、ここで武田耕雲斎を首領に、最初の筑波山での挙兵の主導者の藤田小四郎は副将の一人となり、京都に上洛し、禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて朝廷へ尊王攘夷の志を訴えることを決意し、元治元年(1864年)11月1日に水戸藩領北部の大子村(現・茨城県大子町)を出発し西上を開始。
京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と進むが、12月1日、揖斐宿(現・岐阜県揖斐川町)に至った天狗党は、幕府側の警備の厳重な琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し大きく迂回して越前から京都を目指すルートを選び、元治元年(1864年)12月4日、美濃大河原村を出発し蠅帽子峠(岐阜県本巣市と福井県大野市の県境)を越え越前大野郡の西谷郷の下秋生村・上秋生村(現・福井県大野市下秋生・上秋生)に分宿。元治元年(1864年)12月4日に越前入りした天狗党は、中島村・黒当戸村(現・福井県大野市中島・黒当戸)、木本村(現・福井県大野市木本)から宝慶寺峠を経て、越前池田郷に入り、大本村(現・福井県池田町大本)から千代谷村(現・福井県池田町千代谷)、金見谷村(現・福井県池田町金見谷)を経て、善徳寺のある谷口村(現・福井県池田町谷口)に到着。
天狗党の先発隊は、更に先の東俣村(現・福井県池田町東俣)まで進み本陣を東俣村に置き、武田耕雲斎ほか100名が村の大庄屋・飯田彦治兵衛方に泊まるなど、東俣村には333名もの天狗党メンバーが宿泊。東俣村を含め、上池田郷では、計962名が、東俣村や谷口村など13の村々に分宿。谷口村には340名が宿泊と、最も多く、その中で谷口村の善徳寺(浄土真宗・鯖江市本町に本山がある誠照寺派)には30名と馬5頭が止宿する。この善徳寺には、小野斌男が宿泊するが、この小野斌男は、藤田小四郎の変名。池田を発った天狗党は、その後、南条郡今庄宿を経て木ノ芽峠を越え、元治元年(1864年)12月11日に、敦賀郡新保村(現・福井県敦賀市新保)に到着。加賀藩をはじめとする幕府側の総攻撃予定当日の元治元年(1864年)12月17日に天狗党は投降し一連の争乱は鎮圧された。
投降した天狗党員は、初めは加賀藩に預けられ、丁重な扱いを受けるが、幕府に引き渡された後は、肥料となる鰊粕を貯蔵する蔵16棟に送られ、罪人の扱いを受けることとなり、その内353名は形式的な取り調べを受けて斬罪となり、1865(慶応元)年2月、現・敦賀市松島町の来迎寺境内で処刑。残る約470名も遠島・追放・水戸渡し・寺預け・江戸送りとなり、水戸で始まった天狗党の乱は敦賀で終息となった。