南越地域の寺社「浄土真宗本願寺派 妙観山 正覚寺」(福井県鯖江市四方谷町)
- 2023/12/25
- 南越地域の寺社, 「南越」地域文化
- 浄土真宗本願寺派 妙観山 正覚寺, 里見時成, 里見成純
南越地域の寺社「浄土真宗本願寺派 妙観山 正覚寺」(福井県鯖江市四方谷町)
(写真下:正覚寺(福井県鯖江市四方谷町)<*2023年11月13日午後訪問撮影>
(写真下:正覚寺本堂(福井県鯖江市四方谷町)<*2023年11月13日午後訪問撮影>
(写真下:正覚寺経蔵(福井県鯖江市四方谷町)<*2023年11月13日午後訪問撮影>(写真下:正覚寺の親鸞聖人御尊像(福井県鯖江市四方谷町)<*2023年11月13日午後訪問撮影>
浄土真宗本願寺派 妙観山 正覚寺は、福井県鯖江市の片上地区の四方谷にあり、『片上村誌』(片上村誌刊行会、1931年11月発行)に加え、『ふる里 四方谷』(発行:ふる里四方谷編纂委員会、1995年2月発行)に、編纂委員の一人としても参画された浄土真宗本願寺派妙観山正覚寺住職・里見淳英氏執筆の文章が詳しい。
正覚寺の開基
正覚寺は、古は禅宗で妙観寺と称していて、開基・了観の創立とされる。了観の元の名は里見成純といい、新田氏の一族里見時成の子。南北朝時代、里見伊賀守時成は足利尊氏(1305年~1358年)との戦いに敗れ、新田義貞(1301年~1338年)とともに越前に逃れてきたが、金ケ崎城の戦い(1337年3月6日落城)で戦死し、その子・成純は、当村(四方谷村)某に養われるところとなり、後に剃髪として了観と称し、村の西南山麓に禅宗の堂宇を建立。これが妙観寺。寺跡は今尚残っていて、「ミョウカジ」という字名で呼ばれているところ。
里見家の祖・里見義俊(?~1170年)
里見家の祖先は、清和源氏流で、新田義俊(新田義俊)が里見氏の祖で、新田氏の庶宗家。上野国新田荘を開いて、新田氏の祖先となった新田義重(新田氏本宗家(上野源氏)の初代、源義家の孫)の子・義俊は、新田義重の庶長子で家督を嫡出の異母弟の新田義兼に譲って分家し、後に久寿元年(1154)~久寿2年(1155)頃に、上野国里見郷(現在の群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町)に住んで居を構えた時に里見氏を称した。里見氏一族からは、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」でも知られる房総地方を領する戦国大名・安房里見氏も出ていたり、出羽里見氏、美濃里見氏、越後里見氏、榛名里見氏(仁田山里見氏)など鎌倉時代から室町時代にかけて諸国に分かれた里見氏がある。
里見時成(1309~1337)
鎌倉末・南北朝初期の武将。大炊助、伊賀守。父は掃部助里見又太郎氏義、その子里見助太郎重義のいずれか。1333年5月、新田義貞の鎌倉攻めに従軍。1337年正月11日、越前杣山城を出撃して金ケ崎城に兵糧を送り込もうとして待ち伏せに遭い戦死したと、太平記「越前府軍并金後攻事」にあるが、(里見淳英氏の文章によれば)1337年3月6日の金ケ崎落城の際自刃した大炊助時義と同一人物と思われるとのこと。一書に貞朝ともいう。尚、福井県敦賀市金ケ崎町の絹掛神社に、新田義貞の子・義顕、瓜生保、由良具滋、気比氏治らと共に合祀されている。
里見成純
里見時成の子。里見時成が金ケ崎で戦死した後、四方谷村の某に養われるところとなった。後に出家して名を了観と称し、禅宗の妙観寺を建立した。(伝承)
浄土真宗に改宗
浄土真宗に改宗してからの歴代住職
①了純(1605年寂) ②純誓(1636年寂) ③了意(1680年寂) ④真哲(1692年寂) ⑤祖園(1706年寂) ⑥了雲(1713年寂) ⑦了正(1744年寂) ⑧了閑(1756年寂) ⑨了圓(1775年寂) ⑩了然(1833年寂) ⑪了空(1842年寂) ⑫了性(1862年寂) ⑬了念(1918年寂、69歳) ⑭法爾(1922年寂、71歳) ⑮佳月(1942年寂) ⑯顕英(1994年寂) ⑰淳英(現住職)
天正元年(1573年)、了純(浄土真宗改宗後の初代住職)の世において織田信長の兵火にかかり、全山焼失。了純は門徒と共に本願寺に応じ、その後本山11代顕如宗主に帰して浄土真宗に改宗。寛永2年(1625年)第2代住職・純誓の時、本山12代准如宗主により正覚寺の寺号、本尊を賜わり、妙観山正覚寺と称するようになった。この時、四方谷村の正西に寺地移転し明治初期までこの地に存した。
7代住職了正の時の享保年間(1716~1736)に火災に遭い、明治2年(1869)5月11日には四方谷大火25戸発生で火災、明治6年(1873年)3月12日には、明治初期の越前宗教騒動「ボロンカー」により仮御堂が火災にあっているが、明治16年(1883年)8月16日現在地に移転して本堂、庫裏、書院を再建。明治以降の住職で特筆すべきは13代住職了念(1849年~1918年)であり、本堂、庫裏、書院、経蔵等を再建し境内を整備した他、本山では要職をつとめ、羽水教校(現在の北陸高校)の創設にも尽力。現住職で17代を数える。幾度かの火災で焼失した物も多く、詳細は不明。なお現在の庫裏は、昭和54年(1979)に門徒一同の協力によって新築されたもの。
正覚寺の宝物
・本願寺9代実如上人御真筆「十字尊号」
・本願寺12代准如上人「御消息」越前十六日講宛
(*初代住職了純の時の文禄4年(1695年)の頃にいただいたものと推定)
・本願寺18代文如上人御額字「山号額」妙観山(*10代住職了然の時の1788年頃に賜わる)
・本願寺21代明如上人御額字「経蔵額」法宝蔵(*13代住職了念の時の1889年に賜わる)