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首都圏の中の北陸ゆかりの地「徳田秋声 旧居」(東京都文京区本郷6丁目)
- 2024/8/25
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- 徳田秋声, 小沢はま
首都圏の中の北陸ゆかりの地
「「徳田秋声 旧居」(東京都文京区本郷6丁目)
(写真下:徳田秋声 旧宅(東京都文京区本郷6丁目)<*2024年7月11日午後訪問撮影>
東京都指定史跡 徳田秋声旧宅(とくだ しゅうせい きゅうたく)
所在地 文京区本郷6-6-9
指定 昭和25年(1950年)9月19日 標識指定 昭和39年(1964年)史跡指定及び名称変更徳田秋声(とくだ・しゅうせい)(1871年~1943年)は明治から昭和初期にかけて活躍した小説家です。明治4年(1871年)に現在の石川県金沢市に生まれました。尾崎紅葉に師事し、明治29年(1896年)に発表した『藪柑子(やぶこうじ)』で文壇に初登場しました。
この家には、明治38年(1905年)から73歳で亡くなるまで約38年間居住し、創作活動を行っていました。秋声は自然主義文学の第一人者として名を馳せ、『新世帯』『足迹(あしあと)』『黴(かび)』『爛(ただれ)』『あらくれ』などを執筆し、『仮葬人物』で第1回菊池寛賞を受賞しています。これらの代表作はすべてこの家で書かれています。
旧宅は、明治末期に建築された母屋とその後に増築された離れの書斎、そして二階建て住宅部分、庭などで構成されています。日常愛用の蔵書、調度品、日記、原稿など、遺品もきわめて多く保存されています。指定地域面積は約445.5㎡です。 平成22年(2010年)3月 建設 東京都教育委員会
(注):この徳田秋声旧宅は、あくまで徳田秋声が生前住んでいた旧宅ということで、旧宅跡ではなく、今だご家族が生活をされておられる家。
徳田秋声は、明治4年(1871年)金沢県金沢町横山町(現・石川県金沢市横山町5番9号)に徳田雲平の3男、6番目の子として生まれ、名は末雄。父・徳田雲平は、加賀藩の家老・横山三左衛門の家人・徳田十右衛門の長子であったが、1969年には版籍奉還が行われ、一家は窮乏。幼少期は金沢で4度、転居を余儀なくされ、明治24年(1891年)には、10月に父・雲平が脳溢血で死去し、同月、第四高等中学校と中退し、作家として立つことを考え上京を計画。明治25年(1892年)3月末、高等中学校補充科以来の同級生・桐生悠々と上京し、4月に尾崎紅葉を東京の牛込区横寺町に訪ねるが、玄関番の泉鏡花に不在と告げられ、原稿を郵送したが、折り返し突き返されてしまう。失意のまま、翌明治26年(1893年)4月には金沢に帰郷し、復学をめざすが、復学を断念。
明治28年(1895年)1月、記者生活をしていた新潟の長岡を発ち再上京。旧知をたどり、4月には博文館に住込み、校正やルビを振る仕事を得、ようやく3年間の放浪生活を終えることができ、ここから文壇への足がかりが作られていくことになる。6月には、博文館に出入りする泉鏡花に奨められ、尾崎紅葉を訪ね門下となる。こうして尾崎紅葉門下からの出発となり、東京で落ち着くことになるが、明治35年(1902年)4月には、同郷の旧友・田中千里が東京の小石川表町に建てた貸家に差配を兼ねて初めて一家を構えることになり、友人の三島霜川を誘い、二度目の同居生活を始める。三島霜川の叔母の世話で住込みの使用人・小沢さちが雇われ、それから間もなく、その娘で一度結婚に失敗した小沢はま(長野県上伊那郡出身、明治14年(1881年)生まれ)が出入りし、独身の家主の徳田秋声と関係が出来、実際上の夫婦生活が始まり、友人の三島霜川は7月ごろに小石川表町の家を出ている。
明治36年(1903年)7月頃には、小沢はまとの間に、長男・一穂が、東京の本郷生まれとして誕生するが、生活に苦しみ、正式に結婚する決心がつかず、逡巡を続けるが、翌明治37年(1904年)には仕事が少しずつ増え、同年3月16日に、小沢はまを婚姻入籍。明治38年(1905年)夏、長女瑞子が誕生。そして、その翌明治39年(1906年)5月、本郷森川町清水橋付近から、すぐ近所の終の棲家となる本郷区森川町一番地(現・東京都文京区本郷6丁目6番9号)に転居。徳田秋声は、昭和18年(1943年)11月18日永眠(満71歳)。尚、妻・はまは、大正15年(1926年)1月に脳溢血で急死(46歳)。長女・瑞子は大正5年(1916年)7月、疫痢で死去(12歳)。妻・はまとの間には、長男・一穂、長女・瑞子以外に、次男・襄二が明治41年(1908年)に、次女・喜代子が明治44年(1911年)に、三男・三作が大正2年(1913年)に、四男・雅彦が大正4年(1915年)に、三女・百子が大正7年(1918年)に、7人の子女が誕生している。