北陸の歴史人物関連 「山本条太郎翁胸像(1867年~1936年)」(福井県福井市足羽上町<足羽山公園>)
<写真上:山本条太郎翁胸像」(福井県福井市足羽上町<足羽山公園>)(*2024年5月29日午後訪問撮影)
一小僧から身を起こして、上海を拠点に中国大陸での貿易・事業を開拓し三井物産の重役に上り詰めるも、海軍事件に巻き込まれ連座し下獄と大きな挫折を味わい、再び運命を開拓し、かえって自由にその才幹と力量とを発揮し、事業界に、更に政界に進出し、一時は満鉄総裁となり満州開拓に尽力し満鉄中興の祖と言われ、財界、政界の両方面に事業家、政治家として目覚ましい活躍を続けた山本条太郎(1867年(慶応3年)~1936年(昭和11年)3月25日)。その山本条太郎の父・条悦(維新後改め武)は、福井藩松平家に仕える微禄の武士で、山本条太郎は、慶応3年(1867年)10月11日、父条悦が28歳、母みつ20歳の時、福井城下御駕町(のちの福井市松ヶ枝下町、現在の福井市宝永1丁目)に福井藩士山本条悦の長男として生まれるが、5歳で福井を離れ華族とともに入京。
共立学校(開成中学・高校の前身)を中退後、叔父の吉田健三(福井藩士渡辺謙七の子で吉田茂の養親)の紹介で三井物産に小僧として働き始め、横浜支店、上海支店、上海紡績株式会社、大阪支店などを経て、明治42(1909)年常務取締役に就任。辛亥革命の革命派に資金提供し支援したが、大正3(1914)年シーメンス事件に連座し、辞職。5年に特赦。9年衆議院議員に当選。以後当選5回。昭和2年政友会幹事長、同年満鉄社長(後に総裁)に就任し、満洲開発を推進。五・一五事件後は政友会・民政党の挙国一致内閣論を主張。10年貴族院議員。
山本条太郎像 <胸像脇の案内板>
福井出身で明治~昭和の政治家・実業家。三井物産の常務取締役を務めたほか、多くの会社を創設。後に政治家としても活躍した。
宝永社会教育会が、昭和35年度(1960)の文化事業として、郷土の偉人山本条太郎の業績を検証することを計画し、同年4月、会長堀江喜熊氏を発起人代表として顕彰費の拠金募集を始め、足羽山に胸像を建て、生誕地に記念碑を建てることとし、昭和35年(1960)10月11日、山本条太郎の誕生日を卜し、竣工除幕および祝賀会を挙行。足羽山公園茶臼山の胸像除幕式は午後1時から、宝永1丁目32番地の生誕地における記念碑の除幕式は午後3時から、宝永校における祝賀会は午後4時からという手順で、行われた。元首相吉田茂氏、日本財界の大御所・原安三郎氏、福井県知事・北栄造氏、福井市長・坪川信三氏などが足羽山茶臼の旧跡の除幕式典に参列。
<写真下:山本条太郎翁胸像」の右側面と左側面
(福井県福井市足羽上町<足羽山公園>)(*2024年5月29日午後訪問撮影)
<右側面> 翁少ウシテ頴悟俊敏、三井社ニ入リ、企画周密、克ク重責二任ス、気宇高邁、豪宕果断、一世経商ノ傑タリ、晩年政界ニ出テテハ、共枢機ニ参シ、屡経綸ノ策ヲ樹テ、又満蒙ニ鴻業ヲ創ム 於戯偉ナル哉
<左側面> 慶應三年十月十一日福井城下二生ル 明治十五年三井物産会社二入社 同三十四年同会社上海支店長 同四十二年同会社常務取締役 大正三年同会社常務取締役 大正三年同会社辞任 同五年日本火薬製造株式会社外十数社ヲ創設経営 同九年衆議院議員ニ当選爾後当選四回 昭和二年南満州鉄道株式会社々長 同四年同会社辞任 同十年貴族院議員ニ勅任 同十一年三月二十五日逝去 享年七十