- Home
- 北陸ゆかりの人物評伝, 北陸地域関連書籍, 「越」関連書籍紹介
- 北陸ゆかりの人物評伝・モデル小説 第3回 「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」(出町 譲 著)
北陸ゆかりの人物評伝・モデル小説 第3回 「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」(出町 譲 著)
北陸ゆかりの人物評伝・モデル小説 第3回 「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」(出町 譲 著)

「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」(出町 譲 著、幻冬舎、2013年11月発行)
<著者略歴>出町 譲(でまち・ゆずる>(本書著者略歴・本書掲載時<2013年>)
1964年富山県高岡市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。1990年に時事通信社入社。経済部、松江支局、外国経済部を経て1998年にニューヨーク特派員。ウォール街の大物投資家や米金融当局者などを取材源に、空前の好景気に沸く米国経済の最新ニュースを発信し続けた。2001年帰国後に時事通信社退社。同年テレビ朝日入社。内閣府、日銀、財界を担当した。2006年にスーパーJチャンネルのニュースデスク、2007年から報道ステーションの経済担当ニュースデスクとなり、現在に至る。2011年の東日本大震災をきっかけに、本業の傍ら「週末作家」として活動を開始。『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』、『母の力 土光敏夫をつくった100の言葉』(ともに文藝春秋)を出版する。
*2025年6月29日の富山県高岡市長選挙に2度目の立候補で当選。
本書は、一代で浅野財閥を築き明治・大正時代を代表する日本の大実業家となった越中国射水郡藪田村(現・富山県氷見市薮田)出身の浅野総一郎(嘉永元年(1848)~昭和5年(1930))をモデルに、実話が基になっているノンフィクションノベルで、登場人物は実在し浅野総一郎の全生涯を活き活きと描いた作品。1993年11月に創立された幻冬舎の創立20周年記念特別書き下ろし作品として2013年11月に刊行。著者は、浅野総一郎と同じ富山県出身の出町譲 氏(1964年、高岡市生まれ)で、大学卒業後、時事通信社に入社し2001年にテレビ朝日に転職し、報道ステーションの経済担当ニュースデスクを務め、2011年の東日本大震災をきっかけに、執筆業も手がける。2013年11月の本書刊行時は、テレビ朝日に在籍していたが、2020年に退職。2021年7月4日の富山県高岡市長選挙に出馬し落選。2021年10月31日の富山県高岡市議会議員選挙で当選。2025年6月29日の富山県高岡市長選挙に2度目の立候補で、現職に大差をつけて当選。尚、著者の執筆した著書には、『景気を仕掛けた男 「丸井」創業者・青井忠治』(2015年8月発行、幻冬舎)があるが、こちらも、富山県射水郡小杉町(現・射水市)出身の丸井の創業者・青井忠治(1904年~1975年)をモデルとしたノンフィクション・ノベル。
浅野総一郎(嘉永元年(1848)~昭和5年(1930))は、越中国射水郡藪田村(現・富山県氷見市薮田)で、医師淺野泰順の長男として生まれる(幼名は泰治郎)。16歳年上の姉・お富に婿を迎え跡継ぎにすることが浅野総一郎が生まれる前から決まっていて、1853年(嘉永6年)、6歳で母リセの妹で叔母のトヨの家の氷見の町医者・宮崎南禎に養子に出されたものの15歳のときに離縁。実家に戻り、その後、慶応2年(1866)、射水郡大野村の豪農の庄屋・鎌仲惣右衛門の一人娘ヤスの婿養子となり、産物会社など、いくつもの事業を始めるも、いずれの事業も失敗し鎌仲家と離縁。一旦は実家に再び戻るが、多くの借金を抱え、1871年(明治4年)、23歳のときに逃げるようにして上京。東京では砂糖冷水売りから始め、竹皮商、薪炭商、石炭商等を経て、横浜瓦斯局が廃棄するコークス、コールタールの払下げを受け、コークスは燃料として、またコールタールはコレラの流行で不足していた消毒用の石灰酸として売り込むことに成功。また、石炭取引先の抄紙会社の渋沢栄一の知遇を得、その助力により、1883(明治16)年、官営の深川セメント工場を借り受け(翌年払下げ)、浅野工場(浅野セメントの前身)を設立。渋沢や同じ越中出身の安田善次郎などの協力を得て、経営は順調に進み、良質なセメントを大量に生産する。
浅野総一郎は、この他、主要事業として磐城炭坑(1883(明治16)年創立)と東洋汽船(1896(明治29)年創立)も経営するとともに、様々な事業の設立に出資し、役員として経営に関与。その中で、最も力を入れた事業が東京湾の埋立事業で、埋立地に臨海の工業地帯を造成して、大型船が横付けできる港を造り、また鉄道ともつなぐ大規模事業を強力に推進。ここでも渋沢栄一や安田善次郎の協力を得、1912(明治45)年、鶴見川崎地先に150万坪の埋立計画の認可を神奈川県に出願し、15年かけて完成させ、これにより京浜工業地帯の礎を築く。一代で浅野財閥を築いた明治・大正時代を代表する日本の大実業家となり、「京浜工業地帯を創った男」、「日本のセメント王」などと呼ばれる。昭和5年(1930年)11月9日、食道癌で死去(享年83歳)。尚、本書の巻末には、数多くの主要参考文献が列記されているが、その中に、昭和5年(1930年)逝去の浅野総一郎の生前や逝去まもない時期に、近親者の手によって記された伝記類が挙げられている。浅野総一郎の長男・泰治郎、次男・良三による『浅野総一郎』(浅野文庫、1925年)、浅野総一郎のサク夫人について『ひもかがみ 浅野サク追悼記』(浅野泰治郎、浅野文庫、1928年)、浅野総一郎の秘書の北林惣吉による『浅野総一郎伝』(千倉書房、1930年)、『成功秘談』(千倉書房、1931年)、浅野サク夫人について『女の一心』(北林惣吉、千倉書房、1931年)など。
本書の第一章の前半では、嘉永元年(1848)越中国射水郡藪田村(現・富山県氷見市薮田)で医師の長男として生まれた浅野総一郎が、明治4年(1871年)数え年24歳で、数々の事業に失敗し多額の借金を抱え、夜逃げし故郷を脱走、東京に逃げるまでの氷見時代の話。数え6歳で嘉永6年(1853年)富山県氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となり、医者として養家の叔母の宮崎家を継ぐことを期待され医者としての人生をスタートするも、商売の世界で生きたいと気持ちを抑えきれず、文久元年(1861年)数え14歳で養家から逃げ離縁となり浅野に復帰する。そこからいろいろ事業を手がけるが、10代の少年にて、商売の目の付け所や行動力などは早くも凄いものがあると思うが、失敗続きとなる。そんな少年時代の総一郎を暖かく見守り応援するのが、母リセや、藪田村の実力者の山崎善次郎。母親の愛情も美しいが、漁業を代々やりながら、造り酒屋も副業として営む藪田村の実力者の山崎善次郎による失敗続きで迷惑をかけられている総一郎に呆れずに継続する支援や恩情には驚く。数え年19歳の慶応2年(1866年)近村の大野村(現・氷見市大野)豪農・鎌仲惣右衛門長女の婿養子となり、大きな産物交易事業に挑むが、大損で鎌仲家を離縁となり、藪田村に再び戻り氷見の中心部で商売を始めるが、またも事業に失敗。1871年(明治4年)いよいよ金貸しからの借金で単身で夜逃げし故郷を離れ東京に向かう。少年時代の総一郎を、”氷見の町で目に焼き付く光景は、氷見の魚を売り歩く半裸の漁民の姿だったり、氷見特産の針を紺の風呂敷に包んで背負う行商人だったり、とりわけお気に入りだったのは、氷見湾で見かける氷見の茣蓙やむしろを満載した船だ。北前船で、越後、さらに蝦夷に向かう。昔、北陸一の大商人だった銭屋五兵衛のような人になりたい”と描いている。
数々の事業に失敗続きでしまいには故郷の氷見を夜逃げすることになるが、そこからの「九転十起」という言葉を支えに、反転攻勢していく浅野総一郎の人生が痛快で壮大。最初は東京・本郷の宿・大塚屋に宿をとり、万世橋際および御茶ノ水の路傍にて砂糖冷水を売ることから始め、秋、横浜の醤油および味噌商・小倉屋に奉公し、上京した明治4年(1871年)冬には、わずか4ヶ月で独立して店を構え横浜・住吉町で竹の皮商「大塚屋」を始める。店の名前は、上京した時の本郷の宿屋の名前で、氷見時代の借金取りからの取り立てから逃げるために、偽名「大熊良三」での再スタート。ちなみに、この偽名も本郷の下宿屋の主人の行方不明の親族の名前。こうして、東京では砂糖冷水売りから始め、横浜で竹皮商、薪炭商、石炭商等を経て、横浜瓦斯局が廃棄するコークス、コールタールの払下げを受け、コークスは燃料として、またコールタールはコレラの流行で不足していた消毒用の石灰酸として売り込むことに成功し、横浜の有力商人に成長。その後、石炭取引先の抄紙会社の渋沢栄一の知遇を得、その助力により、1883(明治16)年、官営の深川セメント工場を借り受け(翌年払下げ)、浅野工場(浅野セメントの前身)を設立。夜逃げで故郷を離れ無一文の裸同然の状況から、途中、強盗や火事に遭いながらも、わずか12年での成功物語を実現。この成功には、浅野総一郎本人の壮絶な働きぶりはもちろんながら、明治初期という時代や、開明的な横浜という街も追い風であったかとは思うが、横浜・住吉の竹の皮商「大塚屋」の向かいにあった貸布団店・万屋に勤めていた働き者の少女サクと出会い、1872年にサクと結婚するが、この妻サクの存在が大きい。小さな店から一生、浅野総一郎とともに働く働き者ぶりに目を見張るが、本書の第6章では「サクという同志」というタイトルで、自らの生活はいつまでも切り詰めながらも他人を惜しみなく支援するサクのいろんなエピソードが紹介されている。
浅野総一郎は、渋沢栄一や同じ越中出身の安田善次郎などの協力を得て、経営は順調に進み、良質なセメントを大量に生産横浜、浅野総一郎は、この他、主要事業として磐城炭坑(1883(明治16)年創立)と東洋汽船(1896(明治29)年創立)も経営するとともに、様々な事業の設立に出資し、役員として経営に関与。その中で、最も力を入れた事業が東京湾の埋立事業で、埋立地に臨海の工業地帯を造成して、大型船が横付けできる港を造り、また鉄道ともつなぐ大規模事業を強力に推進。ここでも渋沢栄一や安田善次郎の協力を得、1912(明治45)年、鶴見川崎地先に150万坪の埋立計画の認可を神奈川県に出願し、15年かけて完成させ、これにより京浜工業地帯の礎を築く。一代で浅野財閥を築いた明治・大正時代を代表する日本の大実業家となり、83歳で亡くなるまで、エネルギッシュに働き続ける浅野総一郎の驚異の軌跡が本書の中核となる。「日本のセメント王」とも呼ばれるが、セメント事業だけではなく、数多くの事業に大胆に圧倒的なスケールで休む間もなく取り組み続ける様子は、まさに、本書のタイトルのサブタイトルにあるように”事業の鬼・浅野総一郎”と言える。また、大事業である京浜工業地帯の礎をつくり「京浜工業地帯を創った男」とも呼ばれるが、浅野総一郎の活躍は、国内各地、更に広く海外にも及んでいる。「日本の資本主義の父」とも言われた渋沢栄一(1840年~1931年)や、安田財閥の安田善次郎(1838年~1921年)が、浅野総一郎にとって事業拡大の後ろ盾となり、まさに日本が近代国家に向かう際のエンジン役として期待をかけられるに相応しい働きぶり。浅野総一郎の事業展開拡大の軌跡を追うことは、日本の近代国家に向かう経済の発展の歴史にも触れることができ、本書には、浅野総一郎だけでなく、下記に列挙しているように、同時代に活躍する実に多数の実業家たちが登場していて、いろんな実業家たちにも興味が広がる。
浅野総一郎の事業構築の発想や行動、交渉、働きぶり、関係者・部下たちとの関係、事業・ビジネス哲学や姿勢なども、本書で紹介されている沢山のエピソードから、学べることが非常に多いが、何よりも、その諦めない不屈の精神と、猛烈な仕事熱心さに驚嘆するし、いろいろと人間的な魅力に富む様子も紹介されている。浅野総一郎の元からは、渋沢栄一の書生から製紙会社で勤務し、渋沢栄一から浅野セメントに派遣を命じられ、のちに「日本の製紙王」と呼ばれた大川平三郎(1860年~1936年)や、渋沢栄一の紹介で帝国大学卒業後に浅野商店に入社し、後に日本鋼管の初代社長となる浅野総一郎の次女の娘婿の白石元治郎(1867年~1945年)の大実業家が育っているが、この浅野総一郎に関係が深い、後に大実業家となる2人の話も興味深い。世間で「贅沢すぎる」「成金趣味」と酷評されることが多かった東京・三田に浅野総一郎が建てた豪邸「紫雲閣」については、本書では、浅野総一郎が住んでいたのは紫雲閣の庭の裏山の小さな家で、あくまで、自分の贅沢のためというより、民間外交の舞台として北米航路で訪日する外国人を歓待したいという思いで造ったものと記している。
何度も事業に失敗し苦境に陥る息子・総一郎を深い愛情で支え続けた母リセは、総一郎が大きな借金を抱え夜逃げで故郷を逃げ、東京・横浜で偽名で暮らしていた息子の成功を喜べたのか、「総一郎でなく、損一郎」「借金つくった”ほら吹き”」と故郷の村人たちから嘲笑さ故郷に凱旋できたのか気になったが、浅野総一郎は明治25年(1892年)5月に、21年ぶりに故郷の藪田村に、大実業家になって戻ったことが紹介されている。藪田ではどこへいっても大歓迎され、母リセは80歳だったが、いたって元気で大喜びし、浅野総一郎は先祖の法要を営んだとのこと。母リセは89歳の天寿を全うしている。浅野総一郎の若い頃の後見人だった山崎善次郎(1827年~1878年)は既に亡くなっていたが、浅野総一郎が中心となって、藪田に「山崎善次郎翁頌徳碑」を建立している。大実業家となった浅野総一郎の活躍は全国、国内各地から海外も相手に広がるが、北陸との事業の関わりも、いくつか紹介されている。海運に進出し、浅野回漕部を設立し、まず富山の伏木港との交易を手がけ、その後は、三菱主導の日本郵船に対し、富山・岩瀬村出身の馬場道久(1847年~1916年)や加賀・大聖寺(瀬越)出身の広海仁三郎(1854年~1929年)ら北陸を中心とする北前船の海運業者が集まる「日本海運業同盟会」の委員長を務めている。晩年になって力を入れたのは水力発電所の事業で、庄川の豊発電する発電する富山県・南砺波市の小牧ダムは昭和5年(1930年)に完成。石油事業では新潟でも関わっている。永平寺と並ぶ、神奈川県横浜市鶴見区にある曹洞宗の大本山総持寺は、もとは石川県輪島市門前町にあったが、明治31年(1898年)の火災で焼失したが、浅野総一郎が土地を寄付し、横浜市鶴見に呼び寄せたと言われ、1911年に現在地に移転している。浅野総一郎が眠る浅野家の墓所は、この総持寺にある。
目次
序章 貿易立国への夢
京浜工業地帯の父/ 視察後の横浜港で恥ずかしい/ 埋め立て、築港計画が次々頓挫/ 5回にわたり実地調査/ 安田翁も3日3晩の調査/ 「資産10兆円」男が惚れ込む
第1章 ”夜逃げ男”東京への夢
6歳で養子に/ 芝居で誘い出し/ 「銭屋五兵衛になりたい」/ コレラで医者の限界/ 山崎という後見人/ 凶作で売れ行き不振/ 大庄屋の鎌仲家の婿養子に/ 「日本一の婿さん」が暗転/ 「損一郎」という評判も/ 再起を期して氷見に再び開店/ 「九転十起」の人生を送れ/ 金貸しお熊が取り立てに/ 老母が20キロを徒歩で往復/ 黄色の風呂敷の中には/ 大塚屋に下宿/ 赤猫退治って何だ/ 折橋甚左衛門という男/ 「冷やっこい冷やっこい」/ 横浜で同郷人の店に住み込み/ 竹の皮を売る 横浜に初出店/ 稼ぐに追いつく貧乏なし/ 女中に出されたものの/ 総一郎25歳、16歳のサクと結婚/ 次は薪、炭を売ろう/ 納屋もないのに大量買い付け/ 神奈川県庁に食い込む/ 1万円儲けたら「ちょん髷」を落とそう/ 横浜の石炭不足で大儲け/ 泥棒と火事/ 横浜県庁でカネを借りる
第2章 渋沢栄一との出会い
横浜の街とガス会社/ 深川セメント工場、コークスを燃料に/ 渋沢栄一の悩み事/ 夜の10時に渋沢邸訪問/ 西南戦争でチャンス/ 日本で初の西洋式公衆便所/ コレラが追い風 コールタール/ セメントと出会う/ お役所体質/ 渋沢の紹介で政府に直訴/ いよいよセメント本格参入へ/ 怠け癖を叩きのめす/ 渋沢、側近の大川を派遣/ 「払い下げ」に進みたい/ 職工の下駄を直すサク/ 渋沢栄一vs.岩崎弥太郎/ 反三菱の牙城は共同運輸/ 籠に乗らず杖を突き
第3章 現場を愛する「事業の鬼」
釜石製鉄所では敗北/正月に渋沢邸で三者会談/釜石は田中長兵衛の手に/三池炭鉱/東京に近い磐城炭鉱/東京までの鉄道をつくろう/浅野回漕店スタート/浅野回漕部が事業拡大/日清戦争で政府に船を提供/サッポロビールの原点に浅野あり/官庁集中計画/深川工場内から引っ越し/西日本に拠点を造ろう/故郷に錦・・・21年ぶりに藪田村へ/横浜港に亀裂・・・セメント会社の責任は/渋沢への恩返し/東大卒の白石が浅野商店に入社/渋沢の紹介で浅野と面談/スタンダート石油の独占を阻止せよ/石油タンク反対の動き/国産石油に注目/新潟での石油事業を譲渡/アメリカ産原油の輸入とアジアの覇権/関税問題で大打撃
第4章 海運業界の風雲児
日清戦争で勝利・・・世界に出よう/浜町の常磐という料亭で設立準備会/英語堪能な大川が同伴に/コロラド号、北米大陸を南下/憧れのサンフランシスコ/サンディエゴで「奇策」/ニューヨークでいよいよ社長と対峙/ハンチントンの豪邸に驚嘆/イギリスでは歓迎晩餐会/ハワイでは移民を前に講演/東洋汽船 創業時の苦しみ/「太平洋の白鳥」お目見え/「鉄鋼王」カーネギーの引退/日露戦争と超大型貨客船/巨大船の受注に三菱造船も躊躇/次なる戦略は南米航路/鉄道王「ハリマン」来日の狙いは/ハリマン vs.総一郎/世界最大級の船がお目見え/サンフランシスコで排日運動/厳しい株主/救世主は安田善次郎/異例の私財提供演説/幻の迎賓館「紫雲閣」/海員法で形勢逆転/総一郎訪米で船調達/海運は空前の活況/仕事は突撃精神で・・・/夜行列車で全国に出張/白石、東洋汽船専務辞任/インド産の銑鉄、旧友今泉に相談/白石独立宣言と日本鋼管発足
第5章 安田善次郎暗殺の衝撃
埋め立ていざスタート/悲願の造船参入/造船史上最も速く・・・業界三位に/鉄鋼輸出禁止令の衝撃/浅野製鉄創設と親子ゲンカ/スト多発と不穏な時代/実技も学べ 浅野総合中学校設立/アメリカ海運業界が復活の狼煙/ドイツからの賠償船/84歳の安田を船に乗せよう/安田暗殺と不穏な空気/暗殺者「朝日」、英雄視される/東洋汽船”消滅”/安田との約束「小倉埋め立て」/福岡県知事に猛プッシュ/県庁職員も共鳴/セメントの海外需要を狙え/関東大震災で奮起/「平等主義」で銅像建設/「達磨宰相」に達磨と呼ばれ/サクの名前をつけた佐久発電所/富山から東京に電力を
第6章 サクという同士
慈善家としてのサク/両親死亡の少年に資金援助/新聞で困った人を見つけ・・・/総一郎も敬服 サクの経済論/隠しごとはするな/逆境に挫けるな/汚泥の中をサクが・・・
第7章 死の直前 83歳の欧米視察
毒舌で講演会/83歳でシベリア鉄道で欧米旅行/ヨーロッパを見習え、道路整備が必要だ/道路舗装に自動車税/次は英語かドイツ語を勉強するぞ/さっそく渋沢に帰朝報告/食道癌で死去
エピローグ 「幻の財閥」今いずこ
浅野総一郎年譜
・嘉永元年(1848)3月10日:
富山県氷見郡薮田村に医師・浅野泰順の長男として生まれる。幼名泰治郎。後に総一郎と改名。
・嘉永6年(1853)(6歳)
富山県氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となる。
・文久元年(1861)(14歳)
考えるところあって養家より離縁し浅野に復帰する。
・文久2年(1862)(15歳)
母親を説得し資本を出させ編機を始める。
・文久3年(1863)(16歳)
醤油醸造を営む。
・元治元年(1864)(17歳)
稲扱仕入れのため氷見針を行商しながら陸路を単身京都へ赴く。
・慶応2年(1866)(19歳)
2月、近村の大野村豪農・鎌仲惣右衛門長女の婿養子となり、泰治郎を惣一郎と改名。
・慶応3年(1867)(20歳)
産物会社を創設し業務担当者となる。柏崎と新潟に事務所を設け、裏日本一帯に産物を商い、その名ようやく顕れる。
・明治元年(1868)(21歳)
積極行動に因を発し、産物会社破綻。鎌仲家より離縁となる。
・明治3年(1870)(23歳)
実家の薮田村近郷各村へ農業の副業として蓆機を宣伝。氷見町に浅野商店の看板を掲げ産物会社の再挙を計る。
・明治4年(1871)(24歳)
能州の有名な金貸お熊より無担保にて金3百両を借入。5月5日夜 事業に失敗して故郷を脱走。同月19日初めて東京に入る。夏、万世橋際および御茶ノ水の路傍にて冷水を売る。秋、横浜の醤油および味噌商・小倉屋に奉公。冬 独立して横浜で竹の皮商を始める。
・明治5年(1872)(25歳)
栃木県人鈴木長右衛門の二女サクと結婚。
・明治6年(1873)(26歳)
横浜住吉町に大塚屋・大熊良三の仮名に隠れて薪炭商を営み、石炭販売を兼業する。
・明治7年(1874)(27歳)
石炭商専業となる。7月 強盗に襲われる。
・明治8年(1875)(28歳)
2月、近火に類焼し無一文となる。横浜寿町に再挙を図る。
・明治9年(1876)(29歳)
横浜瓦斯局よりコークスの払下げを受け奇利を博する。
・明治10年(1877)(30歳)
西南戦争のため全国の汽船は御用船に徴発され、九州・横浜間の輸送が杜絶したために石炭の価格は暴騰し一挙に巨利を収める。
・明治12年(1879)(32歳)
横浜の市中63ヵ所に公衆便所を建設する。
・明治16年(1883)(36歳)
4月、渋沢栄一らの助力を得て深川のセメント工場の払下げを受ける。品川弥太郎、榎本武揚らの後援を得て益田孝、渋沢喜作と協力し共同運輸会社を創立する。磐城炭礦社を創立する。
・明治18年(1885)(38歳)
10月、共同運輸を岩崎汽船部に合併し、日本郵船会社となる。
・明治20年(1887)(40歳)
2月、大日本人造肥料会社の創立に参与する。3月、大倉喜八郎、渋沢栄一と図り東京製綱会社を創立する。
・明治21年(1888)(41歳)
渋沢栄一と共に平・上野間の鉄道布設を企てる。札幌麦酒会社の創立に参与する。
・明治23年(1890)(43歳)
6月、帝国ホテルの創立に参与する。
・明治26年(1893)(46歳)
12月、磐城炭礦社を株式組織とし磐城炭礦株式会社と改称する。
・明治29年(1896)(49歳)
7月、東洋汽船会社を創立し、新船注文のため渡米。
・明治37年(1904)(57歳)
日露戦争開戦のため東洋汽船の所有船3隻、御用船に徴発される。鶴見海岸埋立計画の認可申請を神奈川県庁に提出する。
・明治40年(1907)(60歳)
安田善次郎と協り、東京湾築港を計画し、東京府へ認可を申請する。
・明治41年(1908)(61歳)
鶴見海岸150万坪の埋立計画を企てる。
・大正元年(1912)(65歳)
8月、沖電気会社の設立成る。
・大正2年(1913)(66歳)
鶴見埋立組合成り、2月、工事に着手する。同月、セメント工場を株式組織に改め、浅野セメント会社と改称する。
・大正5年(1916)(69歳)
4月、浅野造船所を創設する。5月、日本昼夜銀行を創立する。
・大正7年(1918)(71歳)
4月、浅野物産を創立する。5月、日本昼夜銀行を浅野昼夜銀行と改称する。同月、日本鋳造会社を創立する。
・大正8年(1919)(72歳)
10月、水電界の有力者と協り、各水電会社の送電統一を計ろうとの大抱負をもって、東京電力会社設立の計画を企てる。
・大正9年(1920)(73歳)
1月、宿願の浅野綜合中学校を創立する。
・大正11年(1922)(75歳)
8月、浅野昼夜銀行を安田家に譲渡する。浅野セメント会社の拡張工事を行う。
・大正12年(1923)(76歳)
関東大震災救護金百万円を公共に寄付する。
・大正13年(1924)(77歳)
5月、約25万人の寄付金により浅野綜合中学校校庭の一角に、身長1丈6尺(4.8m)・台座20尺(6m)の寿像成り、除幕式を挙行する。11月、郷里の薮田小学校入口に寿像成り、除幕式を挙行する。
・昭和5年(1930)(83歳)
高齢をものともせず、約3カ月の欧米視察の旅を終えて8月帰朝。横浜埠頭の歓迎の群衆ににこやかに帽子を振った翁の、この秋の長逝を誰が予想しえたか。11月9日長逝。(*この年譜は、浅野総一郎翁の喜寿を祝して嗣子・浅野泰治郎および良三の両氏が著した『浅野総一郎』<初版発行大正12年6月8日>並びに『日本セメント70年史』に基づいて作成したものの写し)
<主な登場人物>
・浅野総一郎(1848年3月10日藪田村で浅野泰順の長男として生まれる。幼名は泰治郎)
・浅野泰順(浅野総一郎の父、医者。1854年死去)
・浅野リセ(浅野総一郎の母、89歳で没)
・お富(浅野総一郎の16歳年上の姉。1862年、31歳で病死)
・泰元(お富の姉婿で、1862年、44歳で病死)
・泰仲(姉お富と姉婿の長男)
・浅野貫一(浅野藤一郎の弟で、1850年6月10日生まれ。後に氷見から上京し、大蔵省の横浜税関で勤務。1874年病死)
・トヨ(母リセの妹)
・宮崎南禎(氷見の町医者でトヨの夫。浅野総一郎が6歳の時の養子先)
・渡辺悌次郎(氷見の本川町に移住してきた金沢藩脱藩の浪人で漢学と武術を教える個人塾を営む)
・山崎善次郎(藪田村の実力者)
・山崎善之丞(山崎善次郎の息子)
・鎌仲惣右衛門(大野村の150石の大庄屋)
・ヤス(鎌仲惣右衛門の一人娘)
・能登のお熊(高利貸しとして有名)
・「お三度さん」と呼ばれる加賀藩の荷物を江戸の藩邸に運ぶ役回り男
・大熊良平(東京・本郷の宿「大塚屋」の主人)
・折橋甚左衛門(東京府中の参事で東京・芝野寺に仮住まい。元は新潟の柏崎で産物会社の代表)
・小倉屋(横浜の小さな酒店経営で、元は氷見で海産物を売っていた小倉屋の息子)
・下川半左衛門(氷見出身で、上総国の姉崎の船問屋の主人)
・重吉(横浜・住吉の竹の皮の製造販売「大塚屋」の住み込みの若者)
・サク(横浜・住吉の「大塚屋」の向かいにあった貸布団店・万屋に勤めている少女で、1872年に浅野総一郎と結婚)
・山本京平(横浜・住吉の町の有力者で、総一郎とサクの結婚の仲人)
・鈴木恒吉(サクの兄、後に輸入商社に勤めていた時に札幌麦酒の経営陣に加わる。1909年没)
・宮川(神奈川県庁の調度係。内職で金貸しを営む)
・御園徳蔵(上総出身の若い男で、横浜・扇町の「薪炭商大塚屋」従業員)
・ツル(サクの妹)
・マツ(浅野総一郎の長女。1875年9月誕生)
・鈴木儀六(東京・深川の工部省セメント製造所の三等技師。元は旧加賀藩の御典医で、浅野泰仲の知人)
・渋沢栄一(1840年~1931年:東京府瓦斯局と製紙会社(のちの王子製紙)を経営している経済界の大御所)
・大川平三郎(1860年~1936年:渋沢栄一の書生から製紙会社で勤務。のちに「日本の製紙王」と呼ばれた実業家)
・野村靖(1842年~1909年、長州藩士、神奈川県知事)
・仲万兵衛(東京・本所にある絵具商でペンキも売っている商店)
・岩崎弥太郎(1835年~1885年、土佐藩出身で三菱財閥の創業者)
・岩崎弥之助(1851年~1908年、岩崎弥太郎の弟で三菱財閥の2代目総帥)
・宇都宮三郎(1834年~1902年、尾張藩出身で工部省深川セメント工場の技術長)
・朝田又七(1839年~1914年:横浜で海運会社などを営んでいた豪商)
・山尾庸三(1837年~1917年:長州藩出身で、工部卿。長州五傑の一人で官営工場の払い下げの最高責任者)
・コウ(浅野総一郎の三女で1880年誕生)
・泰治郎(浅野総一郎の長男で1884年7月誕生)
・タカ(浅野総一郎の四女で1887年2月誕生)
・良三(浅野総一郎の次男で1889年8月誕生)
・益田孝(1848年~1938年:三井物産)
・大倉喜八郎(1837年~1928年:大倉財閥の創立者)
・川崎正蔵(1837年~1912年:神戸川崎財閥の創設者)
・阿部浩(1852年~1922年:工部省工務部の役人、後に工部省の後、内務省に移籍し東京府知事などを歴任後、衆議院議員)
・古河市兵衛(1832年~1903年:古河財閥の創業者)
・井上馨(1836年~1915年:長州藩出身、内務卿、大蔵省時代の渋沢栄一の先輩)
・伊東巳代治(1857年~1934年:鉱山局長、後に政治家)
・田中長兵衛(1834年~1901年:釜石鉱山の再建に全力を尽くし「日本の近代製鉄の父」とも言われた人物)
・川田小一郎(1836年~1896年:三菱商会の”大番頭”、後に貴族院議員、第3代日本銀行総裁)
・小野義真(1839年~1905年:日本鉄道社長)
・井上勝(1843年~1910年、鉄道局長官、長州藩出身、「日本の鉄道の父」とも呼ばれる人物)
・永山武四郎(1837年~1904年:北海道庁長官で屯田兵の生みの親と言われる人物)
・馬場道久(1847年~1916年:富山・岩瀬村出身の北前船海運業者)
・広海仁三郎(1854年~1929年:加賀・大聖寺(瀬越)出身の北前船海運業者)
・児玉源太郎(1852年~1906年:陸軍次官、日露戦争では満州軍参謀長、陸軍大将)
・岩村通俊(1840年~1915年:初代北海道庁長官)
・穂積八束(1860年~1912年;法学者、1892年、浅野総一郎の長女マツと結婚)
・八郎(浅野総一郎の三男、1891年8月誕生)
・四郎(浅野総一郎の四男、1892年12月誕生するが、2ヶ月後に亡くなる)
・末一(浅野総一郎の五男、1894年4月誕生するが、同年10月に亡くなる)
・笠井順八(1835年~1919年:西日本のセメント王、小野田セメント社長)
・坂内冬蔵(浅野商店に技師として入社)
・ヘンリー・パーマー(内務省土木局顧問技師で横浜の築港の事業責任者、イギリス人の退役陸軍少将)
・松方正義(1835年~1924年:総理大臣)
・ヨハネス・デ・ムーケ(オランダ人技師で、大阪港の設計)
・尾高幸五郎(1843年~1925年:渋沢栄一の会計係、実業家)
・安田善次郎(1838年~1921年:安田財閥の祖、富山出身)
・白石元治郎(1867年~1945年:浅野商店に入社、日本鋼管の初代社長。浅野総一郎の次女マンの娘婿)
・マーカス・サミュエル(1853年イギリス生まれのユダヤ人で、横浜を拠点に貿易商を営む)
・内藤久寛(1859年~1945年:越後出身で明治期の石油産業の開拓者で日本石油を設立し「日本の石油王」と呼ばれた)
・近藤会治郎(1866年~1920年:白石元治郎の大学の同級生で、農商務省勤務後、浅野商店入りし、浅野財閥の石油事業の中枢を担う)
・広井勇(1862年~1928年:土木工学者、港湾工学の権威で東京帝国大学教授)
・周布公平(1851年~1921年:長州藩出身、神奈川県知事)
・榎本武揚(1836年~1908年:農商務大臣)
・大隈重信(1838年~1922年:総理大臣、早稲田大学総長)
・山田又七(1855年~1917年:新潟県出身、宝田石油の創業者)
・渡邊藤(元・宝田石油専務で、東西石油社長)
・森村市左衛門(1839年~1919年:貿易商、日本のセラミック産業の創業者で日米貿易の開拓者として知られる)
・岸清一(1867年~1933年:白石元治郎の帝国大学時代のボート部の先輩でサンフランシスコ在住の弁護士。「近代スポーツの父」)
・ヘンリー・ハンチントン(ユニオン太平洋鉄道の社長でアメリカの「鉄道王」ニューヨーク在住)
・エドワード・ヘンリー・ハリマン(ユニオン太平洋鉄道の社長で、ハンチントンから3代目)
・精一郎(白石元治郎と浅野総一郎次女・マンの長男で、1896年3月誕生)
・琢二(白石元治郎と浅野総一郎次女・マンの次男で、1897年7月誕生)
・アンドリュー・カーネギー(1935年~1919年:アメリカの鉄鋼王)
・荘田平五郎(1847年~1922年:三菱長崎造船所所長、三菱の要職を歴任)
・ポルフィリオ・ディアス(1830年~1915年:メキシコ大統領)
・桂太郎(1848年~1913年:総理大臣)
・小村寿太郎(1855年~1911年:外務大臣)
・セオドア・ルーズベルト(1858年~1919年:アメリカ大統領)
・高橋是清(1854年~1936年:横浜正金銀行の頭取、後に、大蔵大臣、内閣総理大臣)
・橋本梅太郎(1872年~1938年:東洋汽船の青年株主。実業家)
・佐々木岩次郞(1854年~1936年:日本屈指の建築家で、紫雲閣の設計)
・伊東忠太(1867年~1954年:建築界の大物建築家)
・渡辺譲(1855年~1930年:建築界の大物建築家)
・川合玉堂(1873年~1957年:日本画の大家。紫雲閣の襖絵や天井画などを描く)
・ウィリアム・タフト(1857年~1930年:第27代アメリカ大統領、共和党)
・ウッドロウ・ウィルソン(1856年~1924年:第28代アメリカ大統領、民主党)
・今泉嘉一郎(1867年~1941年:白石元治郎と大学予備門以来の同期で、「日本の近代製鉄の父」日本鉄鋼技術史上の功労者)
・岩崎俊弥(1881年~1930年:三菱財閥2代目当主・岩崎弥之助の次男で、旭硝子の創業者)
・水崎基一(1871年~1937年:元東洋汽船の従業員で同志社大学教授。浅野総合中学校初代校長)
・野田卯太郎(1853年~1927年:福岡の平民出身、逓信大臣)
・慶子(浅野総一郎の六女)
・安田善雄(1888年~1923年:安田善次郎の息子)
・孫文(1866年~1925年:初代中華民国臨時大総統。広東軍政府を樹立し中国革命の先駆者)
・朝日平吾(1890年~1921年:安田善次郎を暗殺)
・郷誠之助(1865年~1942年:日本運輸の社長として実業界へ登場し、その後多くの企業の再建を任された実業家)
・井上準之助(1869年~1932年:日銀総裁、大蔵大臣)
・安河内麻吉(1873年~1927年:内務官僚、福岡県知事)
・沢田牛麿(1874年~1958年:内務官僚、安河内麻の後任福岡県知事)
・末兼要(小倉浅野製鋼所常務)
・徳山徳次郞(小倉浅野製鋼所常務)
・若林金吾(浅野セメントの海外販売の責任者)
・藤山雷太(1863年~1938年:大日本製糖の社長)
・後藤新平(1857年~1929年:東京市長、内務大臣兼帝都復興院総裁)
・各務鎌(1869年~1939年:三菱の大番頭。三菱系の東京海上保険の総支配人などを務め、「損害保険業界の父」と言われた人物)
・南(綿貫)左民(1896年~1950年:兵庫県淡路島出身で小牧ダムを進める日本電力の社員で、後に富山県議会銀を経て衆議院議員)
・綿貫栄(1880年~1965年:富山県東砺波郡井波町長。長女かずの婿が南左民)
・綿貫民輔(1927年、富山県東砺波郡井波町(現・南砺市)生まれ。実業家・政治家。綿貫左民の長男)
・金森(浅野家の執事)
・北林惣吉(浅野総一郎の秘書)
・田中義一(1864年~1929年:内閣総理大臣)
・鳩山一郎(1883年~1959年:内閣書記官長、後に内閣総理大臣)
・馬越恭平(1844年~1933年:「日本のビール王」と言われた大日本麦酒社長)
・浜口雄幸(1870年~1931年:内閣総理大臣)
・尾崎行雄(1858年~1954年:東京市長、「憲政の父」)
・サミュエル・ヒル(アメリカの実業家で、アメリカの「道路王」)
・ウィリアム・ミッチェル(サミュエル商会の総支配人。サミュエル商会を退職後は、独立して金融業を展開)
・グリーン(ボストンに本社がある銀行業を手広く商うアメリカの有力企業リー・ヒギンソン商会の幹部)
・フライシャーカー(アングロ・アンド・ロンドン・パリ・ナショナル銀行の頭取)












