南越地域の寺社「麻気神社」(福井県南条郡南越前町牧谷)
(写真下:「式内麻氣神社」の鳥居扁額(福井県南条郡南越前町牧谷)<*2024年8月11日午後訪問撮影>
(写真下:麻氣神社(福井県南条郡南越前町牧谷)<*2024年8月11日午後訪問撮影>
村社麻気神社由緒
当地に饒速日命を祀れる麻気神社あり、大男迹皇子帝位に即き給へる御時此辺を通過され麻績娘子の御病気により遂に(現牧谷)に残し置き給ひしとき饒速日命を祈念されしに直に平癒されし故麻績の麻と病気の気を取りて麻気神社として祀ることとなれり。従って此を麻気村と称するに至れり。後牧の字に改めたり。
この社は創建不明で、由緒も史実的には殆ど分からないが、非常に古い社と見られ、祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)。この麻気神社のある、南越前町の牧谷の集落も、麻気多仁ともいわれ、相当古い集落であることは確かであるが、古文書その他の資料が出てこず、昔からかなり栄えた土地柄と見え旧家の話題はあるが、牧谷がどのような村であったかは資料では確認が難しいらしい。
麻気神社の由緒書によると、往昔、男大迹(おおとの)皇子(後の継体天皇)が大伴金村大連等の要請を受け入れ、帝位につかれることになった時、男大迹皇子(後の継体天皇)が、どこか牧谷の地に潜居されていたとみられ、麻気坂(集落北方の坂を北に越えると、継体天皇に大変ゆかりのある越前市味真野町菅谷に出る)から味真野へ還御されるとき、皇女息長真手王女麻績の娘子を訳あって今の谷に残して出発されたが、間もなく皇妃が病に侵されたとき、この氏神の饒速日命に祈願をされ平癒し、社殿を造営し祭祀したと言われ、そこで「麻績」の麻と「病気」の気をとって「麻気」となったと伝えている。
「麻気神社」の名が、「麻績」の麻と「病気」の気をとって付けられたというのは、単なる語呂合わせの感がするのだが、この「麻気神社」が鎮座する南越前町牧谷の集落は、確かに、北に山を越えると、すぐに継体天皇に大変ゆかりのある越前市の味真野地区に至るので、継体天皇にまつわる伝承が生まれるのも納得するが、継体天皇の后の一人である、息長真手王(おきながのあめのおおきみ)の王女の一人である、麻績娘子(おみのいらつめ)に関する伝承が生まれていることは、非常に興味深い。
麻気神社は延喜式による式内神社と伝えられ、延喜式神名帳にある「越前国丹生郡鎮座 麻氣神社」に比定される論社の一つだが、越前国丹生郡鎮座 麻氣神社に比定される論社は、他にも、麻気神社(福井県丹生郡越前町真木)や酒列(佐桂)神社(福井県越前市牧町)がある。
尚、現在の麻気神社(南越前町牧谷)の隣に建つ同じ南越前町牧谷の小谷山浄福寺(浄土真宗・東本願寺派)に安置されている一体の阿弥陀如来は、身長1.5mの大きさで、金箔は塗り替えられているが、相当古いもので平安期のものではないかという説もあり、この像と同じ頃と思われる地蔵菩薩像が、南越前町牧谷の正円道場に安置されていて、これは共に、牧谷式内麻気神社の御本体だったもので神仏混淆禁止の令により、この2つの像が南越前町牧谷の浄福寺と正円道場に預けられたものと言われている。昔は神仏の区別が判然せず、牧谷の山々には多くの寺が建ち並び、一見「寺城」の観を呈し、谷川を掘って濠とした形跡が残っているというが、1575年と思われるが、織田信長の軍勢によって越前一向一揆殲滅の折、この地にも戦火が及び、全て灰燼と化し、阿弥陀仏と地蔵菩薩だけが残ったので、これを浄福寺他に預け村中で麻気神社を寺の境内に建てて祭った(十五社)が、明治の廃仏棄釈の結果、仏像だけが、預けた寺の中に今でも残っている。
(写真下:麻氣神社(福井県南条郡南越前町牧谷)<*2024年8月11日午後訪問撮影>