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東海地域における北陸ゆかりの地「佐々成政城址と比良城跡」(愛知県名古屋市西区比良3丁目)
- 2024/10/25
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- 佐々成政, 比良城, 佐々成宗(盛政), 府中三人衆, 小丸城, 越前衆
東海地域における北陸ゆかりの地
「佐々成政城址と比良城跡」(愛知県名古屋市西区比良3丁目)
(写真下:佐々成政城址石碑(愛知県名古屋市西区比良3丁目)<*2024年7月26日午前訪問撮影>
佐々成政(1536年?~1588年)は、天文5年(1536)、尾張国の比良城主・佐々成宗(盛政)の第5子、3男として、尾張比良に生れる(生年については、天文8年(1539年)説、永正13年(1516年)説もある)。父・佐々成宗(盛政)、佐々氏は宇多源氏近江佐々木氏の庶流で、「佐々(さっさ)」の姓は、成宗(盛政)の代に改めたとか、織田信長が、佐々木が長いので「佐々」と呼ぶようになったとか言われ、成政が提出した文書に、木の字をつけ損じたのが原因だという説まであり、真偽不明。佐々成政の父・成宗(盛政)は、はじめは尾張西春日井郡・井関城主として、尾張守護・斯波義統(1513年~1554年)に仕えていたが、斯波氏の勢いが衰えると、織田信長の父・信秀(1511年~1552年)に仕えるようになり、天文年間(1532~1555)に比良に築城し、城も比良城に移したとされる。
佐々成政は、幼名与左衛門。後、1561年頃までに内蔵助成政と名乗るようになるが、天文21年(1552年)織田信秀が病死し織田信長が家督を継ぐと、織田信秀に仕えていて天文11年(1542年)・天文17年(1548年)の三河国小豆坂合戦で功があった成政の兄・政次(成吉・隼人正)、孫助(成経)は、信長に仕え、成政は信長の小姓となる。兄・孫助は、弘治2年(1556年)の「稲生の戦い」で戦死、また、兄・政次は永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで戦死。織田信長の小姓、近侍となって仕えていた成政は、兄たちが討ち死にしたため、永禄3年(1560年)、家督を継いで比良城主となり、馬廻衆となる。永禄12年(1569年)頃までに、織田信長直属の親衛隊「黒母衣衆」の筆頭に任じられる。
織田信長による近江国の浅井長政攻め、三好三人衆攻め、浅井長政・朝倉義景連合軍攻め、伊勢国の長島一向一揆攻めなどに従い、天正3年(1575年)には、織田信長による武田勝頼攻めに従い、長篠の戦いで、鉄砲奉行として活躍。同年の天正3年(1575年)織田信長による越前国の越前一向一揆攻めに従い、一向一揆を掃討し平定後、前田利家、不破光治らとともに越前国内の2郡を所領として与えられ、柴田勝家の目付役を命じられる。佐々成政は、小丸城(現・福井県越前市)の築城に取りかかり、小丸城に本拠を構え、府中城(現・福井県越前市)の前田利家や、龍門寺城(現・福井県越前市)の不破光治とともに、「府中三人衆」という共同支配を担う。この佐々成政の越前入国と小丸城に居城を構えたことで、尾張の比良城は廃城となる。
天正3年(1575年)9月頃より、府中三人衆として小丸城(現・福井県越前市)に本拠を構え、府中近辺二郡の共同統治にあたる一方、織田信長が推し進める領土拡張戦にも身を投じ、佐々成政のほか、前田利家、不破光治、金森長近、原政茂ら、越前国内に所領を与えられた武将たちは、「越前衆」という名で編成され、柴田勝家の軍事指揮下に入り、加賀国へ出陣し加賀一向一揆や上杉謙信軍と戦ったり、荒木村重攻めのために摂津国・播磨国にも出兵。天正8年(1580年)には、織田信長より越中の神保長住の戦いの指揮、命令を行うことを命ぜられ、越中に入国。天正9年(1581年)、佐々成政は主君・織田信長より、越前国内2郡の支配から離れ、越中新川、礪波の両郡を与えられ越中国の支配権を委ねられるとともに、越後国の上杉景勝攻めの軍事指揮官として越中国主となり、守山城(現・富山県高岡市)を足場にして、越中各地に転戦し、越中西部を制圧。その後は上杉の勢力範囲にある越中東部にも侵攻し、天正10年(1582年)には佐々成政が富山城を居城とするようになる。
天正10年(1582年)本能寺の変後も、佐々成政は、織田方の武将として上杉軍や一向一揆軍と対峙するが、秀吉と対立を深める柴田勝家に味方し、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは越中に残り柴田方に付く。賤ヶ岳の戦後、佐々成政は加賀国金沢城に赴き、秀吉と面会し、越中国主の地位を引き続き認められ、越中一国をほぼ平定する。ただ、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と対抗し天正13年(1585年)秀吉に降伏。新川郡を除く所領を没収され、妻子とともに身柄は大坂へ移される。天正15年(1587年)九州島津攻めに従軍し、その後、秀吉より肥後国主に任じられ、居城を隈本城に定められる。これに伴い、越中国新川郡及び天正13年(1585年)追加の所領として与えられた摂津国能勢郡の支配から離れる。しかしすぐ肥後国衆一揆が勃発。失政の咎を受け、秀吉より上洛の呼び出しを受け、翌天正16年(1588年)秀吉から切腹を申し付けられ、摂津国尼崎で自害。
(写真下:光通寺の山門と比良城跡の看板(愛知県名古屋市西区比良3丁目)<*2024年7月26日午前訪問撮影>
比良城跡
比良城は、天文年間(1532~1555)に佐々成政の父成宗が築いたもので、東西68メートル、南北72メートル、二重掘が周りを囲んでいたといわれる。南は庄内川を臨み、清須城を守る重要な城であったが、天正3年(1575)廃城となった。成政は織田信長の家臣で、朝倉攻め、長篠の戦などの功により、越前(福井県)小丸の城主となり、その後、越中(富山県)に移った。天正15年(1587)肥後(熊本県)の領主となった。
名古屋市教育委員会
この佐々成政城址石碑は、光通寺(こうつうじ)の向かって左奥にある墓地内に建つが、この光通寺(こうつうじ)は、寛永2年(1625年)尾張国丹羽郡岩倉(現・愛知県岩倉市)の龍潭寺六世養室源育和尚を開祖として、春日井郡比良村(現・名古屋市西区比良)の比良城跡に建立された曹洞宗永平寺系の寺院で山号は長壽山。最寄り駅は、東海交通事業城北線「比良」駅下車、徒歩3分。
(写真下:光通寺の山門(愛知県名古屋市西区比良3丁目) <*2024年7月26日午前訪問撮影>
(写真下:最寄り駅の東海交通事業城北線「比良」駅 <*2024年7月26日午前訪問撮影>