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南越地域の史跡・遺跡「木曽義仲本陣跡伝承の地と大塩八幡宮」(福井県越前市国兼町)
- 2024/11/25
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- 木曽義仲, 大塩八幡宮, 舟橋泰景
南越地域の史跡・遺跡「木曽義仲本陣跡伝承の地と大塩八幡宮」(福井県越前市国兼町)
(写真下:「木曽義仲本陣跡伝承の地」石碑(福井県越前市国兼町)<*2024年8月11日午後訪問撮影>
「木曽義仲本陣跡伝承の地」
寿永2年(1183年)6月10日、源平合戦の際、木曽義仲公 当宮に戦勝を祈願し、この地を中心に周辺山地に陣を構えたという。背後にある堀は当時の堀切の跡である。其の後、建武2年(1335年)以降、暦応年中に至る5年の間、杣山城を含めての周辺に於て戦乱打続き、当宮神主舟橋泰景一族大いに戦功を挙げ、この宮を守ったという。(神司伝来軍記より)
(写真下:「大塩八幡宮附近に於ける木曽義仲軍古戦場配置図」<*2024年8月11日午後訪問撮影>
大塩八幡宮附近に於ける木曽義仲軍古戦場配置図
鎌倉時代、源平合戦の中期、寿永2年(1183年)5月中旬、木曽軍は越中倶利伽羅合戦より加賀篠原(片山津附近)合戦に大勝して敗走する平家軍を追い都へ進攻する爲、この地で作戦会議と陣立を行った。その当時の軍勢はおよそ5万と云われている。(一説には3万ともいう)しかし軍の陣立配置は行ったが合戦はなく、大将木曽義仲はこのお宮で戦勝を祈願した。この時、当宮の拝殿が兵士の失火により焼失した為、急ぎ近くの杣山日吉山王社の拝殿を引取り、三日三晩にて建物を移し建てたという。(現在の重要文化財・拝殿)。当地は北陸道間近にして、東は日野川(叔羅川)を挟んで日野山(小健山)を望み、ここより越前平野が拡がる要害の地にして、其後この地を含め大塩・南条附近では北条執権時代を経て建武中興に至るまで21度に及ぶ戦いがあったという。左図は当時の木曽軍の配置図を古い記録等により再現したものである。
(写真下:「木曽義仲軍本陣 堀切の跡」石碑 <*2024年8月11日午後訪問撮影>
「木曽義仲軍本陣 堀切の跡」石碑(裏)
寿永2年(1183年)6月、大塩八幡宮一帯の山地に軍勢を設けた折、ここに堀切(空掘)を設けたと云う。この奥に2ヶ所あり 寄進人 大塩八幡宮同志会
以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し挙兵。木曽義仲(源義仲、1154年~1184年)は、治承4年(1180年)信濃にて挙兵。治承5年(1181年)越後から北陸道へ進むが、寿永3年(1183年)平氏は北陸道の回復を図り、平維盛を対象として北陸に出陣。越前国から加賀に入っても平氏の進撃が続くが、木曽義仲は、寿永3年(1183年)5月、越中・加賀国の国境にある礪波山倶利伽羅峠の戦いで、平氏の北陸追討軍を破り形勢が再度逆転。木曽義仲軍は、京都を目指して進軍し、加賀国から、寿永二年(1183)6月10頃には越前の国府(現・福井県越前市)に進出。大塩八幡宮に本陣を置き、近江から京都に入るにあたっての軍議を開き、6月13日には近江国に入り、7月28日に木曽義仲は入京を果たす。
なお、「木曽義仲本陣跡伝承の地」石碑や「木曽義仲軍本陣 堀切の跡」石碑は、大塩八幡宮の拝殿の奥にある幣殿の更に裏手の山にあるが、距離的には、幣殿のすぐ後ろの場所で、幣殿の向かって右側のゆるい遊歩道を登ったところにある。
(写真下:大塩八幡宮<*2024年8月11日午後訪問撮影> ⇒「大塩八幡宮」(福井県越前市国兼町)
(写真下:大塩八幡宮の拝殿<*2024年8月11日午後訪問撮影>
(写真下:大塩八幡宮の幣殿<*2024年8月11日午後訪問撮影>
(写真下:「木曽義仲本陣跡伝承の地」石碑へのアクセス:幣殿の右横の道へ<*2024年8月11日午後訪問撮影>
(写真下:「木曽義仲本陣跡伝承の地」石碑・「木曽義仲軍本陣 堀切の跡」石碑より先の展望台に通じる道は立入禁止になっていた。<*2024年8月11日午後訪問撮影>
源平合戦の際、寿永2年(1183年)、木曽義仲が平家を追って、境内に本陣を置き、必勝を祈願したと伝わることで知られる大塩八幡宮は、その幣殿の後ろに「木曽義仲本陣跡伝承の地」の碑が建ち、「木曽義仲公ゆかりの社」の石碑が二の鳥居の脇に建っている。大塩八幡宮の由緒自体は、仁和3年(887)、紀中納言友仲が無実の罪で越前国府に流罪となった際、無実の罪を晴らし京へ戻れることを、この地で日夜祈願したところ、念願成就し、2年後の889年(寛平元年)に朝廷に復帰することができ、この話をうけた宇多天皇の仰せにより、京都岩清水八幡宮の分霊を勧進し大塩八幡宮が建立されたと伝えられている。越前国府を守るために北向きに建てられた全国でも珍しい神社。
拝殿は、これほどの舞台を備えた大型拝殿は日本には2~3か所しかないといわれ、国重要文化財に指定されている。拝殿は室町時代の建造物と推定される。社殿によれば木曽義仲が平家を追ってこの社に陣を張った折、兵火により焼失したのを誠に申し訳ないと、南越前町にあった日吉山王社の拝殿を三日三晩で移築したと伝えられている。拝殿の向かって左には、南北朝時代に鋳造された福井県指定文化財の梵鐘があり、元は滋賀県にあったものを、慶長20年(1615年)越前府中城主本多富正によって大塩八幡宮に寄進されたもの。境内には6つの境内神社があり、なかでも疱瘡の神様の寿翁神社(疱瘡神社)が有名。朝倉孝景公の息女、庖瘡に悩されたのをこの社の守札により、無事全快したと伝えられる。
大塩八幡宮は、鎌倉幕府からは朔幣田、足利幕府の杜殿修復、朝倉家の社殿並びに大鳥居の寄進等、領主、国司の崇敬厚く荘厳を極めたが、天正年間一揆の際、社殿の一部破壊、神領の没収など、衰退に傾くも、慶長8年(1603年)、福井藩祖の松平秀康により社領30石、元和9年(1623年)には福井藩主の松平忠直により20石加増以来、順次造営補修が続けられて、また江戸時代を通じて松平家(福井藩)本多家(府中藩)代々から崇敬された。
(写真上:「木曽義仲公ゆかりの社」石碑)<*2024年8月11日午後訪問撮影>
(写真下:二之鳥居脇の駐車場にある「大塩山城の歴史」案内板)<*2024年8月11日午後訪問撮影>
大塩山城の歴史
この山は、旧桜井の峯と称し、山城が設けられる以前の昔、奈良時代、このところに延喜式内社という『天八百萬比咩(アメノヤオヨロズヒメ)神社』が祀られていました。鎌倉時代の文暦2年(1235年)3月、現在の八幡宮境内に遷座されるまで、この山頂にあったと伝えています。源平時代の寿永2年(1183年)6月、今の長野県木曽谷出身の木曽義仲が軍勢を率いて、この山城を築き、この山一帯に軍勢を配置したと云われています。木曽義仲軍の滞在は短い期間ではありましたが、旧武生市内の府中城からこの附近にかけて、その人数3万から5万と伝えています。現在は本丸跡などの土塁や砦構等、堀切(空掘)の跡などが残っています。其後、南北朝時代の延元元年(1336年)12月、杣山城にあった瓜生保の武将、瓜生照一族が、この大塩山城に陣を構え、日野川の各所で戦い、見事勝利してこの山城を守ったと伝えています。 以上
平成24年(2012年)10月 大塩谷「巴会」 王子保地区自治振興会