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首都圏の中の北陸ゆかりの地「紀尾井町事件(大久保利通暗殺事件) 刑死者の墓」(東京都台東区谷中墓地)
- 2023/4/25
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首都圏の中の北陸ゆかりの地
「紀尾井町事件(大久保利通暗殺事件)刑死者の墓」(東京都台東区谷中墓地)乙8号3側
(写真上:谷中墓地の紀尾井町事件の大久保利通暗殺実行犯の墓 (*2023年4月18日訪問撮影)
紀尾井町事件(大久保利通暗殺事件)は、1878年(明治11年)5月14日午前8時ごろ、内務卿大久保利通が馬車に乗って三年町三番地(現・霞ヶ関)の私邸を出発し、赤坂仮御所(現・迎賓館)へ向かう途上の紀尾井町の路上で、午前8時30分ごろ、斬奸状をたずさえた士族6名によって暗殺された事件。
従来一般に「紀尾井坂の変」と称されてきたが、実際に大久保利通が暗殺された場所は、紀尾井坂ではなく、紀尾井坂に至る2百メートルほど手前の壬生基修邸(現・ホテルニューオータニ)と、北白川宮能久親王邸(以前の赤坂プリンスホテル)の間の路上で、紀尾井町の紀尾井町通りで、「紀尾井町事件」の名称が定着しつつある。
実行犯は、石川県士族の島田一郎(一良)、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一の5名に、島根県士族の浅井寿篤の計6名。その中でも特に中心的存在が島田一郎。尚、脇田巧一は、暗殺実行にあたり罪が家に及ぶのを恐れて士族を辞めて別家し平民となっている)。暗殺事件の実行犯6名は犯行後に自首し、6名全員、明治11年7月27日、市ヶ谷監獄で斬刑。大久保利通を暗殺した紀尾井町事件の暗殺犯6名の墓は、広大な谷中墓地の乙8号3側に、向かって左から、杉村文一、杉本乙菊、脇田巧一、長連豪、島田一良、浅井寿篤の6名の墓が並ぶ。
(写真上:谷中墓地の島田一良の墓 (*2023年4月18日訪問撮影)
■島田一郎(しまだ・いちろう)1848(嘉永元年)~1878年(明治11年)
大久保利通暗殺の首謀者。朝勇(ともいさみ)。「一良」とも書く。金沢生まれ。1863(文久3年)15斉で割場附足軽御雇、やがて加賀藩の壮猶館の稽古方手伝となる。1864(元治元年)には足軽並となり、第1次長州征伐に出陣。1865(慶応元年)京都に派兵される。1868(明治元年)戊辰戦争では北越各地で転戦。1869年(明治2年)3月、功により御歩並に昇格。切米30俵を受ける。同年、東京守衛の金沢藩兵として(版籍奉還で加賀藩は金沢藩となる)初めて東京に上り約4か月滞在する。1871年(明治4年)9月、准中尉(年給33石)となる。廃藩置県で藩兵は解散、10月兵学修行を命ぜられて再び上京して陸軍士官斎藤正言の塾でフランス式兵学を修める。明治6年の政変(1873年)後、国事に奔走するようになる。明治7年(1874年)征台の役や佐賀の乱に関する建白を杉村寛正一派とともに提出する。その後帰県。以降、「三光寺派」の頭目として、県政界の一勢力を築く。明治8年(1875年)2月、忠告社結社式に同志を率いて入場しようとして拒否され、大口論となり、杉村一派とたもとを分かつ。1876年(明治9年)、萩の乱などに呼応して挙兵を計画するが失敗。その後、長連豪と提携。1877年(明治10年)、西南戦争に呼応して挙兵を計画するが断念。要人暗殺に転ずる。1878年(明治11年)5月大久保利通を暗殺。同年7月刑死。享年31歳。
(写真上:谷中墓地の長 連業の墓 (*2023年4月18日訪問撮影)
■長 連豪(ちょう・つらひで)1856(安政3年)~1878年(明治11年)
大久保利通暗殺の首謀者。はじめ此木小次郎。生まれは金沢でのちに能登の穴水に移る。生家は長氏の末流で此木氏を名乗り宗家長氏に仕えていた。明治2年、私有の家臣が廃止されたのをきっかけに、長姓を名乗るようになった。明治7~9年にかけて鹿児島にわたり桐野利秋の影響を受ける。帰県後は、西郷隆盛・桐野利秋をまねて、石川郡高尾村(現・金沢市)に隠棲して農事に従い、桐野から送られた猟犬を連れて闊歩していた。明治9年秋には萩の乱などに呼応しての挙兵に失敗した島田一郎と連携を取り合うようになり、要人暗殺を計画する。明治11年5月大久保利通を暗殺。同年7月刑死。享年23歳。
(写真上:谷中墓地の杉本乙菊の墓 (*2023年4月18日訪問撮影)
■杉本 乙菊(すぎもと・おとぎく)1849(嘉永2年)~1878年(明治11年)
大久保利通暗殺犯の1人。金沢生まれ。憩(作左衛門)の長男。家禄は45石余り。平素、島田一郎を尊敬し、明治6年征韓論がおこると、島田一郎とともに征韓の先鋒たらんとした。松田克之とともに大久保暗殺を計画。明治11年5月大久保利通を暗殺。同年7月刑死。享年30歳。
(写真上:谷中墓地の脇田巧一の墓 (*2023年4月18日訪問撮影)
■脇田 巧一(わきた・こういち)1849(嘉永2年)~1878年(明治11年)
大久保利通暗殺犯の1人。金沢生まれ。加賀藩士脇田九兵衛の子。家は代々3百石。明治6,7年頃、官立変則中学校の監正となり、当時その学校の生徒だった松田克之と親しくなる。長連豪を通じ西郷隆盛に私淑していく。大久保暗殺計画に加わり、上京にあたり、家系を汚すのと累が親戚に及ぶのを恐れて別家し士族から平民になった。明治11年5月大久保利通を暗殺。同年7月刑死。享年29歳。
(写真上:谷中墓地の杉村文一の墓 (*2023年4月18日訪問撮影)
■杉村 文一(すぎむら・ぶんいち)1861(文久元年)~1878年(明治11年)
大久保利通暗殺犯の1人。金沢生まれ。杉村寛正(忠告社を結成した人物)の末弟。官立変則中学で学び大野成忠と親しくなる。松田克之とも親友だったという。明治10年、島田一郎から要人暗殺計画を持ちかけられていた大野にその計画を打ち明けられ、これがきっかけで最年少で大久保暗殺実行犯になる(なお、大野は暗殺計画から脱落する)。明治11年5月大久保利通を暗殺。同年7月刑死。享年18歳。
(写真上:谷中墓地の浅井寿篤の墓 (*2023年4月18日訪問撮影)
■浅井 寿篤(あさい・ひさあつ)1852(嘉永5年)~1878年(明治11年)
大久保利通暗殺犯の1人で唯一の島根県人(*当時の島根県は現在の鳥取県域を含む)。鳥取藩士浅井隼太の次男。1876年(明治9年)3月上京して、4月、六等巡査となる。1877年(明治10年)2月、西南戦争が起こると大分で西郷軍と戦った。8月東京に凱旋し、2週間の慰労休暇中、禁令を犯して遊興したため1878年(明治11年)2月免職になる。同年3月、知人の橋爪武を訪れて、暗殺計画を知らされ、これに関わるようにんっていった。明治11年5月大久保利通を暗殺。同年7月刑死。享年25歳。